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February 13, 2007

「政治的に正しい日本語」を考えてみてはどうか

ことばは世につれ、というかどうか知らないが、時代とともに、言語は変わっていくものだ。流行語は次々と生まれては陳腐化していくし、広く通用していた表現が消えていったりもする。

最近も、そうした重要な変化があったらしい。

それまで何の疑問ももたれずに使われてきたことばが、問題ありとして突然使われなくこともままある。今回の変化は政界発だ。今のところはまだ政界の中にとどまっているようだが、おそらくそのうち放送・出版業界あたりにも伝播するのではないか。やがて庶民のことばにまで影響が及んでくるかもしれない。

今回問題となったのは、「人間を人間以外のものにたとえる表現」だ。これまで私たちは、比喩表現の中でこれを幅広く使ってきた。学校国語で習った記憶では、比喩にはいくつかあって、代表的なのは直喩と隠喩だろう。前者は「一つの事物を直接に他の事物にたとえる」(大辞林)かたちの比喩であり、「AはまるでBのようである」といったふうに、AとBがちがうものであることがはっきり示される。これに対して後者は「言葉の上では、たとえの形式をとらない比喩」(同)で、大辞林には「雪の肌」といった例が出ている。いうまでもないが、少なくともこれまでの日本語では、これは「雪のように白い肌」を意味するものであって、「おまえの肌は雪でできている」といっているわけではない。いや、なかった。しかしもう、今はちがうらしい。

これが問題になるのは、人間を人間でないものにたとえることが、その対象となった人間を、実際に人間でないと考えていると受け取られるからであるようだ。名前は知らないがある政治家は「実際にそう考えているからそう発言したのであろう」といったような意味のことを言ったらしい。私はそうは思っていなかったがそうなのか。なるほど。人間が放ったことばには、本心があらわれるのだ。だから、人間を人間でないものにたとえることは、その対象となった人間を貶める行為になるというわけだ。

専門外なのでよく知らないが、これは、日本語の歴史の中でもかなり大きな変化なのではないかと思う。比喩のうち、隠喩の一部はもはや危険性の高い表現になったのだ。政治関連ではないだろうが、先ほど例に出した、大辞林から引用した「雪の肌」も、この意味ではかなりまずい。いわれた側は、「私は雪男(または雪女)ではない!」と怒り出すおそれがある。三省堂の皆さん、近いうちに改訂が必要になるのではないか。

実際、この種の例は枚挙に暇がない。「ドジでノロマなカメ」みたいな直接的なやつもさることながら、「猫の手も借りたい」「職場の花」「紅一点」とかはみんなだめだ。「人間は考える葦である」なんてのは、動物ですらない植物にたとえる不届きな表現。生き物ですらないものにたとえるのはさらに輪をかけた暴言だ。企業経営者も、これからは「人材」なんてことばをうかつに使わないほうがいい。組合で吊るし上げられるのがオチだ。「組織の歯車にはなるな」「彼は大器晩成型だな」「彼は当社の司令塔だ」「彼女がこのプロジェクトの牽引車になってくれた」なんかに至っては、辞任必至となろう。

それからおそらくは、ことわざのうちかなりの数のものも引退を余儀なくされるだろう。「犬も歩けば棒に当たる」「出る杭は打たれる」 「ぬかに釘」「猫に小判」「豚に真珠」「井の中の蛙大海を知らず」「魚心あれば水心」「馬の耳に念仏」「同じ穴の狢」「鬼に金棒」「鬼の居ぬ間の洗濯」「鬼の念仏」「鬼の目にも涙」「鬼も十八番茶も出花」「飼い犬に手を噛まれる」「蛙の子は蛙」「河童の川流れ」「雉も鳴かずば撃たれまい」「窮鼠猫を噛む」「騏驥も老いては駑馬に劣る」「腐っても鯛」「蜘蛛の子を散らす」「鶏口となるも牛後となる勿れ」「山椒は小粒でもぴりりと辛い」「獅子身中の虫」「蛇の道は蛇」「朱に交われば赤くなる」「水魚の交わり」「雀百まで踊り忘れず」「立つ鳥跡を濁さず」「蓼食う虫も好き好き」「竹馬の友」「猪突猛進」「鶴の一声」「鳶が鷹を生む」「虎の威を借る狐」「掃き溜めに鶴」「両手に花」…。探せばまだたくさんあると思う。豊かな日本語表現の一部が失われるのは残念だが、これも時代の変化だ。

特に政界は、震源地だけあって、ことさら厳しいだろう。「政権は早くもレイム・ダック」なんてのは絶対に禁句。ベストセラー「負け犬の遠吠え」の著者である酒井順子さんも、ご本人がどう考えているかは知らないが、たとえ勧められても選挙には出ないほうがいいだろう。袋叩きにされるのは必定だから。人間を機械にたとえるなど、さらにもってのほかだ。ちょっとちがうが、「内閣は時限爆弾を抱えている」などという表現も、「閣僚をテロリスト扱いする気か!」といわれてしまうかもしれないのでご注意。

いや、これはまさに一大事だ。言語学者の皆さんも、さぞかし大変だろうが、ある意味「稼ぎどき」かもしれない。…冗談はさておき、今私たちは「どんなことばを使ったらいいのか」について、確たる自信を持てずにいる。今こそ「政治的に正しい日本語」に関する国民的な一大議論を巻き起こすのがいいのではないか。「鶴(の声が遠くまで響くように、発言の影響力の強い人)の一声」で皆の関心を集める、というわけにはいかないだろうけど。

実は札幌大学の高橋助教授のブログを見て知ったのだが、比喩には直喩と隠喩のほかに「提喩」とか「換喩」とかいうのもあるらしい。「提喩」は、たとえば「花見」の「花」が「桜」を指すように、「部分を全体で表す比喩」である由。一方「換喩」は「隣接性に基づく比喩」なのだそうだが、この例として「キツネうどん」が挙げられていて、その解説として「『きつねは揚げが好きである』という俗説に基づいた隣接性」とあった。キツネって揚げが好きだったのか?…というどうでもいい疑問はともかくとして(じゃあタヌキは天かすが好きなのか?という疑問はさらにどうでもよくて)、上に「隠喩」として挙げたものの中に、ひょっとしたら本来は「提喩」とか「換喩」とかに属すべきものが入っているかもしれない。そこらへん保証しないので、ご関心のある向きはご自分で確かめられたい。

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