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February 09, 2007

「ジャーナリスト宣言」できないジャーナリストを誰が信用するだろうか

せっかく「宣言」してがんばってると思ったのに、もう撤回しちゃったのだろうか。

いや本当は「撤回」じゃなくて「CMの自粛」らしい。ということは、そのうちまた再開するということだろうか。ただ、こういうかたちで引っ込めたものをまたもう一度表に出すというのは、相当勇気というか鉄面皮というか。そういったものが必要だろうと思う。勝手にこれは事実上の撤回であろうと推測してみる。よく雑誌でも「廃刊」といわずに「休刊」というし、そういうものなのかと。

で、この新聞社については以前こんなことを書いたのだが、いいたいのは要するに同じことだ。今こそチャンスだ、がんばれ、と。これまでさんざん同種のチャンスを逃してきているんだからもう期待するだけ無駄だとシニカルになる向きもあるだろうが、私はもう少し気長に行きたいので、ちょっとアジってみる。こういう事態こそ、「ジャーナリスト宣言」が本物かどうか試される正念場ではないか。仮にもジャーナリストを名乗る者が、ここで殻に閉じこもってどうする。

朝日新聞社の綱領に、こんな一節がある。

真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。

朝日新聞社のサイトには、盗用の発覚を伝えるニュース処分を伝えるニュースが出ている。もちろん必要なところだが、まだ不充分だ。ことの経緯の詳細な報告は当然のこと、当時の職場の状況や慣行・雰囲気、原稿のチェック体制と実際の運用、盗用につながりがあると思われる背景をすべて洗いざらい。それから、再発防止のためにとられた措置についても、いかなる検討の結果決定されたのか、それが本当に有効なのか、継続的に検証していくのがスジだろう。

いや正直なところ、別にそんな細かいことまで私は興味ないが、少なくとも朝日新聞社にとっては、社を挙げての「宣言」を事実上撤回せざるを得なくなるほどの一大事のはず。「大事件」の際に新聞社がやるアプローチを総動員して徹底的に報道するのが公正な取り扱いというものだ。あ、それから、いかに自社の職員とはいえ、取材源を囲い込むのはよくない。ぜひここは全マスコミに関係者への直接取材をしてもらうべきだろう。こういう状況がことのほかお好きな週刊誌などイエロー系のメディアにも、当該記者の生い立ちや経歴、思想信条や学生時代のエピソード、近所の評判から抱えていた家庭問題まで、洗いざらいあることないこと書き立てていただかなければ、「読者の期待」には応えられまい。

…まあそういう暴論はおいといて、少しまじめに。朝日新聞社のサイトには、「ジャーナリスト宣言」のページがまだ残っている。CMを自粛はしたが「宣言」自体を捨てたわけではないということだろう。こんなくだりがある。

「ジャーナリスト宣言」は、メディア環境が激変するこれからの厳しい時代を生き抜いていくために、社員の一人ひとりが、真実と正義に根ざす「ジャーナリズム」の原点に立った行動をしていかなければならないという、新聞人としての決意表明です。

「宣言」も「表明」も、外部に向けてこそ意味がある。表に出せない「決意表明」など、放棄されたに等しい。ジャーナリストであると「宣言」できないジャーナリストを誰が信用するだろうか。「宣言」の封印は、「ジャーナリスト」であることを事実上放棄してしまうようなものだ。記者の皆さん、それでいいのだろうか。こういうときこそ、「ジャーナリスト宣言」に基づいて、ジャーナリストとして「すべきこと」に取り組むべきではないのか。自社の不祥事から逃げずに正面から取り組むなら、「ジャーナリスト宣言」を引っ込める必要などない。むしろ逃げない姿勢を貫くために、自分たちを奮い立たせるために、今ほど「ジャーナリスト宣言」が重要なときはないのではないか。

「ジャーナリスト宣言」のCM第3弾は、こんなことばだった。

「無関心が真実を見えなくしている。ジャーナリスト宣言。 朝日新聞」

無関心は悪だ、という指摘。けっこう踏み込んだ主張だと思うが、あえて踏み込んだわけだ。ならば自社の不祥事に対する外部の関心を封じようとするべきではない。今は自社やその職員が引き起こしたことに関する「真実」に社会の関心が集まっている。身を低くして飛んでくる弾をよけようとするかのような今の姿勢は、そうした社会の関心を封じて、無関心を喚起しようとしているようにすら見えるが、それはジャーナリストにふさわしい振る舞いなのだろうか。「真実」を見るために「関心」が必要で、その「関心」を呼び起こすのがジャーナリストの仕事だろう。ならば、たとえどんなに叩かれてもネタにされても、「ジャーナリスト宣言」という旗を隠すべきではない。むしろ不祥事を重く受け止めるからこそ、「ジャーナリスト宣言」が必要なのではないだろうか。

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Comments

ジャーナリスト宣言に、ver.を併記してもらうのはどうでしょう?
先日までのものがver.1.2だとすれば、自粛を解いた時のは2.0という感じで。(今までの朝日で言えば、1.0→1.1→1.2。自粛明けに発表するのが2.0)

出来ればこれを朝日新聞だけがやるのではなく、各マスコミにもやってもらいましょう。
各々の『ジャーナリスト宣言』を。

それぞれの捏造や改ざんなどが明らかになる度に、彼らのジャーナリスト宣言のversionも上がっていくようにします。それだけで情報の精度などを保障はできないとしても、彼ら自身が外部に向けて出す『失敗した回数』(=バレてしまった回数?)の目安にはなるかと。

ま、もっと厳しくするのであれば、各自がジャーナリスト宣言に反するような捏造が明らかになる度に、放送免許の停止なり記者クラブからの除名なりを"自主的に"行ってもらうとか。回数×日数という感じで。(1回目なら1日、10回目なら10日とか。件数でカウントするともっとすごい事になっていくでしょうけど、宣言のバージョンアップが追いつかないかも)

Posted by: 名無之直人 | February 09, 2007 06:00 PM

私はマスコミに関して
期待するだけ無駄という立場ですが
甘えられる環境にいる
マスコミの人間が自分に厳しくなるのは
無理だと思います。
新聞の特殊指定でしたか・・
まずこういうものからまずあらためないと。

Posted by: とりばち | February 09, 2007 07:27 PM

何となく想うのは...
その程度の「宣言」だったから引っ込めてしまうのだろうということ。ああした意味合いで出てきた「宣言」なんて、そんなものなのかもしれないってこと...。声高に宣言とか言う前に、できることは、様々、あるような気がします。

Posted by: kwmr | February 09, 2007 10:47 PM

コメントありがとうございます。

名無之直人さん
いろいろアイデアはありそうですね。最近はいろいろなところで企業に対する監視の目が厳しくなってますから、法違反の場合は、業務一部停止なんていう措置もあってしかるべきなのかもしれません。放送局もひとつじゃありませんしね。

とりばちさん
「無理」というのは簡単ですが、それでは何も変わりません。特殊指定は根拠が薄いと私も思いますが、それにせよこれにせよ、ではどうするかを考えたほうが生産的だと思います。

kwmrさん
あの会社の方も、大半は真剣に考えていて、深刻に受け止めているのだと思います。ただ自社に不利なことは言い出しづらいという状況なのではないかと。このあたりはどの業界でも同じですね。マスメディアも特別ではないと思います。私としては、きっと社内にいるであろうそうした人たちを少しでも応援できたらいいな、と。

Posted by: 山口 浩 | February 10, 2007 12:19 PM

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