「教員の質」をめぐる三者三様の「反対」
2007年2月23日付朝日新聞「三者三論」で、「教員の質」問題をとりあげていたのだが、これがちょっと面白かった。意見はそれぞれちがうのに、「教員免許更新制反対」だけは一致していて、しかも提唱する対案がそれぞれそこはかとなく我田引水っぽいところが。
「三者」だから登場するのは3人。まずは元都教委統括指導主事の鈴木義昭氏。本題と関係ないが、職業で「元○○」と書かれると、なんとも想像力をそそられるね。今は何してるんだろう?と。「教員の質」を語るには現在の職業よりこっちの「元」のほうがいいということなんだろうけど。ちなみにこの方、「教員改革―「問題教員」と呼ばれる彼らと過ごした三年間」なる本を出版されているのだが、統括指導主事のころのご経験なんだろうな。
で、問題のご主張だが、「授業力の不足、何より深刻」とのこと。ふうんそうなのか。都教委が01年度から「指導力ステップアップ研修」を始めたところ、「コミュニケーションが取れない教員と、子どもの評価ができない教員が特に増えていることがわかった」のだそうだ(01年度からの数年間で急増したのか?始める以前とは比べられないよねぇ始めてないんだから)。どうもこれが「授業力」の不足という主張の根拠らしい。要するにここでいう「授業力」ってのは、「指導力不足教員」の「指導力」と同じものってことだな。だったら同じ呼び方をしてくれればいいのに。
でも待てよ?この「指導力ステップアップ研修」、ちょっと調べてみると、対象者ってほんのわずかじゃん。東京都の「平成18年度公立学校統計調査報告書」によれば、都の公立学校の教員は全部で59,345人いる。一方平成17年度に「指導力ステップアップ研修」を受けたのは12人。これで全体を語ろうというのはあまりにも無理がある。これは何つうか、基礎的な情報リテラシーの問題だよなぁ。
まあ、実際に「研修」を受けた人以外にも問題教員はいるんだろうから、その点はおいとくとして、問題は結局「どうやって認定するか」なわけだ。鈴木氏が教員免許更新制に反対するのもその点から。つまり「認定が難しいからかえって問題教員にお墨付きを与えてしまう」という懸念がある由。なるほど組織をよくわかってらっしゃる。で、対策はというと、よくある「学校経営や組織のあり方を企業家に聞いたり、子どもの心や犯罪について臨床心理士や弁護士に話を聞いたりするような研修」は実践的でないからだめ、と。代わりに「学校現場で長年教員を務め、授業をよく知っている教委の指導主事クラスを、教員養成大学の教官として数年間出向させる」のがよいと。それって「自分がそうなりたかった」ってことなのか?というつっこみは、「元」のことを考えるとしゃれにならんかもしれんので控えておくけど。
2人めは園田学園中学・高校校長で元大阪府教委理事の野口克海氏。「教える能力は落ちていない」と反論。「教員の質が落ちたかどうかを論じる前に、教員に必要な資質とは何かを考える必要がある」とまずはもっともなご主張。で、そりゃ何だいというと、①授業、②子どもとの人間関係、③きちんと出勤し事務処理をこなすこと、④保護者や地域の人との人間関係、なんだそうだ。3つめはすごいね。「きちんと出勤し」だって。そりゃあ必要な資質だよなぁ。教員というより、社会人として。てことは、「きちんと出勤し」ない教員もいるってことだな。まあ、きちんと出勤しない会社員もいることだし、・・・かどうかは知らないが、少なくとも、きちんと出勤しない公務員というのは某県にいたよなぁ。あ、そういえば、私の職場については知らないが、大学教員にもそういう人はいるらしい。…まあいいや。要するに、一部の問題教員はともかく、全体の水準は下がっていないのではないかといいたいわけだろう。
ではなぜ問題がおきているのかというと、今の子どもが傷つきやすくなっていること、30~40代が少なくて問題対処のノウハウ伝承が進まないことなど、現場感覚からくる指摘が。しかし、それもさることながら、「学校の社会的地位が相対的に下がった」という指摘もあって、これはけっこう本質を突いていると思う。どこかのテレビでビートたけしが同じようなことを言ってたっけ。じゃあどうするのっていうと、教員免許更新制のような「小手先の制度改革」とか、「『評価の専門家』と称する第三者」に頼るのではだめで、教員を学校現場で育て上げるしくみが必要だと。ふうんそうなのか。とはいえ「思い切った教員の待遇改善を」みたいな主張が先に立ってるのは誤解されるかも。教員数の増加とか学校設備の改善とかならわかるけど。
3人めは上越教育大学助教授の佐久間亜紀氏。こちらは研究者らしく「感情でなくデータで語ろう」と。「教員の質をどう数値化するか。各国の研究者が頭を悩ませているが、確立した手法はない」と。「データに基づかずに感情論で改革を進めても、質の向上にはつながらない」という指摘はごもっとも。ただ、その「データ」とやらを分析するのがご本人たちの仕事であることからすると、この種の発言はどうしても「自分に仕事をよこせ」的発言と見られかねないところはある。それと、教員免許更新制は、教員の人材確保さえ難しくするだろう」という指摘も、同様に客観的な根拠はないよね。「データで語ろう」と言うならまず、教員をめざす者の動機が「公務員としての安定性」にあることとか、「身分保証がなくなったら教員にはならない」という人がどのくらいの割合いるかという点なんかを論証すべきだろう。
この方も、外部の力より既存の「校内研修」など学校内での取り組みを重視する。「学級の状況を把握し、とっさに判断し、対応するという高度に専門的な能力は、現場の研修を通してしか身につけられない」と。そのためには教員配置を変えて教員に時間の余裕を、と。まあそうなんだろうねぇ。問題は、制度をいじってる側がこのあたりをやる気がさらさらなさそうなことなんだけどね。
教育ってのはなまじ「素人」でも口を出せるから、「プロ」の方々はたいへんだ。私もまだ新米教員だからどちらかというと素人に近いわけだし、高校より下の年齢の子どもたちの教育については事情を知らないから、まあ素人みたいなもんだろう。よって私の書いていることも「素人が何言ってやがる」ぐらいに見えるんだろうが、「プロ」の人たちの情報発信が不足していることも、問題をややこしくしている原因かも、とは思う。
現場の教員の方々は何かとさしさわりがあってやりづらいだろうけど、研究者とか校長さんとか、そういう立場の人は、もっと「世の中」に向けて意見を出していったほうがいいんじゃないだろうか。今回のみたいになんだか我田引水っぽく受け取られるとかえって誤解されるかもしれないが、少なくとも、外部からの意見におかしいところがあるんだったら、もっと大きな声で反論してもらいたい。たとえば、教育における親の責任の重さなんかは、もっともっと強調されてもいいように思うな。これ言うと学校の価値を低めるとか思っちゃうのかもしれないけど。
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Comments
本業のプロの方は守秘義務等があって実際の現場の大変さを公表することははばかられると思います。
そもそも子どもが(人が)好きで仕事をしているので、悪口はいいたくないはずです。(それで、すべて自分のせいだと思ってしまう方が病気になったりします)
意外と病気になる先生に「いい先生(よすぎる?)」が多いのも私の印象です。ジャイアンみたいな子が大きくなって節度を知り、先生になるといい先生になるんじゃないかと私は思います。
ほとんどすべての人は教員よりもいい1時間の授業がでると私は思います。しかし、その人が6年間なり、3年間なりを平均的に高いアベレージで授業してゆけるとかというとそうではないと思います。教員の専門性(授業力)とはそういう力をさすのではないかと思っています。
先日ルソーのエミールを読んでいたら
「一般の意見に反して、子どもの教師は若くなければならない。できれば教師自身が子どもであれば最も良い」と書かれていて、キャリアが教師力を阻害することもあるとの指摘は興味深いなと思いました。
Posted by: padus | February 27, 2007 01:33 AM
padusさん、コメントありがとうございます。
現場の方の「守秘義務」がどの程度のものなのか知りませんが、一般論として語る分にはけっこう言える部分があるのではないかと思います。より突っ込んだ話は、校長みたいな管理者とか、あるいは研究者とかみたいなフィルターを通す必要があるかもしれませんが。
きっと、外部の素人たちがぐちゃぐちゃ言ってることに対して、いろいろ言いたいことがあるんじゃないかと思うんです。一部のマスコミとか政治家とかが無責任にたれ流す悪いイメージだけで語られることが多いというのは、どうもよろしくないと。
「元ジャイアン系」というのは、ヤンキー先生みたいな感じなんですかね。単純なタイプ論はどうかと思いますが、興味深い話です。ともあれ、一生懸命な先生たちを応援する風潮がもっと出てくればいいな、と思いました。
Posted by: 山口 浩 | February 27, 2007 01:56 AM