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「交わした文書がすべてなんだろう。このように思います。」

こういう文書があって、読んでみると、10ページの終わりごろに、こんなことばが出てくる。

「交わした文書がすべてなんだろう。このように思います。」

いやそうなんだよな、まったく、と思った話。

上記の引用元は、知ってる人も多いと思うが、2006年9月11日に日本記者クラブで行われた「自民党総裁候補討論会 『どんな国、どんな社会を目指すのか』」の議事録だ。引用部分は、安倍官房長官(当時)が、日中国交回復に関する中国側のいわゆる「二分論」について述べたもので、要するに、日本側は二分論をとっていないという話だ。

別にこの見解そのものについてどうこう言うつもりはない。うろ覚えでは、国際法上は交わした文書だけではなく、口頭の合意にもそれなりの意味があるはずだから、この発言は国際法的には誤りではないかと思うわけだが、素人が口を出して面白い話でもないし、そもそもこの発言のいわんとするところはわかるからだ。

国際的なものに限らず、国内政治においても私人間でも、あらゆる交渉とか議事とかにおいて、相容れない対立を乗り越えて「合意」という成果を出すために、同床異夢をあえて放置するという手法がしばしば使われる。具体的なやり方は、あいまいな表現を使う、言語ごとにニュアンスのちがったことばを使う、合意すべき内容を分割してその一部だけを文書にするなどいろいろあるわけだが、その中の1つに、「正式の文書以外の手段で補足する」というものがある。典型的なのは口頭によるものだが、非公式文書とか、そういうものの場合もある。

正式の合意文書とか議事録だと、人によって内容がちがうのは困るわけだが、そうでない場合、当事者によって内容がちがっても許容されることがある。これを利用すれば、それぞれ意図することがちがっても、全体として「合意」したと称することができる。たいてい、あとでお互いに「相手が約束を違えた」と主張することになるのだが、それはまたそのときのこと。多くの場合、そのころには当事者もすっかり変わっていたりもするから、その人たちに任せればいい。

最近の重要な多国間交渉でもそういう例があったのは誰もが認めるところだろうが、国内でもまた使われようとしているらしい。法律について議決をする場合、その過程で審議会答申やら何やらがあったりするわけだが、やはりここでも「文書がすべて」。最終的な文書、つまり法律に書いていなければ、あまり効果は期待できないだろう。どうかすると閣議決定やら国会の付帯決議やらだって平気で無視されちゃうんだから、審議会の答申の重みなんて、軽い軽い。それでも、世の中は進んでいくわけだな。

誰それが悪いとか、そういうことをいいたいのでは必ずしもない。どちらかというと、そういうものなんだよなぁ、というある種の感慨だ。もちろん、毎度毎度こういうわかりやすいネタを見せられると、だまされる人なんているのかよ中森警部じゃあるまいし、とか思ったりするのだが、だからといって「全部まるっとお見通しだ!」なんて叫んでみても誰も動じないわけで。こういうときは、縁側で日向ぼっこしながらずずっとお茶をすすっていたくなるね。うちに縁側なんてないけど。

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