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March 13, 2007

「非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話」

赤松啓介著 「非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話」ちくま学芸文庫、2006年。

18歳以上の方、必読。いろんな意味で。お子さまにはお勧めしない。

この本は、著者のフィールドワーク(というより「実体験」といったほうが適切かも)に基づいて、庶民、もっというと下層の庶民の民俗を綿密に記録している。民俗学というと柳田國男が有名だが、この人の書くものはすべて柳田民俗学に対する強烈な批判がちりばめられている。本書のタイトルにある「非常民」も、柳田のいう「常民」に対する概念。そんなきれいごとなわけねぇだろアホ、みたな敵意むき出しだし、水平社運動にも関わっていたとかで思想性もけっこうアレだったりするから、主張部分は「部外者」にはちょっと引くものがあるが、それはおいといても事実部分はとても参考になる。

この赤松啓介という人は、他にも「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」なんかが知られているが、本書にもその手の話はけっこうたくさん出てくる。「国家の品格」「美しい国」一派の皆さんのような生まれのおよろしい方々には見えなかったのだろうが、ここに描かれたような、なんとも形容しがたいゆるゆるずぶずぶの民俗もまた、ほとんど記録されなかったために知られていないとしても、まぎれもない日本の原風景なんだろう。

たとえば「近世のこども歳時記―村のくらしと祭り」のアマゾンの解説では「近世では,こどもは村全体で育てるという風習がありました」なんて書いてあって、このページなんかではこれを「古き良き日本の心」みたいに紹介しているわけだが、なぜ「こどもは村全体で育てるという風習」が必要だったのか、本書を読むと、とてもとてもよくわかる。こうしたあたりは農村みたいなところだけの話ではなくて、都市においてもそう変わらなかったらしい。

そちらの面で興味をお持ちの方も多いかもしれないが、そのあたりはぜひ実際にお読みいただくとして、ここでは、子どもをめぐる問題に関連したあたりについて書いてみる。

格差にしても少子化問題にしても、子どもをめぐる最近の議論を聞いていると、どうも最近状況が悪くなったという文脈が多いように思う。昔は格差も少なくて、みんなが助け合う美しい心を持っていたから、低所得世帯でも子どもが持てたのに、今はすっかり世知辛くなって、政治も悪くなったから、みたいな。あるいは、昔の子どもは元気に外で遊んでいたのに、とか。

しかし、本書はそうした「古きよき日本」イメージをほぼ完膚なきまでに叩きのめす。本書に登場する事例は、もとよりかなり偏った観察ではあろうし、著者がフィールドワークを始めた昭和初期のものが多いので、それ以前もずっとそうだったかどうかはわからないが、少なくとも比較的最近でもこういうことがあったという記録は貴重だと思う。

昔の階層間経済格差が現在の比ではなかったというのは、それほど違和感なく理解できる(貧しい村落の中では格差が比較的小さかったろうことも)。しかし社会の「最底辺」においては昔も、経済的理由のために子どもを持つことは不可能だったというのは、いわれてみれば確かにさもありなんだが、けっこう意外だった。しかも、そのためにかつては堕胎や間引きが常態化していたという。農村において月経や出産の際に妊婦がこもる「産屋」ないし「産小屋」については、少なくとも素人が読む一般書なんかでは、日本古来の「ケガレ」観との関係でとらえてるものが多いようだが、本書では「堕胎」や「間引き」の場として使われていた、と指摘している。

そもそも、子どもはそれほど大切にされる存在ではなかった。こんなくだりがある。

郷村型村落共同体の子供観は、そんなにあまいものではなかった。はっきりいえば子供を大人の世界の一部分としてしか認めず、子供を上から、また外側から引きまわし、自分たちにとって有用なものに育てようとしたので、それに反抗する部分は見殺し、捨て殺しにしてはばからなかったといえる。子供の独創性とか、個性とかいうようなものは、共同体の存続にとってじゃまものであり、そんな子供を育てて行く余裕はなかった。そうした共同体の子供観が良いか、悪いか、あるいは好きか、きらいかといってみても、それは私たちの個人的な趣味の問題である。現実の共同体は、そうしなければ生き残れなかった。

子どもは放置され、子どもたちで集まって遊んだ。それは、そうしなければ身を守れなかったからでもある。ガキ大将は、文字通り「大将」でなければならなかった。自身は「最底辺」ではなかったかもしれないが、身近で見聞きしたであろう「あの人たち」によって描かれた「ジャイアン」の姿は、そうした時代の「痕跡」というわけだ。子どもだけで遊んでいると、いろんな理由で「不幸な事故」が起きたりすることもあるわけだが、そうした問題に共同体として対応するやり方として、いわゆる「神隠し」だの「河童」だのが使われたらしい。

一方で、男の子たちが大人の仲間入りをするための通過儀礼としての「若衆宿」とか、「祭り」やら「おこもり」やらといった行事、さらには「後家さん」やら「尼さん」やらの役割等については、少子化問題との関連で、思うところがないでもない。現在と比べていいとか悪いとかいう比較はあまり意味がないだろうが、そういうのもひとつのやり方だよなぁ、とは思う。(追記。このあたりはむろん、男性だけの話ではない。このような共同体で、女性だけが清廉潔白でなどあろうはずがない。上記の「産屋」にしても、「その他」の使い道がちゃんとあった、とある)

少なくとも、本書に描かれたかつての日本と比べて、今の日本社会のしくみはどうも脆弱、潔癖、不寛容の方向に進んでいるのではないか、という感想は、それほど的外れではないのではないかと思う。客観的にみれば、昔がそんなにいい時代だったわけではない。もとより統計などないが、いじめや犯罪なんかも、今よりはるかに多かっただろうことは想像に難くない。ではなぜ過去が「古きよき」ものとして思い出されるのか。単に実態を知らないからとか、時間の経過とともに記憶が美化されるから、とかいうだけではないように思う。

別に、強くなって耐えろ、被害にあってもがまんしろといいたいわけではない。ただ、読んでいて、今起きているいろいろな問題の根っこは昔も同じようにあって、でも昔はちがった対処をしていたんだなぁ、という気がした。昔のやり方は、おそらく長い歴史の中で形成されたもので、それなりの「持続可能性」があった。これに対して、今私たちがとっているやり方は、まだそこまでの歴史はないし、ひょっとしたら実態にそぐわないところもかなりあるのではないか。今起きてる問題の中には、「古くて新しい問題」と「新しい対処法」と摩擦みたいなものがあるのかもしれない。もちろん、昔のやり方を復活させればすむ、というものでもないんだが。

こういう「ゆるゆるずぶずぶ」が日本だけということでもなさそう、というのは、海外の文献でもいろいろある。これは事実ではなく創作物だけにこぎれいにまとまっているが、けっこう似た雰囲気が伝わってくる。

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Comments

民俗学者なのは柳田邦男ではなく柳田國男ですね。

Posted by: 小熊善之 | March 15, 2007 11:26 PM

小熊善之さん、ご指摘ありがとうございます。
ほんとですね。初歩的な誤植です。訂正しておきました。不勉強にも、そもそも「柳田邦男」なる人物がいることを今回初めて知りました。

Posted by: 山口 浩 | March 15, 2007 11:46 PM

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Tracked on March 13, 2007 12:16 PM

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