暴論:国会議員の任期をもっと短くしたらどうか
選挙が近いせいで、なんだか政治家の皆さんが忙しそうだ。国会では残業もあったようだが、どうせ残業料もないんだし、仕事熱心なんだとしたら、その中身はともかく、それ自体はけっこうなこと。国会議員というのは法律を作るのが主な仕事なんだろう(少なくとも建前上は)が、その点からすると最近はとみに「生産効率」がいいようだ。
法律ってこんなに手早くできるんだぁ、というのが素直な感想。だったらさぁ、とまたしても妄想を走らせてみる。こんなに「効率的」に仕事ができるんなら、あの人たちの任期ってあんなに長くなくていいんじゃないか?
要するに、国会議員の任期を今よりずっと短くしてしまったらどうか、ということだ。今は衆議院で4年、参議院は6年。最近のようなハイペースで法律を量産していったら、数年で世の中すっかり見違えるぐらいに変わるんじゃないか。だったら4年とか6年なんて長すぎるよねぇ?そんなにいらないよねぇ?
正論的立場からいえば当然、短くすれば長期的な意思決定が難しくなるとか、いつも選挙ばかり気にして人気とりの政策ばかりになるとか、選挙の費用がたいへんじゃないかとか、諸外国にも例がない(ほんとにないかどうかは知らないが)とか、いくらも反対論が出てくるはず。そりゃそうだ。現行制度には長い歴史があって、皆それになじんでるわけだし。ただ、頭から決めてしまうほど自明な話でもないと思うんだな。
じゃあどのくらいがいいだろう。たとえば大企業なんかでは、取締役の任期を1年ぐらいに設定しているところがけっこうある。企業と国家はそもそも成り立ちも目的もしくみもちがうし、取締役の責務と政治家の責務も同じではないから、企業にできるんだから国会も、なんて乱暴な主張をするつもりはない。ただ少なくとも、任期が1年だから長期的な判断ができないとか、人気とりばかりやるとかいう議論が株主総会で行われたという話は聞いたことがない。そんなことを言ったら、大企業の役員さんたちは怒るだろうよ。だから、任期の長さと選ばれた人の行動パターンの関係は、そんなに簡単なものではないんだと思う。せっかく衆議院と参議院に分かれてるんだから、少なくとも衆議院のほうは任期を1年ぐらいにしても、それほどばちは当たらないのではないか、という気がする。だったら参議院のほうは、監査役にならって4年、とか。
いやいやそれでも長い、という考え方もあるかもしれない。今議員の皆さんが必死になって仕事をしているのは、選挙を間近に控えているからだ。仕事の質が問題だというご批判もあるんだろうが、これは立場によって意見がちがうだろう。ひとついえることは、選挙が近くなると、この種の人々は、それ以外の時期と比較して、はっきりと誰の目にもわかる程度に、世論に対して敏感になり、行動が早くなる。逆にいえば、選挙がない時期、政治家の方々は、はっきりと誰の目にもわかる程度に、世論に対して鈍感になり、行動が遅くなるわけだ。どっちがいいか、議論の余地がないとはいわないが、まあどちらかといえば前者と答える人が多いのではないかと思う。だったら、いつも「選挙直前」だったら、政治家の皆さんは今よりもっといい仕事をしてくれるんじゃないか?と思うのは自然ではなかろうか。
いつも「選挙直前」の状態にするためには、任期をどのくらいにすればいいだろう?人の噂も75日というが、これだと2.5ヶ月といったところか。四捨五入して3ヶ月。なんつうか、学級委員並みだな。下手すると、通常国会を経験しないまま終わる議員とかも出てくるかもしれない。話題の議員宿舎も、賃貸住宅というよりはウィークリーマンションみたいになっちゃう。これはさすがに無理か。でも、任期を1年にして、3ヶ月ごとに1/4ずつ改選していくなんてのはどうだろう。
もしこんな制度だったとしたら、これって事実上、年4回政府の信任に関する国民投票をやってるのと同じことだよね。一般にいわゆる間接民主制では、有権者は自分の意見と100%合致する候補者を見つけることは難しい。この候補者の経済政策は支持しないけど農業政策は支持するとか。なんらかの点で妥協しなきゃいけないわけだ。ああこのテーマで国民投票でもやってくれればと思うことがけっこうしばしばある。要するに、今の政治のしくみってやつがなんとも隔靴掻痒な感じがするわけだ。なんか、もうちょっとやり方があるんじゃないかなぁ、と。もし選挙が年4回(そのうち自分に投票機会が回ってくるのが1回)機会があれば、今よりはるかに国民の意見を反映させやすくなるだろう(国民の意見を今以上に反映するのがいいのかどうかという根本的な議論もあるがここではおいといて)。
それに、思うんだが、これぐらい選挙を頻繁にやってれば、政治家による利益誘導なんかは、かえってやりにくくなるんじゃなかろうか。政府の仕事のペースより、選挙のペースのほうがずっと早いから、有権者としては、たとえ一度は選択を誤って口ばかりうまい候補者に投票してしまったとしても、すぐにそれを改める機会がある。逆に、政治家の側からみても、せっかく大盤振る舞いで利益誘導政策を打ち出しても、その代わりに期待できる投票の価値は短期間しかもたないから、あまり「無理」をするインセンティブがなくなる。そもそも、そんなにたくさんばらまきをやるネタはなかろう。
そんなに頻繁に選挙をやってたらコストがたいへんなんだろうが、この機会にみんな電子投票にして、機械をずっと投票所となる場所に置いとくようにしたら、ランニングコストはそれほど高くならないんじゃないか。資金力のない候補者が排除されるという意見もあろうが、逆にこれぐらい頻繁にやってたら、どんなに資金力があってもすべての選挙に多額の資金を使うことはできないだろうから、かえって全般的に選挙運動が質素になるかもしれない。
どう考えても強引な暴論だが、まあネタだしご勘弁。これ以上つっこんでボロを出しまくるより、このあたりで切り上げておくことにする。私たちは今、国会での論戦なんてものに実はほとんど意味がないという「そりゃそうだろうけどよ、それを言っちゃあおしめぇよ」的な事実を目の前に見せつけられている。要するにものをいうのは数、なわけだ。ならば、私たちが選んだ代表の方々に立派な論陣を張っていただくより、私たちにより多くの選択の機会を与えてもらったほうが、よほど「納得感」があるのではないか。
異論があるかもしれないが、個人的には、政治的な選択においては、「正解」を探すことより、「納得感」を高めることのほうがよほど重要なのではないか、と思う。いつも「政治家が悪い」と言っている人がいるが、その政治家を選んでいるのは私たち有権者だ。自ら政治家を選択する機会が増えれば、「政治はつきつめれば有権者の選択」という事実をよりはっきり意識できるようになって、政治に対する「納得感」が高まる方向に向かったりするのではないか、なんてことをつらつらと考えたりしちゃうんだな。以上、妄想、終わり。おあとがよろしいようで。
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