ネットの匿名性を問題にする人は郵便の匿名性を問題にするんだろうか
ネットの匿名性をめぐる議論って、しかたないっていえばしかたないんだけど、いつまでたっても堂々巡りが続いてるようにみえる。もちろん簡単にどうなるってものでもないことくらいわかってるから、いまさら「絶望した!」とかどなるつもりもないけど。
絶望はしないんだが、なんだかひとりごとを言ってみたくはなる。というわけで以下つらつらと。
総体的に考えてみれば、匿名で情報発信できる状況を守ることも、実名で責任ある議論を展開することも重要、というあたりがしごくまっとうな落としところじゃないかと思うんだが、皆さんそれぞれのお立場とか苦い経験とかがあるもんだから、そう簡単には引き下がれないわけだ。
対立点はいろいろあるんだろうが、ごくあらっぽく煮詰めると、「自由と責任」なんてあたりに行き着くんじゃないかと思う。本来、両方伴ってなんぼという建前なんだろうが、実際上はどうもトレードオフっぽくなってるわけで。匿名で責任ある議論を展開できればそれはそれでOK。実名で無責任な言論を展開すればそれなりの結果が待ってるのは当然のこと。問題は、匿名で無責任な言論を展開する場合で、これを必要悪として認容するかしないか、あるいはこれに積極的な価値を見出すか見出さないか、なんてあたりが焦点になるんだろう。何か弊害軽減のための方策を立てれば、反対側のところで弊害が起きる。どこでバランスをとるかについての意見は、当然人によってちがってくる。
絶望はしないんだが、あんまり堂々巡りなんで、個人的には、ついあっちこっちちがった方向に考えが向いてくる。別に脈絡はない。整合性もないかもしれない(一応自分の中じゃ問題なく共存してるんだけど)。まあ要するに頭がうんざりして「逃げ場」を探してるわけだ。
1.まず、「ネットの匿名性」とかいうけど、ネットってそんなに「匿名」か?というあたり。いやもちろんその気でやればけっこうなことはできるだろうけど、手の込んだことをしない限り、実際のところネットってのはけっこうトレーサビリティがあるから、少なくとも素人さんが思うより匿名性は低くて、いざとなったら身元をたどられる可能性がより高いメディアなんじゃないか。その意味では、同じメディアでも郵便のほうがはるかに匿名性が高いんじゃないかと思う。あるいは壁の落書きとか。ネットの匿名性を問題にする人は、郵便の匿名性(「信書の秘密」の一種なんだろうな)を問題にするんだろうか。
2.それから、「ネットの匿名性」が重要であることの理由として、典型的には内部告発とかそういう「深刻」な状況が語られることが多いけど、実際にはもうちょっと「軽い」理由が多いように思う。たとえば会社勤めの人のブログは匿名のものが多いけど、あれってもちろん内部告発をするためじゃなくて、社名を出したとたんにやれ「おまえの会社はああだこうだ」とか「ブログやるひまがあったら仕事しろ」とか、そういう圧力を受けるのがいや、という理由が主なのではないか。それから実名ブログのせいで個人情報を暴かれることへの恐怖と。こういうのってネットの問題というより、素性を知られることの「不利益」が必要以上に大きい(あるいは大きく感じられる)というリアル社会内での問題なんじゃないかと思ったりする。自分がかなりのところさらされる職業だからというのもあって、正直なところ、そこまでこわがらなくちゃいけないかね、という感じもするんだが、やはりこわがらなくちゃいけない社会状況のほうが問題なんだろうな。
3.そもそも論だが、ネットに「闇」なんてない、と思う。「闇」があるのは人の心の中だ。ネットは効率のよいメディアとして、そうした「闇」を見える位置に引き出す役割を果たしている。ネットでの表現行為に対する規制をいちがいに否定するつもりはないけど、少なくとも、ネットを実名化しても心の中の「闇」そのものをなくせるわけじゃない。たとえば日本史で習った、日露戦争時のポーツマス講和会議。賠償金がとれなかったことに不満を持った民衆は全権大使だった小村寿太郎の家に押しかけて投石した、とある。条約の評価はいろいろあるだろうが投石は当時でも犯罪行為のはず。ネットの影も形もない時代だが、これはあきらかに「炎上」に似た集団による暴力で、人々の心の「闇」のあらわれだ。当時の代表的マスメディアである新聞があおったであろうことは容易に想像できる(確かめてないけど)んだが、匿名・実名論議は、この例でいうと、新聞社というより民衆1人1人に名札をつけさせろ、というようなものではないのか。
当然ながら、結論もない。だらだらと書き流して本日ここまで。
The comments to this entry are closed.
Comments