企業と人間はちがう
企業を人間にたとえることがある。比喩として有意義なことも多いので自分もよくやるが、実際にはちがうところもけっこうあるので、一応気をつけておかないといけない。「終わり」はその例の1つ。人の「死」というのは、どんなに努力しても避けることはできない。可能な限りの医療を施しても、死んでしまうことはある。しかし企業は、資金さえ続いていれば、どんなに経営が悪化しても倒産することはない。社内に資金がなければ、社外から。「輸血」さえしておけば、絶対死なないわけだ。
だからといって、「元気」になるわけではない。元気になるには、「元」から治さないと。
こういうことを考えている人たちがいるらしい。
公明は、都による監視機構の設置などを条件に追加出資を容認する方向とした。 都は新銀行の株主として、毎月1回以上の株主連絡会に出席し、年2回は決算報告を受けてきたが、「筆頭株主として十分な経営監視ができていたとはいえない」(都議)との声が根強かったことから、監視機構の設置を決めた。新銀行の経営状況や運営の監視のほか、助言や情報提供など「支援」の機能も持たせるとしている。 「監視機構の設置条件に公明が賛成へ 400億追加出資、可決濃厚 都議会」(2008年3月23日産経新聞)
別にこの人たちになんらの恨みもないが、この期に及んでまだ、というのが正直な感想だ。行政が「指導」すれば健全な経営ができるなどという発想でまだいるとは。行政の「意」を汲んだ経営や政治家の介入が現在の状況を引き起こしたかもしれないとは微塵も考えないのだろうか。
どうも都が追加出資することで民間資金を引き出そうということのようだが、このこと自体、今後も都の支援が期待されていて、それがないと生き残れないとみられているからととるのが自然かと思う。つまり「生命維持装置」をはずせない状態なのだ。
ここで冒頭の話に戻る。企業は「輸血」さえすれば「死」には至らないが、仮に「輸血」を受けて「命」を永らえたとしても、「健康」になれるわけではない。企業は収益を上げ、コストを抑えて利益を出すことで初めて自力で「生きる」ことができる。これができるかどうかが問題なわけだ。この判断を行わずに、あるいはかつて「病状」を見逃した藪医者に任せて、私たちの「血」(「血税」というしな)を注ぎ込んでしまっていいのか、責任ある立場の方はよく考えていただきたい。もちろん、そもそもこの銀行がなければ政策目的を達成できないのかも併せて。
マジな話、本当に「再建」したいなら、救済基金の組成を提案する。税金投入に賛成の方は、政治家も企業も個人も、ぜひ私財を投じていただきたい。怒っている人は、「額」を問題にしているのではない。本当に必要で有益なら1000億円でも2000億円でも投入すべきだ。問題は本当に必要なのか、本当に有益なのか、だ。必要でない、有益でないのなら、たとえ少額でも出すべきではない。これは、都が資金を出さないと金融機関からの出資が得られないというのと同じ、エージェンシー問題の基本形だ。自分の金を出さない人の話を誰が信じようか。
最後にもう1つ、企業と人間のちがうところ。当たり前の話だが、企業は、人間が便宜上人間のように取り扱っているもので、人間そのものではない。人間の死は取り返せない悲劇だが、企業の「死」はその気になれば取り返すこともできるし、必ずしも悲劇ではない。
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