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March 22, 2008

「親」なら「子」の成長を促すのがスジというものではないだろうか

ざっくりした印象論かつあいまいな抽象論だし、別に珍しい話でもないんだが、最近どうも気になるんで書く。政府やら企業やらに対して求める注意義務の水準がどんどん上がってきているのではないか。やるべきことをやるのは当然だし、これまで不充分だったものも多いというのはその通りなんだが、それでもメリットとデメリットはちゃんと考えておいたほうがいいのではないか、と思う。よくある話は、万全を求めすぎるとよけいなコストがかかるというやつ、いいかえれば保護を強化するとかえって弱者が切り捨てられるというやつで、いちいち挙げないがいろいろな例があるはず。こっちの話はここではおいとく。

もうひとつ気になることがあって、それはなんつうか、変な方向のpaternalismが蔓延しているように思われることだ。

「Paternalism」は、Googleの翻訳にかけると「温情主義」と出てくる。「父性主義」のほうが近いように思うのだが、どうも「父性主義」にはなんだかいろいろなニュアンスやら価値観やらがついて回るらしくて、そういうもろもろがくっつくとめんどくさい。Wikipediaには「Paternalism refers usually to an attitude or a policy stemming from the hierarchic pattern of a family based on patriarchy, that is, there is a figurehead (the father, pater in Latin) that makes decisions on behalf of others (the "children") for their own good, even if this is contrary to their wishes.」と出ているので、まあおおまかそんな意味合いで使っている、と思っていただきたい。

で、要するに、「親」にあたる強く賢い者、つまり政府なり企業なりは、「子」にあたる弱く「愚か」な国民を守る責任を負うべきである、ということになる。この両者は資金力や権力、あるいは情報量なんかにおいて大きな差がある(当然、前者の方が上)場合が少なくないから、優位にある方がより重い責任を負うのはそれなりに合理的だし実際だいたいそうなってるんだが、「国民」といったって均質ではないんだから、なんでも一律に扱うのはいかがなものか、と思うわけだ。

で、親のアナロジーが出てくる。子どもに対する親の関与なり干渉なりの水準は、その子どもの発達度合によって異なっていてしかるべきだ。これは異論なかろう。3歳の子と18歳の子への接し方はちがう。3歳の子は目を離せないが、18歳の子に同じ態度をとったら、まずふつうはいろいろな問題が出てくる。

問題の性質にもよるので本来一概にはいえないだろうが、あえて一般論でいうと、過剰なpaternalismは、「子」から自由にふるまう権利を奪い、自分でやろうという意欲を奪い、何より成長の機会を奪う。だから、レベルに応じて必要な教育と適度な課題を与えて成長を促し、その状況を見ながらだんだん保護の度合を減らしていくわけだ。それと同じように、政府なり企業なりに対して、より優れた者の責務として「親」の役割を求めるなら、「子」にあたる国民を保護する(と称して手足を縛る)だけではなく、その「成長」を促すような行動を求めるべきではないか。その保護の水準も、「発達度合」に応じて考えていくのがスジというものではなかろうか。

こういうあらっぽいアナロジーはいろいろ危険もあるんだが、こうすることによって見えてくるものもあるのではないかと思う。たとえば、ここでいう「親」が、「子」の状況に応じた関与をしたいと思うととたんにぶつかるのが、どの「子」がしっかりしててどの「子」がほっとけないのかがわからないという問題だ。「親」の数に対して「子」の数が多すぎて、個別に管理しきれないという問題も含め、要するに「子」の「発達」状況に関する情報は著しく偏在している。本当の親子なら、ある範囲で親は子の情報を得たり、行動に干渉したりする「権利」を持っているわけだが、こっちの「親」はけっこうあちこち手足を縛られていて、それもままならない。「子」が干渉をきらうからであり、干渉させないルールが決められているからだ。

「保護」を求めながら同時に「干渉」をきらう子どもがいたとしたら、いや実際多くの子どもはそういうものだとも思うが、親としてどう思うだろうか。成長の過程ではいたしかたないとしても、それをずっと続けられたらどう思うだろうか。それはむしろ「子」の側の、「親」への依存心みたいなものの裏返しであり、悪くいえばわがままだ。昨今の政府やら企業やらのpaternalisticな姿勢は、「子」に対する愛情というよりは、口数の多い生意気な「子」から糾弾されないためのエクスキューズのようにも見える。何かいわれるとうるさいから、かたちだけ整えておけばいいという態度だ。だとすれば、「親」側だけを責めるのは一方的すぎるかもしれない。

子だくさんで1人1人に親の目が充分届かない家庭では、上の子が下の子のめんどうをみる、ということが一般的に行われる。上の子は親ほどの能力や知識を持つわけではないが、下の子よりははるかに優れているから、ある程度のことはできる。それに、下の子の面倒をみること自体が、上の子にとってのいい訓練になる。当然それは上の子にとって負担ではあるが、その分だけ自由が許されていれば、それなりにバランスはとれる。

国民の安全と、最低限の生活を保証するのが国家の責務だ。企業もその資金力や情報量の優越度に応じて、国民より重い責任を負うべきだ。それに異存はない。ただ、その責任の重さは、どんな場合でも一定ということではないと思う。能力のある者、判断のできる者には保護の度合いを減らして、その代わり自由を。そうでない者にはその逆を。皆に対してその両方を一度に与えようとしたら、こっそりどちらかをごまかすしかない。そういう中途半端な状態は、自由を求める者と保護を求める者のいずれかを犠牲にする。過剰なpaternalismは、自由のほうを犠牲にしているわけだ。

それからもちろん、過剰なpaternalismは、「親」に過剰な負担を強いる。この「親」は、実は「子」に食わせてもらっているわけで、「親」の負担は巡り巡って「子」の負担となる。これを避けたければ、「親」の負担を減らす必要があろう。そのためには、その分を「子」の中で担う必要がある。能力のすぐれた「子」を保護の対象からはずし、能力の不足する「子」を導く側に回ってもらうわけだ。

適切な水準の保護と適切な水準の自由の両者をすべての国民に与えようとするなら、その人の能力等に応じて保護と自由の組み合わせを変えていくしかない。国民に対して、成長を促していくしかない。親が子に対して普通に行うように。しごく当たり前のことのように思われてしまうんだが。

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