私たちは「子どもに触れさせたくない表現」に触れながら育った
まごうことなき「何をいまさら」ネタ。子どもが見るべきでない映像、知るべきでない内容というのがある。そういったものに子どもが触れないですむよう注意するのは大人の役目だ。子どもがさまざまなメディアを通して触れるコンテンツに対してなんらかの制約を設けることに対して、全面的に反対という人は少ないと思う。携帯電話のフィルタリングの問題も、具体論を措いといておおまかにいえば、この路線の話なんだろう。
とはいえ、内心忸怩たるものがあるという人は少なくないはず。胸に手を当ててよく考えてほしい。「子ども」だったころに「不適切」な映像や文章などにまったく触れたことがない人など、ほとんどいないのではないか。
もちろん私も、そうしたものにたくさん触れて育った。性的な表現でいえば、小学生のころにはまだビデオゲームは普及していなかったから、マンガやテレビ。小説もあった。「ハレンチ学園」も「デビルマン」も読んだし、「野球拳」も「8時だョ!全員集合」も「時間ですよ」も見た。小説だって、大河ドラマにもなった「国盗り物語」や「平将門」にはけっこうなシーンがあった。もう少し大きくなった後は、大人向け雑誌や、そのものズバリの「不適切」な本だって見たり読んだりした。保健体育の教科書ですら「そういう目」で見てしまう年齢だ。そうしたものに触れて、性的な感情が起きないわけがない。
残酷なものも見た。たとえば、学校の図書館で見た、「アサヒグラフ」のベトナム戦争の写真。アメリカ兵が半分にちぎれたベトナム兵の上半身を持ち上げているところ。「デビルマン」の最終回(記憶が定かでないが)で、体が半分にちぎれた主人公が描かれていたのも見たが、「本物」はあんなふうにきれいにはちぎれないことを私は知っていた。もちろん、こわかった。それでも、目をそらすことはできなかった。現実を直視しようとかいう高尚な考えではない。単なるこわいもの見たさ、興味本位だ。病院の廃墟に、手術中の写真や標本が放置されているのを見に行ったこともあるが、それも同じだ。
私は子どものころ、こうした映像や文章に触れるべきではなかっただろうか。触れたことによって犯罪的性向を身につけたりしただろうか。私と同様に過去そうした類のものに触れたことがある大人の方(ほぼ全員ではないかと思うが)もぜひ考えていただきたい。
私は、そうは思わない。ああいったものに触れたことは、私にとって有益だった。理由はいろいろがあるが、中でも重要なのは、そういうものを見るとどんな感情が起きるかを自分でわかったことだ。自分の中に多少なりと邪悪な感情や嗜好があることも、とはいえ性的なもの、残虐なものがすべて見て楽しいというわけではないこともわかった。いってみれば、自分が戦うべき相手、共存していくべき相手を自らの内面に見つけることができたわけだ。私が犯罪的性向を持ち合わせているのかどうかはわからないが、とりあえず今のところその手の犯罪行動に至っていないのは、そうしたものに触れなかったからではなく、適度に触れてきたからであると信じる。
そう、問題はおそらく「適度に」ということなのではないか。あきらかに、ごく小さい子どもがそうしたコンテンツに触れることは、望ましくない。規制は必要だろう。しかし、ある程度の年齢になったら、徐々に制限を解いていくほうがむしろ自然ではないかと思う。私の両親は、小学生だった私に「国盗り物語」を読むことも「デビルマン」を読むことも「8時だョ!全員集合」を見ることも許したわけだが、それは「この程度ならいいだろう」と判断したのだと思う。大人 vs. 子どもの二元論、つまり18歳を境に方針をがらりと変えるやり方は、子どもが18歳になった瞬間に急に子どもから大人に変身すると考える(昆虫じゃあるまいし)のと同様、現実味を欠いている。
私たちの社会は大人に、性的な表現、残虐な表現に触れることを許している。もちろんそうしたものが嫌いな人も多いだろうが、好きな人だって少なからずいる。それは内心にとどまる限り、基本的に自由として認めるわけだ。ならば子どもたちが接触しうる表現の範囲も、徐々にその方向に向けて拡大していくのがまっとうな考え方というものではないか。自動車の運転免許をとるときになぜ路上教習があるか、理解できない人はいないはずだ。
大人も一切の性的表現、残虐表現に触れるべきではないという主張もありえなくはないが、それはあきらかに現実味がない。だとすれば、大人になったとたんに放り出すほうがよほど危険だし無責任というものだ。徐々に触れさせていくようなきめ細かい対応や、そうしたものをどう考えるかといったタッチーな教育は、法律や行政にはできない。これは基本的に親の仕事だと思う。子どもがどんな表現に触れているかを見極めながら、必要と思われる指導をしていくこと。触れさせないことではなく、関与していくことこそが大事なのではないか。まったく触れさせたくないというのは、自分が楽をしたいための親の責任放棄としか思えない。それこそ子どもを将来いらぬ危険にさらす恐るべき無責任な行為だと主張したい。
勝手に他人の事情を決めつけるのもどうかと思うので、最後に大人の方に広く尋ねたい。「子どもに触れさせたくない表現」に、子どものころ全く触れたことがないという人はいるんだろうか。そうしたものに触れたために犯罪的性向を身につけてしまった人、犯罪に走ってしまった人はどのくらいいるんだろうか。「子どもに触れさせたくない表現」に子どものころ触れていながら現在まっとうに生活できている人は、なぜそうできているんだろうか。同じことを現在の子どもたちには期待できないんだろうか。
この巻かどうか確信はないが、斉藤道三(当時は松浪庄五郎と名乗っていた)が油屋の娘をどうこうする場面を覚えているので、たぶんこれ。
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Comments
んんん? 「ああいったもの」は特定の人間の中傷を書き込んだり、買春を持ちかけた上で殺害を行ったりはしませんよね? 釣りですか?「内心にとどまる限り」は「基本的に自由」ですが、実際に名誉毀損や殺人という犯罪として表面化している以上、「子どもたちが接触」するものとしては危険が大きすぎますから、「徐々に」「拡大」などしていける筈などないでしょう? それに「路上教習」というなら、まずは全面禁止後に合格者のみ認可ということになります。「これは基本的に親の仕事」というのはその通りで、もはや「この程度ならいいだろう」と判断する人が5%未満という結果に「自分が楽をしたいための親の責任放棄」が表れていることは間違いありませんが、PCやネットが一般に開放されてから何十年にもなるのに、親の世代は未だにワープロもろくに使えない(使っているつもりになっているのはIMEです)現状を鑑みれば、昔の親でも簡単に出来た「性的表現、残虐表現に触れ」させる触れさせないといった判断と比較することは不可能です。親に判断させるというなら、まずは国が設置した特別学校に子供の親権を持つ者全員を強制収用し、スパルタ式でネット・リテラシーを叩き込んで合格者のみに子供の携帯利用を自主的に判断する権利を与えるほかありません。誰が教えるのかというと、一番詳しい奴が適任に決まってますから、子供、という皮肉な結果となるでしょう。あるいは国としては放任し、子供が傷つこうが殺されようが全て親の監督不行き届きであるから甘んじて受け入れよ、それが自由の代償だあ、と宣言するほかありません。今回は表現の問題ではありません。コミュニケーションの問題です。
Posted by: AntiSeptic | April 18, 2008 03:49 AM
前のコメントの人は落ち着けよ。
>>んんん? 「ああいったもの」は特定の人間の中傷を書き込んだり、買春を持ちかけた上で殺害を行ったりはしませんよね? 釣りですか?
親→教育上良くないと思うもの→子どもの成長と照らし合わせながら手綱をコントロール だった関係が 親→教育上良くないと思うもの→積極的に機関団体等に働きかけて18になるまで触れさせないようにする という親子関係が崩壊してる所が問題だって書いてるんだよ。だってどう考えてもここで言う「子を持つ大人」はもうネットPC音痴の世代じゃないし、Yamaguchiさんのある意味理想的な両親と対照的に書かれているんだから。
だからあんたの言うPCやネットに関しても、親が理解できないからコントロールできないのが問題なんじゃない。危険物であることをある程度わかっていながら放任で、流行りだからと気軽にネットや携帯ネットを子どもにルールもなく与え、規制は行政任せにしている現状が問題だと、そしてその規制にのっとっていると段階的にタブーに触れながら育つことはできないと暗に諭しているんだ。
ハッキリ言う。あんたは盲目的で読解力がない。
また改行がなくて心底見辛い。他人のページに書き込むマナーがなっていないと言えよう。
Posted by: RK | April 18, 2008 04:20 PM
コメントありがとうございます。
AntiSepticさん
ええと、私の文章は「子どもに触れさせたくない表現」は子どもの発達に悪影響を及ぼすからブロックすべきだという意見に対して、「でもそういう表現に皆さんも子どものころ触れてきてないですか?」という問いかけを行ったものです。「特定の人間の中傷を書き込んだり、買春を持ちかけた上で殺害を行ったり」という点を対象にしてはいないのですが、そのあたりよろしいでしょうか?
大人もそうした表現に触れるべきではないという主張であれば、私は反対ですが、1つの考え方だとは思います。ただ、大人が触れているものを子どもに一切触れさせず、ある年齢に達した時点で急に解禁するようなやり方はあまり合理的とは思えません。テレビ番組のレーティングだって、もう少し細かい区分けがありますし、ビデオゲームによって子どもの暴力性がどの程度かきたてられるかが親の関与によって異なってくるという研究成果も出ています。
ご指摘の「親を教育すべき」というのは、方法はともかく私の持論の1つでもありまして、過去の記事をご覧いただければそういう趣旨のものがいくつかあると思います。
ちなみに、現在の社会が子どもにとって過去より危険になっているという見方については、議論の余地があるのではないかと思います。おそらく子どもが直面するリスクに対してより詳細に伝えられ、かつ人々がより不寛容になってきているとは思いますが。
RKさん
弁護いただきありがとうございます。ただ、あまり強い表現は冷静な議論を妨げますので、いかがなものかと思います。
ご指摘の通り、私は親が子どもの成長にもっと関与していくべきだと考えています。それは政府にキーキー言うのもさることながら、もっと子どもと日常から対話することではないかと思います。どうもそのあたりが抜け落ちて、政策論とか立法論とかばかりが声高に語られるのは、有権者でもある親にとって耳の痛い話をしたくないということなのかもしれませんが、あまりいい方向性とは思いません。
だいいち、悪に走るのではないかと疑われ、目や耳や口を塞がれ手足を縛られる子どもと、対話の中から生まれる信頼関係で結ばれてのびのびと育つ子どもと、どちらがいいかは議論の余地が少ないのではないかと思いますね。
Posted by: 山口 浩 | April 18, 2008 06:04 PM
>「特定の人間の中傷を書き込んだり、買春を持ちかけた上で殺害を行ったり」という点を対象にしてはいないのですが、そのあたりよろしいでしょうか?
それを対象としていない点が不味いのではないか、という意味で「今回は表現の問題ではありません。コミュニケーションの問題です」と書いたんですが。子供がテレビや雑誌でエッチなものや残虐表現に触れるのと、夜の繁華街をうろつくこととは、かなり差異がありますよね? 表現云々についてはYamaguchi氏が敢えて書くにはあまりにも手垢のついた、よくある主張のようで違和感を感じました。問題としないというのであれば、それはそれで了解です。失礼しました。
Posted by: AntiSeptic | April 22, 2008 05:38 AM
AntiSepticさん
「手垢のついた、よくある主張」にも意味があると思いましたので書きました。
問題が起きたから政府なんとかしろという考え方も「手垢がついた、よくある主張」ですが、この領域では、このほうがよほど有害のように私には思われます。もちろんやるべきことはあるはずですが、乱暴に広範な規制をかぶせて一安心みたいなやり方は、効果がほとんど期待できないにもかかわらず、弊害だけは確実にあるからです。最大の弊害は、親が「自分には責任がない」と思ってしまいがちになることで、これは最悪の状態だと思います。
Posted by: 山口 浩 | April 23, 2008 04:26 PM