蒸し返すのもいいけどさ
「嵐の日」にわざわざ「外出」することはないとも思うのだが、手短に一言だけ。2008年5月24日付朝日新聞の「けいざいノート」に、RIETI上席研究員の小林慶一郎さんが、「高齢者の新医療制度」を「インセンティブの経済学を間違って理解した制度設計ではないか」と書いていた。で、これを25日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」の中で田原総一郎さんが引用して、舛添要一厚生労働大臣を「糾弾」していたのだが。
いやちょっと待て。もともと立場の差とかによって見解の相違が大きい問題だ。相手だって素人じゃないわけで、ちがう考えを「間違い」と斬って捨ててすむような話ではないはず。
小林さんの批判は、簡単にいえば、保険料ではなく窓口負担を重くすべきだというもの。
無駄を少なくするための最も簡単で効果的な方法は、患者(あるいはその家族)の自己負担を増やすことだ。(中略)それは新しい制度を作らなくても、もっと簡単にできたはずだ。高齢者の患者の窓口負担を現行よりも上げれば良かったのである。
保険料は医者に行くか行かないかという選択の自由に関係なく徴収されるものである。そこには自発的に無駄な医療を受診しないようにしよう、と高齢者に考えさせるメカニズムが何もないのである。
ええと、この分野は素人だけどさ。
受診を控えようと考えさせるメカニズムがないのはご指摘の通り。なぜなら、それこそがこの制度の趣旨だからだ。もし窓口負担を引き上げるような制度になっていたとしたら、こういう批判が出るだろう。「必要なときに受診を控えさせてしまうような制度は非人間的だし、重くなるまでがまんしてしまうから、かえって医療費の増大につながりかねない」と。必要なときに気兼ねなく受診できなくて何の保険制度かと。窓口負担をこれまでとほぼ同水準にしたのは、まさに「インセンティブの経済学」を理解していたからであったというべきではなかろうか。
では高齢者を切り離して保険料負担を引き上げたのが間違いだったかというと、これもそれなりに理由がある。よく高齢者だけ切り分けたことに対する批判があるが、リスクがちがう被保険者を区分して扱うこと自体は、社会保険の世界ではともかく、保険一般でいえば別に珍しくもないし、そもそも公平ということでいうなら、そのほうが公平だという考え方だって充分に根拠がある。
経緯を詳しくは知らないが、おそらくこういうレベルの話は制度検討の初期段階でさんざんやってるはずで、現在の制度はそれらをふまえて決まったものだろう。もちろん蒸し返すのはかまわないが、だったら同じところをぐるぐる回るのではなく、根本に立ち返った話をすべきではないかと思う。
要するに、医療費がこのまま増えていって大丈夫なのかという問題(大丈夫だっていう議論だって当然ありうる)、もし負担増がしかたないならそれを誰がどういうかたちで負担するのかという問題、それに高齢者医療の無駄な部分をどうやって減らしていくか(回避しきれない無駄の部分をどこまで認容するか)という問題。もっと突き詰めると、誰からどのくらいの金をとって、高齢者に対して(他の使途、たとえば出産・育児やら教育やら、あるいは道路なんかとのバランスで)どのくらいまで公費をつぎこむべきかという問題に行き着くはず。お年寄りを大切にとかいうお題目でごまかすことはできない話だ。
小林さんは「医療制度の個別の改正ではどうにもならない時期に来ているのではないか」と締めくくっていて、これは同感。国家の基本戦略というか、グランドデザインについての議論みたいなものが求められているのではないかと思う。方向性はいろいろありうるだろうが、いずれにせよ甘い話ではないはずで、最後は選挙とか国民投票とかみたいな方法で決着をつけるしかなさそうな気がする。省庁レベルではどうにもならないのではないかな。さて、そんなことができるんだろうか。彼らに、というか私たちに。
The comments to this entry are closed.
Comments