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"Memento mori."

伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」に、「夏の盛りには、時間はほとんど停止してしまう」というくだりがある。たぶん今ぐらいの時期のことを指しているんだろうが、なんともいえない実感がある。時間が「停止」すると、なんだかいろんなところに考えがとっちらかってしまうせいか、柄にもなく思索的になったりする。

だからというわけでもないんだろうが、8月は、いろんな意味で「死」を意識する時期であるような気がする。

一般に私たちは、身近な者の死に接すると、心が痛む。これ自体は自然な心の動きで別に何の不思議もないんだが、興味深いのは、この「身近」の判断基準が、どうも相対的なもののように思われることだ。

近親者や親しい友人などは身近に感じることが多いだろうから、そうした人の死に接すれば痛みを感じるのがむしろ普通だろう。それ以外でも、たとえば友人の近親者などであれば、当人を知らなくても、友人の痛みを感じ取って自分の心も痛む。

個人的に全然関係がない人に対しても、相対的に身近と感じるケースはある。たとえば同じ姓の人。同じ学校や会社など組織に属する人。同じ職業の人。同じ年齢の人。同じ電車で通勤通学してる人。同じ出身県の人。何かある「フレームワーク」があって、その中で相対的に「近い」人に対しては、「身近」と感じるわけだ。海外で事故などがあって、日本人の死者が出たとすれば、それが個人的にはまったく関係ない人でも、同じ日本人ということで痛みを感じる人は少なくないと思う。同じような事故が国内で起きていれば別に何とも思わないケースでも、海外で起きたとなると、とたんに「身近」になる。もちろん、自分から遠い存在であればその分だけ痛みの度合いは下がるだろうが。

専門的なことはよくわからないんだが、どうもそういうのって、「共感する力」みたいなものなんじゃないかと思ったりする。人の気持ちに寄り添うのは、なんだかんだと心理的な「力」を使うので疲れる。誰にでも共感しているわけにはいかない。「力」は出し惜しみしたい。だから身近な人に対してだけ、といった感じで。

映画やテレビドラマ、小説などで描かれる架空の人物の死も、当該人物に対して親近感を覚えていれば、その死は痛みとして感じられる。それが外国人であろうと、宇宙人であろうと。たぶんそれは、そうした物語が「共感する力」を助けてくれるからなんじゃないかと思う。

「フレームワーク」の中で遠い方と判断されれば、共感は起きない。共感できない人の「死」は必ずしも痛みとは感じられない。「ああ死んだのか」なんてのはいいほうで、「それが何か?」なんて思っちゃうかもしれない。別の感情が混じってたりすると「死んでよかった」だとか「もっとひどい死に方をすればよかったのに」なんてことも思ったりするかもしれない。極限までいくと、自分の「死」すら痛みをもって感じることはできなくなったりするかもしれない。そういうのって、なんかやだなと思う。できるだけ、出し惜しみしないでいよう、と思う。大きな「フレームワーク」を持ちたい、と思う。

たとえば3年前に電車の事故で死んだ人たち、13年前に地震で死んだ人たち、23年前に飛行機墜落事故で死んだ人たちやそこで遺された人たちに対して、痛みを共感することはできる。では7年前に外国でのテロで死んだ人たち、17年前の外国での戦争で死んだ人たち、27年前の外国での飛行機墜落事故で死んだ人たちはどうか。63年前の空襲やら原爆やらで死んだ人たちに共感できるとして、では67年前の爆撃で死んだ人たちに対してはどうか。何より、世界のいろいろなところで最近死んだ人たち、今死にゆく人たちに対してはどうか。

理屈ではない。政治も国際情勢も関係ない。「死」や、遺された人たちの悲しみをわずかでも自分の「痛み」として感じられるかどうか。ちょっと前に「品格」なんてことばがはやってて、あんまり好きじゃなかったけど、おおげさにいえば、この「共感する力」っていうのは、人の「品格」みたいなものを形成する大きな要素の1つなんじゃないかと思う。

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