人のふり見て我がふり直せ、という話
最近、いろいろなところで「反面教師」に事欠かない。人だけじゃなくて組織や団体、もっと大きな「集団」にも例はたくさんある。別に目新しくはないし、笑うのも簡単だが、それだけではもったいない。学んで活かさなければ。というわけで、以下は最近改めて学んだ、やったら恥ずかしいことのリスト。
(1)外見だけ整えているが内面が伴わない
努力したうえで至らないところがあるのは必ずしも恥ずかしくないが、外見だけ取り繕おうとするのは恥ずかしい。それが露呈するのはさらに恥ずかしい。他人の目は予想より鋭いこともしばしばあるし。
(2)情報の流れを阻害する
隠したりすりかえたり、情報の流れを悪くする人には何かうしろめたいことがある場合が少なくない。もちろんしかたない場合、必要な場合もあるんだが、構図があまりにもみえみえだと見ているほうが恥ずかしくなる。
(3)議論や交渉を拒否し自らの主張のみに固執する
何かというとすぐ激昂したり、自らの過ちを認めず逆ギレしたりして、議論すべきときに議論にならないのは本当に困りもの。反論しようのない「お題目ワード」、それ以上一歩も話が進まなくなる「思考停止ワード」を連発する傾向あり。
(4)すぐ極論に走る
100点満点じゃなきゃ零点っていう人、けっこう多い。「これじゃまったく意味がない」とかよくいう。すぐ「氏ね」とか書く。特に困るのは、極論に走ることを自信やら意欲やらのあらわれだと思いこんじゃってるパターン。言論だけじゃなく極端な行動に走ることもあって、さらに始末が悪い。
(5)極端な一部を取り上げて全体はこうだと決め付ける
どの「一部」をとるかにはその人の偏見が反映されることがしばしばある。何を見ても色眼鏡がかかっちゃう。なまじ経験に基づいているとさらにたちが悪い。そうでない場合は、誰かほかの人の受け売りのパターンかな。元の意見が持ってた前提条件とか背景とかを理解せずに文字通り受け取ると、伝言ゲームよろしく意味が変容していくわけだ。
(6)よいところを見ず悪いところだけに着目する
悪いところに着目するほうがえらいみたいな考え方の人がよくいる。子どもなら微笑ましいんだが、大人となるとなんだか痛々しい。かといってポジティブ大明神みたいなのもうそくさいわけで、まあバランスが大事っていう話ではあるんだが。
(7)責任を誰かに負わせないと気がすまない
最近「自己責任論」は何やら風当たりが強いのだが、かといってなんでも社会やら何やらに責任があるというのもいかがなものか。実は両者は表裏一体ではなかろうかと思う。「どこかに悪いやつがいる」で片づけたい心理とでもいおうか。要するに考えるのがめんどくさいってことかと。世の中そんなに単純じゃないよね?
(8)ちゃんと聞かない、読まない、理解しようとしないで主張ばかりする
長い文章を読まない。読んでも素通りする。くだらないと斬って捨てる。何か主張しようとするときは、先にその数倍インプットしとかないといけないんだけどね。裏打ちがないのってけっこうばれるんだなこれが。努力の価値を認めないってのは救いがたいね、いろんな意味で。
(9)自らが無知であることを自覚しない
誰にでも知らないことはあるから、知らないこと自体は恥ずかしくないが、知らないことへの「おそれ」のない態度は見ていて本当に恥ずかしい。世の中、自分が知らないことのほうが圧倒的に多いんだよ。
それぞれの点について、何かしら「ああ、あの話ね」と具体例が浮かぶかもしれない。しかしそこでちょっと立ち止まって、少し視点を変えてみるといい。反対側から見てみるといい。ちがった例が思い浮かぶことはないか。何より、「自分もそうだ」というものがないか。少なくとも私は、気をつけているつもりではいるけど、こうしたものから完全に自由とはいえない。
もし「自分には1つも当てはまらない」という人がいるとしたら、次のやつにあてはまってるかも。
(10)自分を棚に上げて他人を批判する
自分で何言ってるかわかってる?といいたくなるケースがけっこうある。ダブルスタンダードって誰しもある程度はあるしそれはしかたないと思うんだけど、自分のダブルスタンダードに気づいてないっていうのはやっぱり恥ずかしい。
つまり誰でもどれかにはあてはまるってことになるわけで、なんか逃れようのない蟻地獄みたいだけど、まあそのくらいに考えておいたほうがいいと思うな。日々精進ってことでひとつ。
The comments to this entry are closed.
Comments
”議論が成立しない人”というのは、ロジカルな思考、
ロジカルな議論が出来ない人、ではないか?と最近思
っています。
(3)とか(5)とか(9)なんかは、よく見かけますね。
”それは、お・ま・え・だ”
なーんて言われないよう、注意したいもんです。(笑)
Posted by: ひろん | August 20, 2008 06:24 AM
ひろんさん、コメントありがとうございます。
ロジカルでなくても話が成り立つ場合というのはありますよね。「共感」が典型的ですが、そうでなくても、少なくとも対話を続ける態度というのは、将来になんらかの希望をつなぐわけです。それがないとほんとに望み薄です。
関係ありませんが、どこの国にも似たような人はいるものですね。似てるという自覚はないんだろうな、とテレビを見ながら思いました。
Posted by: 山口 浩 | August 20, 2008 10:58 PM