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「メディアリテラシー」に新たな定義が必要かもしれない

「メディアリテラシー」ということばがある。Wikipediaには「情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」と定義してあって、そもそもWikipediaをソースとして使うこと自体がメディアリテラシーの観点からは問題になりうるのだろうが、この定義はよく見かけるものとさほどちがわないように思うので当面これを使っておく。他の定義もいろいろあって、最近は発信者としての個人に着目するものも少なくない(英語版のWikipediaはその色合いがより強い)が、まあそれはそれとして。

でも最近、もう1つ、新たな意味が必要なのではないかと思ったりすることがある。それは、「メディアの人たちのリテラシー」だ。

メディアリテラシーということばは、なんだかんだいっても、マスメディアが発信者、個人が受信者という図式をデフォルトとして念頭においているように思う(歴史的な経緯からいえば当然だろう)。上記のWikipediaには、情報メディアで伝えられる情報に物理的な制約、主観によるゆがみ、情報操作などがあって、情報を受け取る側がそれらを適切に読み解かないといけない、という趣旨のことが書かれている。本来、「リテラシー」(literacy)ということばは識字能力を意味するが、ここではそれが拡張されて、弱者である情報の受信者側が、強者である発信者の意図や背景を読み取る「能力」を持つべき、ということになる。発信者側の人たちは、情報を適切に発信するための充分な能力がありながら、制約や主観や意図のためにそうしないかもしれないからだ。

そこに最近はもう1つの要素、つまり発信者側の「リテラシー」を問う流れが加わってきている。理由はいろいろあろうが、特に影響力の大きい要素は、最近のインターネットの発達と普及だろう。情報の発信に要する技術的要件やコスト上の制約が大幅に緩和され、文字通り「誰でも」、情報を広く世界に発信することができるようになった。もちろんほとんどの人が発信する情報は、それ自体ではたいした影響力を持たない。しかし内容によっては注目を集めたり誰かに損害を与えてしまったりすることもあるし、個々には小さな声でも集まれば大きな力を持ちうる。そうした力を得たことを個人個人が意識しよう。そういう流れだ。

そこまではいい。でもちょっと待てよと思う。本当にマスメディアは「強者」なのか。そもそも「発信者」なのか。

ちょっと前に起きた厚生労働省元幹部及びその家族に対する殺傷事件の際、毎日新聞がWikipediaの時刻表示を読み誤って誤報を打ったケースは、ネットのあちこちで批判やら嘲笑やらを巻き起こしたが、似たような例を探せばたくさんあるだろう。特定の記者や会社をあげつらってもあまり生産的ではない。そのへんの構造的問題については、元「中の人」である藤代さんがうまくまとめているのでご参照

人々の活動がだんだんネット上で多く展開されるようになってくると、「ニュース」もネットの中で発生するようになる。この新しい領域に対して、マスメディアの中には、充分な知識を持っていない人たちもたくさんいる。そういう人たちが伝えれば、情報が不足したり、歪んでいたりすることは充分にありうるし、実際にそうした例はたくさん起きている。上記の例もその1つだ。彼らはこの分野の情報を収集、理解し加工する能力(つまりリテラシーだな)に関しては、必ずしも強者ではないのだ。

しかし問題はそこで終わらない。原点に立ちかえってみる。そもそも、ネットの領域以外でも、マスメディアの人たち自身の「リテラシー」が充分な水準にあったのかについては、議論の余地がある。彼らが発信する情報のほとんどは、実際には外から集めてきたものだ。それを咀嚼し、加工していく段階で、多くの情報が失われ、改変されるが、そこにかかわるのは物理的制約や主観や意図だけではない。知識や理解の不足も実はかなりの部分を占めているはずだ。少なくとも個人的な経験からは、そういえる。それぞれの分野で情報源となる専門家の方々も、きっと似たような考えを持っているのではないかと思う。

これまでのメディアリテラシーは、マスメディアが「強者」であるがゆえに情報の受け取り方を考えようというものだった。しかしここは、情報の「創造」と「伝達」(別のいいかたをすれば「コンテンツ」と「メディア」だ)を分けて考えるべきではなかろうか。その意味でいえば、マスメディアは情報の「伝達」における強者ではあっても、「創造」における強者では必ずしもない。この点に関して、業界の人がよくいう「最近の若い社員は」論にはあえて与しない。むしろ以前からそうだったのではないか、と問いたい。

最近までこのことはあまり意識されなかった。なぜか。情報源に直接アクセスすることができず、比較ができなかったからだ。しかし今はちがう。マスメディアが情報源としている当事者や専門家が、自分がコントロールできるメディアであるウェブサイトから、自分のことばで直接外部に向けて発信していくことができるようになり、実際に多くの人たちがそうするようになってきている。そうなってくると、不完全な知識や理解をベースに歪んだ意図を加え、さらに情報量に物理的な制約を加えられたマスメディア経由の情報は、受信者にとって、アクセスの容易さという面では今でも優位を保っているものの、その情報としての質という面で優位を保つのは難しくなってきている。

上記のメディアリテラシーの定義では、「読み解く」ことがカギとなっている。伝えられる情報の背景や意図を推し量る、つまり行間を読めということだ。しかし現在では、その意味合いがややちがってきてた。オルタナティブなメディアがすでにたくさんできているからだ。となると、不充分な情報を「読み解く」必要は必ずしもなく、むしろ数多くある情報を「さがす」「選ぶ」「組み合わせる」といった能力が重要となる。もちろん質は玉石混交。生の情報はしばしば読みにくいこともあるし、手間もかかるかもしれないが、そこはよくしたもので、「別の視点」からまとめようという人たちもたくさんいる。要するに、マスメディアの情報を苦労して読み解く必要は減ってきているのだ。

おかげでマスメディアの側は、めんどくさい状況に陥った。情報の「創造」と「伝達」が切り離されたために、「創造」部分では必ずしも強者ではないことが明らかになってしまい、かつ「伝達」部分でも新興メディアにその地位を脅かされているわけだ。これ自体はよくあるデジタルコンバージェンス論だが、メディアリテラシーに即して考えると、マスメディアはこれまで以上のリテラシーを持たないと情報源として選択されなくなるよ、という結論になる。それは新しい時代の流れについていこうという前向きな話ばかりではない。これまであった「隠れ蓑」がなくなったために露呈してしまった問題に対処しなければという話でもある。

こういうことを書くと、「マスコミ」を「マスゴミ」と言う人(ネットでは特によく見かけるねこのことば)と同列に見られるかもしれないが、そうではない。マスメディアを叩いている人の多くはむしろ、マスメディアを高く評価しすぎなのではないか。あるべき理想の姿とちがっているから叩くのだろうが、そもそもマスメディアはそれほど「神格化」されるべき存在ではない。メディアに過剰な期待を抱かないこと、これは従来からいわれていたメディアリテラシーの延長だよね。


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