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なぜ「リアリティ」に餓えるのか

2008年12月31日付朝日新聞に、社会学者の見田宗介・東大名誉教授のエッセイが出ていた。「リアリティーに餓える人々」というタイトル。2008年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、「この事件が、日本社会のどのような変化を表しているのだろうか」というのがテーマ。まあ年末恒例の世相読み解きものというわけだ。読んでいて「ん?」とひっかかっるものがあったのだが、いろいろ考えてみると触発されるものがあって面白かった。たぶん素人考えなんだろうけど。

このエッセイでは2008年の秋葉原の事件と、1968年に起きた連続射殺事件を並べて、時代の変化を説明する。同じように犯人が若者で、犯行が無差別で、動機がわかりにくく、その背景にアイデンティティの問題があることでも共通。でも決定的にちがうことが2つ。ひとつは「未来」。1968年の事件は「明るい未来」を信じられた時代であったのに対し、2008年は「明るい未来」が見つからない。もうひとつは「まなざし」。1968年は社会や身の回りの「まなざし」がまとわりつく時代、2008年はそれがなくなってしまった時代。これら2つを合わせて「空気」の「濃い時代」と「薄い時代」と整理している。どちらが悪いというものでもないが、どちらも行き過ぎると問題が出る。2つの犯罪はそれぞれそうした背景で起きたのではないか、と。

で、こうまとめている。

・・「薄くなりすぎ」、また、仮想世界に居直った「バーチャルな時代」の中で、リアリティーというか、古典的な現実への餓えが、この国に充満し始めたことが明らかになり、「バーチャルな時代」が臨界点に達したということを、Kの事件は象徴しています。

「K」は秋葉原の事件の犯人を指す。90年代後半以降は「バーチャルの時代」なんだそうだ。「電子メディアの発達で、古典的な現実なんてものにとってかわって、バーチャルな世界だけで、人間は、幸せにやっていけるんだと多くの人は思い込み、虚構に居直った時代」という意味(ちなみに1945年から60年ころまでが「夢の時代」、そのあと90年代前半までを「虚構の時代」と呼ぶのだそうな)。それが限界にきた、と読み解いたわけだ。で、方策はというと、「人を殺したり、自分を傷つけたりするのとは別の仕方で、生きるリアリティーを充実する仕方を青年たちが見つけることができれば、もう一つ新しい時代が開かれる」んだってさ。

うーん。「バーチャルな時代」というのはどうも紋切り型な感じがしてなんとなくやだなー、別に居直ってなんかいないけどな、などと思った。短い文章だからということもあるんだろうが、どうも都合よく丸めこまれたような感じがするな、と。で、考えてみた。

とっかかりは、「いったいなぜリアリティに餓えるのか」という点だ。

だってさ、リアリティって、目の前にあるじゃん?

もちろん、これは「リアリティ」の定義による。日本語で「現実」と置き換えてみると、最初に「いま目の前に事実として現れているもの」(Wikipedia)と説明されているが、そのあとながーい解説がついていて、いろいろな文脈でちがった意味合いを持っている(ちゃんと比べてないが英語版のWikipediaでも似たように解説されているように思うのでほぼ同等と考えておく)らしいことがわかる。

で、その「目の前に事実として現われているもの」という定義を採用するなら、誰の目の前にも、いつでもどこでも、現実はある。金が有り余って何に使っていいのかわからないのも現実なら、派遣契約を中途で解除されて路頭に迷うのも現実。何もすることがない退屈な日々を過ごすのも現実だし、イランまでのこのこ出かけていって武装集団に誘拐されるのも現実。

だからもちろん、人々が「餓え」ているのは、そうした意味の「現実」ではない。そうあってほしい、本来そうあるはずだと考えられる何かだ。むしろ「現実感」に近いだろう。これを以下、仮に「リアリティ」と呼んでみる。つまり、今目の前に見えている「現実」は「リアリティ」ではない、現実感が感じられない、というわけだ。本当の自分はもっと別な姿、別の状態にあるはずだ、リアリティが感じられるのは、今見ているものでないもっと別の何かだ、と。

「餓え」ということで食べ物にたとえれば、今目の前に食べ物らしきものがあるが、これは実際には食べられない偽物であるとか、食べられるがすごくまずいとか量が少ないとか、あるいはあるはずの食べ物が隠されているとか、そういうふうに見えるということだな。だから餓えているわけだ。

この「本来あるはずのリアリティ」と「今実際にある現実」との差は、どこから、そしてなぜ生じたのだろうか。

見田氏は、かつてはあったものが時代の流れとともに失われた、というスタンスだ。高度成長期には、誰もが将来を明るい姿で想像し、かつ社会の中の強い結びつきがまだ生きていた。人々はその「現実」を「リアリティ」をもって受け入れていた。しかしそれがその後の成長の鈍化や社会の変化によって失われ、それとともに人々は「現実」を愛さなくなり、「虚構」でその穴埋めをする時代を迎えたと。その「虚構」に満足できず、「リアリティ」を求めたのが1968年の事件。その後ネットの中の「バーチャル」で満足するようになったのが現在であり、その「バーチャル」に満足できず「リアリティ」を求めたのが2008年の事件。どちらも、実際にある姿としての「現実」を否定し、あるはずの姿としての「リアリティ」に餓え、それを求めて犯行に至った、との分析と解釈したんだがどうだろうか。

この図式に従って考えると、いえることがいくつかある。1つめ。まず、「リアリティ」への餓えは最近始まったものではないということ。経済や社会の状況はかなりちがっていても、40年前にはすでに「あるはずの姿」と「実際の姿」には差が生じており、それは象徴的な事件が発生するほどの状態に達していたのだ。つまりこの問題は最近になって生じた話ではないということになる。2008年の事件も、直接のきっかけはともかく、その源流はずっと前からあったと。より若い世代の論者はここまで遡ったりしないことが多い。世代論はできるだけ避けたいと思うのだが、このあたりは高度成長期を肌で知っている強みなのかもしれない。

2つめ。時計の針を無理やり元に戻せばいいというものではないということ。状況が昔とちがう以上、元通りにすることはできないというのは当たり前だが、それだけではない。見田氏は、過去を単に「古き良き時代」とは見ていない。不合理な慣習、個人を制約する人間関係など、「空気の濃い」時代にはそれなりに問題がたくさんあったのだ。それらと決別することによって私たちが獲得した「空気の薄い」現代社会は、ある意味で進歩でもある。これもまた、考えてみれば当然のことでありながら、「それ以前」を知らない若い世代の論者があまり触れたがらない(意図的に?)点ではなかろうか。

最後に、問題の解決はバーチャル世界をどうかすることではなく、現実世界のほうでどうにかしなければならないということ。バーチャルなものが発達したために人が現実から離れたのではなく、「現実」から「リアリティ」が失われたためにバーチャルに走らざるを得なかったのだ。「現実」と「リアリティ」の乖離が問題であるのだとしたら、対策としては「現実」そのものを変えること、「リアリティ」についての認識を変えること、またはその双方ということになろう。見田氏は、「生きるリアリティーを充実する仕方を青年たちが見つけること」としているから、どちらかというと後者の方だ。実際、この点はとても重要だと思う。乖離の種類や度合は、人によってちがう。根拠のない期待や必要以上の恐れを持たされてしまったために厳しい現実を受け入れられずにいる人もいれば、守られすぎた環境ゆえに自分が直面する現実を虚構と感じてしまう人もいるだろう。

もちろん、社会の中での資源配分のやり方にも問題があるとの指摘はあちこちでなされていて、それぞれそれなりに説得力がある。個人にすべて負わせてしまうのは公平とはいえない。しかし、資源配分がどのように歪んでいるかについては、所得階層、職種、年齢層など、分け方がいろいろあって、人によって考え方がずいぶんちがうから、社会的合意を形成するまでには時間と手間がかかるだろうし、何か変わったとしてもそれが自分にとって納得のいくものであるという保証はない。「百年河清を待つ」ということばがあるが、社会が自分の納得できるように変わるのを待ってはいられないというのであれば、まず自分で変えられる部分から変えていったほうがいい。

ただ、見田氏が「生きるリアリティーを充実する仕方」を見つけなければならないのを「青年たち」と限定してしまっているのは、短い文章とはいえどうかと思う。世の中の多くの問題は、傍から見るより複雑で、いろいろな原因があり、さまざまな要因が関係し、多くの人がかかわっている。単純に「○○が××すればいい」と片付けてしまうと、他の多くのものを見失ってしまうことになりがちだ。

「現実」に「リアリティ」を感じられないのは若い世代だけだろうか。40年前、銃の乱射には走らなかったものの同じような「リアリティへの餓え」に直面していたはずの数多くの「青年」たちは今、いまや高齢者の仲間入りをしようとしている。今の彼らは「リアリティ」に餓えていないのだろうか。下の世代からみれば「勝ち逃げの世代」とみられる彼らだが、その中にもさまざまな境遇の人がいる。もし「リアリティへの餓え」が「現実」と「リアリティ」との大きな乖離に起因するのであれば、それは若い世代だけに限られるものではない。

「餓え」は、「これは食べ物ではない」という本人たちの選り好みだけで起きるのではなかろう。ならば「社会の中に食べ物は充分にあるのか」という絶対量の問題、「食べ物は社会の全体に行き渡っているか」という偏在の問題を考えることも必要なはず。「リアリティ」という食べ物に餓えた人は、たくさんいる。その意味で、社会の中核でさまざまなものごとを決められる立場にいる人たちの責任は大きいといわざるをえない。

素人の与太話はここまで。この分野は専門の方がたくさんいるはずなので、ぜひ教えを請いたい。

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Comments

お話しをお伺いして、何が「薄くなった」のかを考えてみました。
「現実の喪失感」なのか、それとも「現実感の喪失」なのか。
今が生き生きして見えないというのは社会の側の問題なのではなくてそれを受け入れる「私」の問題であるなら、現実の喪失感の方が近いのかもしれませんね。

Posted by: padus | January 02, 2009 at 03:46 AM

padusさん、コメントありがとうございます。
今見ている現実からリアリティが失われてしまった原因は個人と社会の双方にあるのではないかと思います。それが社会にとって問題であるなら、誰かがということではなく、皆がそれぞれ考えていくべき問題なのではないかなと。

Posted by: 山口 浩 | January 02, 2009 at 02:49 PM

山口先生、お邪魔します。

当記事を拝見しながら頭に浮かんできたのは「疎外」という言葉。ええ、マルクスの言葉です。

マルクスは生産手段が資本家に独占されることから労働者の疎外が生じるんだとしていたように記憶していますが、もともとアチラでは、そうした労働観が支配的であるような気もします。労働は「現実」に従うもので、余暇は「リアリティ」を求めるもの、という二極分化。

で、日本はといいますと「濃い空気」の時代から「現実」と「リアリティ」の二分化が進んだことに加え、現在は少なくない人々から「リアリティ」を求めるのに必要な(経済的)余裕が奪われて、すべての場面が「現実」となってしまった。そういう状況が一部の人たちの言う「いきづらさ」を生んでいる、と。

Posted by: 愚樵 | January 03, 2009 at 05:34 AM

愚樵さん、コメントありがとうございます。
よくわからないんですが、すべてを資源配分の問題に帰するのはちょっと違和感があります。特に「生きづらさ」については、むしろ「期待」というか、「肥大した自我」みたいなもののほうが大きな要因ではないかと思いますがいかがでしょう?
あと関係ないんですが、どうして「そっち」系の話は必ずマルクスまでさかのぼっちゃうんでしょう?近代経済学系の話だと、アダム・スミスまでさかのぼらなきゃいけないことってそんなに多くないように思います。よく知らないんですが、マルクス以降の「そっち」系の論考ってのは見るべきものがないんでしょうか?

Posted by: 山口 浩 | January 03, 2009 at 03:03 PM

はじめまして。
コメントありがとうございます。平岡公彦です。

新年早々不躾なトラックバックをお送りして申し訳ありません。

>英語の「reality」と日本語の「リアリティ」は意味がちがうのではないか

私も一素人にすぎませんが、おっしゃるとおりだと思います。
本来の英語の用法ではリアリティは「現実そのもの」という意味で使われるのかもしれませんが、日本語の文脈では、たとえば凄惨な事件や事故など、目の前で起こった受け入れがたい出来事に対して「リアリティがない」と表現することはあまり一般的ではありません。

同様にリアリティを現実の出来事についての「現実感」という意味で用いるのも一般的ではありませんが、

>むしろ「現実感」に近いだろう。これを以下、仮に「リアリティ」と呼んでみる。

山口さんは以上のように特殊な用法であることを注記しておられますので、私の批判はやや一方的だったかもしれません。

ただ、見田先生が問題としているような「リアリティー」は、小飼弾さんの言うような「生きる手応え」のようなものであり、「現実感」よりも強い意味合いを含んでいるように思われます。

であれば、見田先生は無用の混乱を避けるために用法のあいまいなクリシェを用いるべきではなかったのではないかと思います。

結局のところ、私はリアリティという言葉の軽薄な響きに反発したかっただけなのかもしれません。

Posted by: 平岡公彦 | January 03, 2009 at 06:01 PM

平岡公彦さん、コメントありがとうございます。
私は素人なので、まず辞書とWikipediaを見ました。「reality」についていろいろな議論があることがわかりましたので、まずは定義しとこう、と思いました。
私自身が日常的に使う語感では「リアリティ」は「現実であると感じられること」だったので、他の人もほぼ似たようなものだろうと思いまして、本文のような書き方になったわけです。現実に起きている事実をこの意味での「リアリティ」をもって受け止められないという経験をしたことはありませんか?私の知る限り、そういう使い方をしている人は少なくないように思います。
見田宗助氏の他の著作は不勉強にして知りません。少なくともあの文章ではそう解釈しても意味は通るように思われました。少なくとも「リアリティー」を「reality」の意味では使っていないということはわかりますね。
辞書を見る限り、「reality」というのは自分自身の精神状態やそれに対する認識というよりも、外界のようす、ないし外界について内心に形成される認識をあらわすことばのように思われます。もしそれが正しいなら、「生きる実感」をあらわしたい人は別のことばを考えるべきだと思いますね。
ともあれ勉強になりました。
ありがとうございました。

Posted by: 山口 浩 | January 04, 2009 at 09:38 AM

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