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「品格」を語ることの「品格」を語る、という話

いっとき流行って、その後忘れ去られたかと思ってた「品格」論だが、なんだかちがったところでまた出てきてるらしい。で、2009年2月15日付朝日新聞「耕論」欄に「『品格』ってなに?」というテーマの記事が出てる。識者3人のインタビュー。コラムニストの泉麻人氏、ジャーナリストの桜井よしこ氏、国語学者の金田一秀穂氏。これがなんか面白くて。

記事には「品格」年表みたいなものがついてる。「品格」が話題になった最近のできごと。

05年11月 藤原正彦著「国家の品格」が刊行され、265万部(09年2月までの発行部数)のミリオンセラーに
06年9月 坂東眞理子著「女性の品格」が刊行。現在までの発行部数は310万部に。同じ著者の「親の品格」(07年12月刊)も85万部に
07年1~3月 篠原涼子主演「ハケンの品格」(日本テレビ系)がヒット
09年1月 大相撲初場所で優勝した横綱朝青龍のガッツポーズが、「品格はゼロ」と問題に

なるほど最近の「品格」界のホットイシューは相撲なわけね。で、3氏はこのあたりを話題にしてるわけだが、それぞれ自分のドメインにひっぱっていってるところが面白い。

泉氏にとっての「品格」は、ひとことでいえば「分相応」ということらしい。同じことをやっても、立場によって求められるものがちがうから、評価もちがってくると。

当初は型破りで面白いと思われていた人が格式高い席についたとたん、今度は型にはまった言動を求められる。

ふむ。「朝青龍のガッツポーズも前頭くらいを駆け上がっている途中に出たものなら、品格なんて問われなかったでしょう」とあるが、これはもちろん相撲界だけではなくて、泉氏は政治家も同様という。「べらんめえで親しみやすい」政治家が首相になると「軽い」「器が小さい」となる、と。そういうのあるよねぇ。

ここでのポイントは、求められる「品格」の度合いは人によってちがうということ。高い地位、責任を負うべき立場になればなるほど、求められる「品格」の程度も高くなるっていう考え方だ。逆にいうと、そういう立場でない人たちにとっては、「品格」はまあ日常あんまり気にしなくていいよね、ということかな。

で、次に桜井氏。この人にとっての「品格」は「感情を律する」こと。

勝者も敗者も互いへの賛辞をつつましやかに表現し、感情は律するのが、本来の姿です。それが消えてしまい、私たちの文化であったはずのものが、どこか異文化のようになってしまいました。

だそうで。柔道もしかり、だそう。スポーツだけじゃない。「かつての日本人の誇りもまた、自らを厳しく律することで凝縮された」のだそうだ。「私たちがなじんできたしらばく前までの社会では、品格や矜持といった価値観が大切にされ、人々の言動にも反映されていました」とのご主張。えらい人たち、りっぱな人たちだけじゃない。一般庶民まで、と。だから、誰も逃れるすべはない。みんな「同罪」ってわけだ。「生きづらい」なんていっちゃいられないね。いやたいへんだ。

私はこの方よりかなり年下なのだが、この方がいう「しばらく前までの社会」の残滓ぐらいは見聞きしながら育ったという計算にはなろう。という前提で、個人的な感覚でいうと、かつての「すべて」(大部分、といいかえてもいい)の日本人が品格やら矜持やらを備えていたということはないと思うね。ただ、公的な場では品格のないふるまいをするまい、といったタブー感は今よりずっと強かったと思うが。「自分を律する」のが「私たちの文化」の一部であったことは認めるけど、それが全部じゃない。さらに加えていうと、「自分を律する」文化は、「しばらく前」の人たちだけのものでもないし、「私たち」の国だけの専売特許でもないよ。

で、最後に金田一氏。これが面白い。まず、「品格というのは、そんなに古い言葉ではなく、明治以降に広まったものでしょうね」ときた。で、これは「社会的な階層や具体的な地位を指すものではない」、つまり俗世間とは違った価値観を示す言葉だと。だからこのことばを「政治家とか実業家」みたいな俗世間の人に対して使うのは「そぐわない」んだって。で、「国家」に至っては、

同じ意味で、「国家」と「品格」もミスマッチな感じがしますね。

と一刀両断。さらに、

何でも品格、品格というのは、品格のある日本語ではないですよ。

でとどめ。「国家の品格」なんてものを論じてる時点でその人自身が品格からは程遠いってことかいな。横綱に対して使うのが適切なのかどうかについては書いてない。横綱もある意味「地位」であるわけだが、「そういう『品格』のある人を横綱に選ぶべき」という文脈ならアリ、なんだろうか。

というわけでもないのかな。この主張には、もうちょっと背景があるから。今の時代はなんでもすぐにレッテルを張って思考停止になってしまっているのではないか、という問題意識。

社会全体がすぐに答えを求め、白黒をはっきりさせたがっている。特に若者にそれを感じます。世の中は白でも黒でもない、灰色なんだから、自分で考えろというと、考えるのは嫌だと思考を停止してしまう。品格というレッテルを張って、それで片付けたような気になる。

これは手厳しい。相撲の問題にしても、「しっかりした価値観を持っていないから、~(中略)~二分法にしてしまう」といわれて、「自分はちがう」といえる人がどれくらいいるか。

この問題、けっこう根が深いと思う。若者だけじゃないと思うな。63歳のジャーナリストや、65歳のエッセイスト数学者は、もちろん自分で考えてるから思考そのものの停止ではないだろうが、最近の政治家と同様、「わかりにくいのは受けないから、わかりやすくしようとする」という理由で、ワンフレーズで伝えようとするという「手抜き」に陥っていないか。媒介するメディアの側も、伝えられる私たちの側も、めんどくさいからついワンフレーズでまとめてもらうことを求めてはいないか。「品格」に限らず、「ワンフレーズ」にまとめられてることばの例は、ちょっと考えればいくつも思いつくはず。こういうのは「品格」のあるふるまいとはいいにくいと思うのだがどうだろう?もちろん、「品格」のないことにかけては人後に落ちない自負を有する私も同じ穴の狢。

というわけで、「品格」を身につけたかったら、まず「品格」ということばに頼るのではなく、具体的な行動や言動で勝負してねってことらしい。誰もやらない行為を禁ずる法律は不要ってのと似てるな。というわけで、世の中にたくさんいるらしい「品格」好きの皆さん、「品格」はことばではなく、行動や態度で示していただくとよろしいのではないかな。「品格」のない私はこれからも自由に使うけどね。


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