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雑誌目次をみる:「世界思想」

たまにやる「雑誌目次をみる」シリーズ。今回は「世界思想」。いやこれ面白いよ。

世界思想社という出版社がある。「学術専門書・教養書」専門、であるらしい。この会社が出しているのが「世界思想」。まんまのタイトル。価格が記載されていないところを見ると、無料配布なんだろう。巻末には同社刊行の書籍の目録が。本来は雑誌というより、こちらが主目的だとは思うが、記事のほうもこれがなかなかどうして。私のところにこれが送られてきたのは、一部を書いている「コンテンツ学」がここから出版されている関係かと思う。

で、この「世界思想」というスケールの大きな(いや実にでかいね)タイトルの雑誌の2009年春、第26号の特集は「大学と教養」とこれまたスケールが大きい。いやそれだけではなくて、執筆者もこれがまた「重鎮」ぞろいで、なんだか恐れ多いのだよ。目次はこんな感じ。

・大学と教養
  猪木武徳
・高等教育の普及は下等大衆社会の普及なり
  竹内洋
・「時代の終わり」の教養
  森毅
・知の制度化を超える力
  内山勝利
・大学人と生きている教養
  坂東昌子
・「集団嫌い」と大学
  渡部真
・大学に教養はあるか
  川村邦光
・中教審答申の中での「教養」
  濱名篤
・自己成長モードが大学生を教養に導く
  溝上慎一
・共感のためのリテラシーとしての教養
  乾淑子
・違和感を手放さずに
  大門正克
・旧制高校と教養
  竹尾治一郎


なんというかな、皆さん大ベテランだけに、話のスケールも段違い。まさしく正攻法、大上段に構えて一気にドーン!とくる。そういうお歴々が「教養」について語るわけで、目からウロコ、頭から火花の「名言」やら「金言」やらがたくさん。文脈を無視するのもどうかと思うが、目を引いたものをいくつか抜いてみる。まずはこれ。

・・工業化が、大学で何が教えられ、何が研究されるべきかという議論に大きな影響を与えた。大学では人文学が最近衰退しているとよく言いますけれども、これは産業革命以来の現象なのです。そして日本だけに起こっている現象でもない。・・人文学軽視というのは、これもう一種の「デモクラシーの病」みたいなところがあるのではないか。・・デモクラシーの下では、我々は何事も、知識の獲得にしても、経済的成功に繋げて考えるとか、実利性が特に私的な局面に集約されすぎるという点に問題があるのです。
―「大学と教養」

うわ。一気に産業革命まで戻っちゃった。さすがに大御所はスケールがでかい。・・ってことは、この方が生まれたころにはもう、人文学の衰退という問題は発生してたってことだな。しかし、「デモクラシー」を「敵」に回しちゃうのは、・・いやまあありうる考えだし、正直なところ全く反対というほどでもないのだが、やっぱり少々やっかいじゃないかなぁ。「デモクラシー」って産業革命のはるか前からあったんじゃなかったっけ?古代ギリシャまで「敵」に回したら、そりゃさすがに「人のせいにすんな」っていわれちゃうんじゃないかな、並み居る「哲人」の皆様に。

次はこれ。

本を読む大学生から本を読まない大学生への変化は、書籍の購入における学生の割合にみることができる。一九六四年に購入された書籍のうち、大学生によって購入された割合は三二%である。これに中高生を加えると、書籍の実に半数近くが学生によって購入されていたのである。旧制高校にはじまった本を読む学生はここまで広がったのである。
ところがそれから三〇年後の一九九四年になると、大学生の書籍購入割合は八%。三〇年前の四分の一。大学生人口が増大したことを考慮して割合を計算すれば、大学生の書籍購入の割合は、三〇年前(一九六四年)の八分の一以下に縮小してしまった。
―「高等教育の普及は下等大衆社会の普及なり」

おお、いわゆる「ktkr」的な。確かに自分の身の回りの学生も、個人差は大きいが総じていえば、あまりたくさん本を読んでる雰囲気ではない。でも昔もいたよなぁそういう人・・と思ったところであれ?なんだか違和感が。で、少し数字を追っかけてみる。まず、日本の出版市場が1990年代後半から下落傾向にあるのは事実。「情報メディア白書2009」なんかを見ると、1996年の約2.6兆円から2007年は2.1兆円に落ちてる。ただ書籍の下落幅は雑誌より小さい。で、ピークがその90年代半ばあたりだったはず。じゃあ、この方が比較対象として挙げてるころと比較したら?というわけで、経済産業省の商業統計へ。ここから「産業細分類別 書籍・雑誌小売業年間商品販売額」なんてのを見てみる。上の文章に近いところで1972年は、469,066百万円、これに対して2007年は2,148,603百万円。ふむ、約4倍か。この間、消費者物価指数でみると、雑誌の価格は2.5倍、単行本の価格は約4倍になってるから、まあ内訳は別として、なぁんだ「書籍の実に半数近くが学生によって購入されていた」ころと全体としてはさして変わらないんじゃないかな、と。

とはいえ、実際、大学生の書籍購入割合が落ちてるのも事実。大学生協組合連合会の「第44回学生生活実態調査」でも、2008年の大学生の平均読書時間は48分。上記の引用元には「1971年には108分」とあるから、だいぶ減ってる。でもさ、ちょっと待って。問題はそこだけじゃないぞ。大学生だった人たちって、卒業して社会人になったりするわけだよね?その人たちはどうなの?

文科省の「学校基本調査」によると、1964年の大学進学率は15.5%だったが、2004年では42.4%になってる。1960~70年代と90年代以降に大きく伸びたので、その間の80年代あたりは横ばい。ともあれこの期間ずっと、大学はせっせと大量の大卒者を社会に送り出してきたわけだ。で、その結果どうなってるかというわけで、「就業構造基本調査」から「男女,就業状態,教育別15歳以上人口(昭和43年~平成19年)」を見ると、1968年時点で15歳以上人口のうち短大・高専卒(大卒・院卒含む)は約8.2%だったものが、2007年時点では、15歳以上人口のうち大卒・院卒の割合が約17.3%、短大・高専卒を加えると33.8%にもなると。

確かに、大学進学率の上昇は、おそらくそれまでは大学に入ってこなかったであろう、あまり本を読まない人たちも大学に入ってきているという状況をもたらしているのかもしれない。本を読む大学生たちも、かつてほどは読まないのかもしれない。でも、どう低くみても、1972年当時と比べて、今は数倍の大学経験者がいるはず。そういう人たちの一部でも本を読み続けていれば、書籍購入に占める現役大学生の割合が下がるのはむしろ当然ではないか。

まだある。1964年当時大学生だった人たちは、そろそろリタイアするころだ。本を読む時間なんていくらもあるだろう。それより若い「現役」世代の社会人たちも、自己啓発やら教養やら娯楽やらのために、本を読む必要はあるはず。にもかかわらず、出版物の総量が増えてはいないのだとすれば、大学生が本を読まなくなったという要素もあるのだろうが、それと同じくらい、大学卒の大人たちも卒業以降本を読まなくなっているということではないのか?そういう意味でいえば、大学生が本を読まないことだけをあげつらうのはどうかと思うし、少なくとも書籍購入に占める大学生の割合でそれを説明しようとするのはミスリーディングだと思う。そういうあたりについてのリテラシーも「教養」の重要な一部ではないかと思うのだが、ちがうのかな?

この方は、「大学進学率がある臨界点をすぎると、集団内に働く力が優位模倣から劣位模倣に反転するのではないか」という主張もされているが、これもどうかと思う。子どものけんかみたいなことを言いたくなるね、「見たのかよ?」って。この方は「教養」を世の中の全員が共有すべきものとは考えていないわけで、だったら平均値やら全体的な印象やらでものを語るのは、そもそも自らの主張の基盤を崩すものではないか。

次。

教養というものの定義は、ある社会における共通の知識であり、その内容にあまり低俗なものは含まないのが常であった。なおかつそこには人格の陶冶に寄与するというような役割も期待されている。簡単にいってしまうと、「中流階級のリテラシーとしてのハイカルチャー」と定義し直すこともできるだろう。
現代の日本でいえば、バッハとヘンデルは聞き分けられなくてもバッハとショパンを混同することはなく、ピカソとマチスを取り違えてもピカソとモネの区別は必修だろう。
―「共感のためのリテラシーとしての教養」

うむ。これはたいへんだ、とあわてる方が少なからずいるのではないだろうか。「教養がある」といわれるためには、バッハとショパンを聞き分け、ピカソとモネの区別もつかなければならないというのだ。「よーし任せとけ」といえる人はいったいどのくらいいるだろう。これはけっこう高いハードルなんじゃないだろうか。それに、きっとこれだけじゃなくて、もっとあるよ。きっと歌麿と写楽の区別はつかなくとも歌麿と広重の区別はつくとか、武者小路実篤と志賀直哉の区別はつかなくとも夏目漱石と芥川龍之介の区別はつくとか、越路吹雪と美空ひばりの区別はつかなくとも小林幸子と美川憲一の区別はつくとか、ディアルガとパルキアの区別はつかなくともピカチュウとニャースの区別はつくとか、分野によっていろいろ「これは最低限」とされるラインがあるにちがいない。それを全部クリアしなければ現代人としての「教養」があるとはみなされないのだよ諸君。うーんこれは「検定」が必要だね。「現代教養人検定」。ほーらまた財団が1つ作れるじゃない。

さあて、今から勉強しとかないと。「現代教養人」として区別できなければならないものというと、・・うーん、たとえば・・、「宮沢賢治」と「宮沢喜一」、「松岡修造」と「長島一茂」、「マスカルポーネ」と「ゴルゴンゾーラ」、「みぞう」と「みぞうゆう」、「村上春樹」と「村上龍」と「村上隆」、「のっち」と「かしゆか」と「あーちゃん」、「竹中平蔵」と「長谷川平蔵」と「服部半蔵」と「谷亮子」、「小澤征爾」と「小沢一郎」と「小沢健二」と「小沢昭一」と「小沢君、どこ行ってもうたんや」、「小飼弾」と「段田男」と「モロボシ・ダン」と「シャルル・ジョルダン」と「ジネディーヌ・ジダン」と「宮脇檀」(!)と「スティーリー ・ダン」(!!)と「ロケット団」(!!!)と「フコイダン」と・・

まあこのへんにしとく。おあとがよろしいようで。

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Comments

個人的にはドン小西とゴン中山も区別できるようにしたいですね。
あと、中村俊輔と中村俊介とか。

うーん、この「中流階級のリテラシーとしてのハイカルチャー」って「勝ち組・負け組」的な発想に聞こえます。
絵とか音楽の知識って、その人の興味の度合いとか環境によりますよね。
乾氏がショパンを聴いてピカソの絵を鑑賞するのは、興味があって、それなりに環境も整ってるから。ようはCD買ったり美術館行ったりする「余裕」が必要なわけで。

もちろんその筋のスペシャリストになるのはすごいことで、ピカソの絵がわかるのは教養があるってことになるかもしれないけど、「共通の知識」がピカソやらショパンなら、それを見たり聞いたりする「余裕」がない人はどーすんのよってわけですよ。これ以上は書きませんけど。

僕は「あなたはピカソもわからないの?教養のない人ですね」なんて言われた日にゃぁもう「じゃぁあなたはジャッピーニャとシニーニャの区別はつきますか?小山剛史と小山浩二は?」って聞きたくなります。
まぁかなり極端ですが、人の知ることのできる世界は狭いものなんだよと。

あと、本を読まない大学生はちょっとわかります。
僕の周りもマンガしか読めないっての多いです。
マンガも本じゃんって言われたらおしまいですけど。

ちなみに僕は両方がっつり読みます。
マンガしか読めない大人にもカタい本しか読めない大人にもなりたくないし、なにより両方とも面白いし。

Posted by: kurotan | May 08, 2009 at 05:36 PM

kurotanさん、コメントありがとうございます。
ああそうか、これは大喜利ネタなんですね。「教養ある現代人として区別できなきゃいけないものは?」
お気づきの点ですが、それはまさにこの議論が意図するところです。一種のエリート主義ですね。それは悪い、という議論があるのと同時に、エリート主義で何が悪い、という議論もあるわけです。それが文化を、社会を支えているのだと。
ハイカルチャーとポップカルチャーの対立はそれこそ昔からのことで、たとえば半世紀前なら、エレクトリックギターを買おうとするだけで周りから「不良」(!)と呼ばれ、親と大喧嘩し、という状態だったわけですよ。「低俗」の定義は時代とともに変わりますし、人によっても異なります。「教養」に異論はないとして、それが何かについては、いつの世も議論の対象になるってことですね。kurotanさんも自分の、そして自分たちの世代の「教養」を考えてみてください。

Posted by: 山口 浩 | May 09, 2009 at 05:03 PM

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