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司法制度のタイプIエラーとタイプIIエラー

やや手短に。刑事司法の手続きにおいて、被疑者取調べの過程を可視化すべきかという議論がある。要するに、取調べのようすを撮影しておくかどうか、といった問題だ。一部については実現しているが、全てを記録しなければ意味がないという有力な主張がある。これに対して、警察や検察などは、「信頼関係を損なう」というわけのわからない理由で反対している。

どうもこういう、論点をはぐらかすような議論というのは、傍から見ていて居心地が悪い。わかりにくいじゃんはっきりいえばいいのに、とか思う。まあたぶん、当事者としての立場上、いいにくいのだと思う。ならば無関係のところからというわけで、こういうことなのかな?というあたりをひとくさり書いてみる。

裁判制度というのは、真実がわからないという意味で調査手法であり、国家権力の使い方を決めるという意味でで意思決定手法でもある。そういうことをやる学問というのは法学以外にもいろいろあるわけで、参考になる考え方もけっこうある。

ここでは統計学をとってみよう。よくわからないグループの性質を知るために、そこから一部サンプルをとって、そこから推し量る検定のプロセスを考えてみる。まちがいのない推論をするためには、はっきりとあらわれた性質だけをつかまえるようにすればいいが、そうしてしまうと、存在するかもしれないがはっきりとはしていない性質はとらえらえない。逆に、存在するであろう性質をもれなくつかまえようとすれば、その中にはひょっとしたら本当は存在しない性質も入ってしまうかもしれない。

統計学の基礎を学んだ人なら、こういうのを「タイプ1エラー」「タイプ2エラー」と呼ぶ、と聞いたことがあるはずだ。

タイプ1エラー:帰無仮説が真であるにもかかわらず棄却する誤り
タイプ2エラー:帰無仮説が偽であるにもかかわらず採択する誤り

おおざっぱに例を挙げる。たとえば「男性より女性のほうが長寿である」みたいな仮説について検証したいとする。帰無仮説は「男女に寿命の差はない」。これを、男女を含むサンプルを調べることによって推定するわけだ。この例だと、タイプ1エラーは男女の寿命に差がないのにあるとしてしまうこと、タイプ2エラーは男女の寿命には差があるのにないとしてしまうこと、となる。

こうしてみると、この考え方が、ある人が犯罪を犯したかどうかを判断する刑事裁判のプロセスとよく似ているのがわかるはず。刑事裁判においては「無罪の推定」があるから、帰無仮説にあたるのは「被告人は有罪ではない」という仮説だ。となると2つのエラーは

タイプ1エラー:無実の者を有罪としてしまう誤り
タイプ2エラー:犯罪者を無罪としてしまう誤り

といいかえられる。

統計の例を引き合いに出したのは、2つのエラーがトレードオフ、つまり相反する関係になっているということをより自然に納得できるだろうからだ。刑事裁判となると人の財産身体生命がかかるから、つい「どちらのエラーも許さない」「真実を追求する」という理想論に走ってしまう人が少なくない。捜査機関の人たちが取調べ過程の可視化論に対して「信頼関係の破壊」という不明瞭な理由で反対するのは、「そんなことをすると犯罪者を無罪にしてしまうかもしれないぞ」という「本音」を表立って出すことができないから、という理由もあるからだろう。袋叩きになっちゃうからね。

しかしものごとはそんなに簡単ではない。うろ覚えだが、「レイダース:失われた聖櫃」中のインディ・ジョーンズのせりふで、「真実を求めたければ哲学の授業へ行け」みたいなことばがあったと思う。現実の世界で「真実」などといっても空論に終わる。どんなに取り繕っても実態は変わらない。

タイプ1エラーを減らそうとすれば、タイプ2エラーを起こす確率が高まることはじゅうぶんありうるし、実際少なくともある程度はそうなるだろう。つまり、古舘伊知郎が何度も力説するように「無実の者を有罪としてしまうことは絶対あってはならない」のであれば、その必然的な裏返しとして、犯罪者が無罪となるケースを容認しなければならない。その覚悟がある人は、私たちの中でどのくらいいるのだろうか。

この点、制度設計上は明らかに「ある程度は覚悟あり」の側になっている。刑事裁判は本質的に国家権力が国民の権利を奪うものである以上、上記の表現でいえばタイプ1エラーこそが避けるべきものとなるからだ。いわゆる「無罪の推定」もそのためだし、同じ事件に関する刑事裁判と民事裁判で認定がちがったりするのもそのためだ。しかし私たちの中には、実際のところこの覚悟がない人がけっこういるのではないか。それが捜査機関の人たちをジレンマに直面させているという要素はないのか。

捜査機関の人たちは、この圧倒的に「不利」な状況の下で、国民生活の安寧を保つという大きな使命(自らの名誉やら立身出世やら保身やらのためもあるだろうけど)のため、いろいろと「努力と工夫」をしている。その中には「炎天下のアスファルト道路にはいつくばって証拠を探す鑑識のトメさん」の姿もあれば「雨の日も風の日も地道な聞き込みに明け暮れる和久さん」の姿もあるし、数兆分の1の精度で個人を特定する最新式DNA鑑定技術もあれば悪漢を取り押さえるための日々の訓練もあるわけだが、それだけですむわけではないらしい。「国の母ちゃんが泣いてるぞ」とか「カツどんでも食えや」みたいなものはまだ穏やかな類だが、連日の長時間取調べやら弁護士の接見禁止やらも「努力と工夫」だし、「仲間はもう吐いたぞ」みたいな「方便」もあれば「『早く正直なじいちゃんになって』と書いた紙を無理やり踏ませることもあるかもしれないし、あったはずの証拠がなぜかなくなることもなかったはずの証拠がなぜか出てくることもあるいは、となるわけだ。

別に違法捜査を擁護するつもりはまったくないが、ありえないほど高い現在の有罪率がこうした「努力と工夫」に支えられていることも事実だ。「もっとしっかりやれ」と彼らを責めるのはたやすいが、彼らとて神様ではないからミスもある。目的で手段を正当化する考え方や責任を隠蔽する体質はいただけないからどうにかすべき(取調べの可視化もその流れで考えるべきかと思う)ではあるが、冤罪をなくすため不可避的に発生するタイプ2エラーも「しっかりやれ」に含めて一方的に怒られたのでは、彼らとて立つ瀬がないではないか。

司法のプロセスに国民を参加させるしくみというのは、なんだかよくわからないままハンコだけ押せ、ということではなく、メリットとデメリットをきちんとわかったうえで判断を下してくれ、ということであるはずだ。もうちょっとお互いリーズナブルになろうよ、といいたいのだがどうかな。


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