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June 08, 2009

「ビッグ・ブラザー」って私たち自身のことだったんだ

ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する「ビッグ・ブラザー」は、物語の舞台となっている「オセアニア」の政治指導者だが、現在私たちが「ビッグ・ブラザー」的なるものをイメージする際には、「人々の生活のすみずみにわたるまでを事細かに監視する者」「単一の思想ややり方を強制し、それに従わない人たちを強制的に排除したり罰を与えたりする者」というニュアンスを持つことが多いように思う。管理社会、監視社会のシンボル的存在。どちらかというと、個人というよりは組織やシステムとしてイメージされているのではないか。

現在の私たちの社会にこうした存在はあるのだろうか?と考えると、これはまちがいなく存在する。問題は、それがいったい誰か、ということだ。

「1984年」は何度か映画化されてる。これは1984年(!)製作のMichael Radford監督作品の冒頭部。「ビッグ・ブラザー」はその後半に登場するヒゲの人。Wikipediaによると、スターリンをイメージした人物像なのだそうで。

一方、現代の「ビッグ・ブラザー」の典型的イメージというと、こんなところではないか。張り巡らされた監視の網、つまりシステム自体であり、これを不気味に思い、抵抗しなければ「1984年」のようになってしまうぞ、という問題意識が伝わってくる。これらは海外の話だが、もちろん日本でも、程度の差こそあれ、同様の動きがあることは、ご存じの方も多いのではないかと思う。

権力からプライバシーや思想信条の自由を守るという発想は、民主主義社会にとって必要なものであり、健全なものであると考えていいだろう。私たちが権力からの監視の目を半ば本能的に嫌うのは、その矛先が私たちに向かってくるという恐怖があるからだ。放っておくと彼らは自身の安寧のために権力をどんどん増大させ、私たちへの監視をどんどん厳しくし、知らないうちに私たちを支配し、抑圧していく。思想の統制がおこなわれるようになり、彼らの意に沿わないものは次々と投獄され、処刑されていく。やがて社会全体が闇に覆われてしまう・・・とまあ、こんな図式だろうか。いや恐ろしい。この物語に描かれた世界になんだかとても近いと思われる国がすぐ身近にあったりもするせいで、この恐怖、けっこうリアリティがある。

しかしちょっと待て。「かの国」はともかく、私たちの社会においては、「統治する者」と「される者」とが固定されているわけではない。いろいろな問題はあるが、基本的に誰でも能力次第で統治する側に回ることができる。だいいち、私たちの社会では、「彼ら」は単に自分たちの権力を増大させるためだけに活動しているのではない。なんだかんだいっても、突き詰めればやはり彼らとて「いい存在」と思われたいのだし、そうでなければ、少なくとも中長期的には権力を維持できないしくみになっている。

上に挙げた動画にもあるように、私たちの社会でも、私たちに対する監視の目を強めようという動きはある。単に監視するだけでなく、さまざまな分野で、規制を強めていこうという動きがある。これらは、「権力者」やその取り巻きたちの権勢欲や自己保身に基づいたものだろうか?彼らは邪悪な存在なのだろうか?

そういうものもあるだろうが、おそらく大半はちがう。では何が彼らをああした行動に走らせているのか?

国民の声だ。

安全な社会を求める国民の声、クリーンな社会を求める国民の声。犯罪の予防や抑止を願う国民の声、公務員の職務怠慢を責める声。それ自体としては反論しにくい、こうした声が集まり、大きな力となって、権力の行使に携わる人たちを動かしている。監視しているのは権力者側だけではない。マスメディアも国民も、どこかに叩く先はないかと目を皿のようにして探し回り、何かみそをつけた組織なり人なりがあれば、いっせいに集中砲火を浴びせる。そのための道具立てが、近年急速に発達してきていることもあって、その力もどんどん増大しているようだ。

最近の流行は、弱者の視点に立てる度合いの競争で、誰もが糾弾される立場になりうるという意味では、たとえは悪いが、つい魔女狩りを連想してしまう。もう1つよくある、リスクを完全に除去せよという類の要求は、素人判断的には不潔恐怖症(「アライグマ症候群」ともいうらしい)とごく近い親類のように思われる。なんにせよ、それらは結果として、私たち自身の生活を息苦しく、つまらなくし、かえって危険にさらすものとなる。

なんだ。現代の「ビッグ・ブラザー」って、要するに私たち自身のことだったんじゃないか。

もちろん、こうしたもののおかげで社会がよくなった側面もある。けっこう、たくさんある。全体としてみれば犯罪は起こりにくくなったし、まかりとおってきた不正もだんだんやりにくくなっている。これまで無視されてきた小さな声を広く発信する方法、拾い上げる方法、広めていく方法が発達し、社会の中で共有されるようになる可能性は明らかに高まった。こうしたものの価値は、いくら強調しても強調しきれないほど高い。

それらすべてを前提としてだが、私たちは、「ビッグ・ブラザー」的なるものに対する警戒感の少なくとも一部を、私たち自身の無邪気な要求に対しても向けておくべきなのではないかと思う。

私たちが自然に抱く他人への関心は、ひょっとしたらその対象となった人にとって耐えがたい苦痛かもしれない。何かに対して抱く共感や反感を共有していない人がすぐそばにいるかもしれない。社会の中での情報の共有は必要だが、共有すべきでないことも少なからずある。社会の中での合意形成とは、皆が同じ考えになることではなく、ちがいを認めたうえで、互いに納得できる点を探すことだ。誰かにとって「完全無欠の社会」があるとしたら、それは他の人たちにとって耐えがたいものとなる可能性が高い。私たちが築くべきなのは、そうした「極端」な社会ではなく、より多くの人が「がまんできる社会」なのではないか。

もちろん、だからといって、そうした束縛や干渉を一切認めないというのもどうかと思う。プライバシーは重要な価値だが、他人の生命や身体を犠牲にしてまで守るべきものでもなかろう。どんな組織でも運営上一定の「遊び」は必要だが、公費をかつてのように「無駄遣い」する余裕はいまや許されまい。正解はどちらの両極端にもない。情報技術の発達は、権力側だけでなく、一般国民の力をも高めた。「ビッグ・ブラザー」の力を手にした私たちは今、それを使いこなす知恵と、新たなバランス点を見出す努力が求められているわけだ。

そうしたことが理解されなければ、私たち自身が互いにとって「邪悪」な存在となってしまう。そういう想像は気分のいいものではないが、私たちの社会が民主主義を標榜するのであれば、やはりここは直視しなければなるまい。私たちの権利は、私たちの責務とともにある。そのうえで、私たちに開かれた可能性とともに、私たちを待ち受けるリスクをも受け入れる必要がある。適切なレベルで監視を行うことは、適切なレベルで監視を受け入れることでもあるし、自由を求めるなら、他人の自由も同様に認めなければならない。今の若いやつがどうとか、ネットがどうとかいう話ではない。民主主義ってのは、基本的にそういうものだよね、という、当たり前といえば、当たり前の話。

件の「1984年」と、関連ぽい本を。


「完全に管理された虚構の社会」を取り上げた作品は他にもたくさんある。今話題の村上春樹の「1Q84」がどうなのかは知らないが、思いついたものをいくつか。「マトリックス」は有名だが、残りの2つは、この文脈では「知る人ぞ知る」かも。知らない方はぜひ。

※追記
はてブにレス的な意味で補足。「百億の昼と千億の夜」と「モジャ公」は、全体のテーマという話ではなく、そういうエピソードがある、という話。特に「モジャ公」は、後でアニメ化されたが、原作はあれとはかなり色合いがちがう、もっとハチャメチャな作品。子供向けでありながら、後の「笑ゥせぇるすまん」を髣髴とさせるブラックさが漂ってて、個人的には藤子作品の中で最もお気に入り。この文章に関係しているのは第2巻の「シャングリラ」のエピソード。ちなみに「百億の~」のほうでこのテーマに近い部分は、「ゼン・ゼン・シティー」のエピソード。

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