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世界は(おおむね)「バカ」と「暇人」でできている

ちょっと前に、「ウェブはバカと暇人のもの」という本が注目を集めた、らしい。読んでいないのでよく知らないのだが、ネットでレビューなどをちら見した限りでは、まあタイトル通りの本なのだそうだ。

著者はインターネットのニュースサイトの編集者だとか。自分の「顧客」を罵倒するのはさぞかし勇気がいるだろう、と思っていたが、別のところで、ご本人がべろべろに酔っぱらったあげくにtwitterに架空アカウントを作ってエロいことをさんざん書きまくったとかいう本人談が出ていて(どうでもいい話だが、私は「べろべろに酔っぱらって」という言い訳が好きではない。20歳で初めて飲みましたとかいうなら別だが、いい大人が自分の適量を知らないのもどうかと思うし、べろべろに酔っぱらうと変なことをする性質ならそもそもべろべろになるまで飲むべきではない。べろべろに酔ったあげくに車で人をはねてしまいましたという言い訳が通用しないのと同じだ。そもそもこの件、「べろべろに酔った」を愚行の口実に使うこと自体潔くない)、ああなんだご自分も含めての話なのかと妙に納得した。かくいう私ももちろん同じ「バカ」で「暇人」の一味(とはいえ私はべろべろに酔っぱらって捨てアカウントにエロいことを書きまくったりはしないよ。そこまで落ちちゃいない)だから、別にこの人を貶めたいわけではない。あ、もちろんこの本の書評を書くつもりもない(読んでないし)のであらかじめ。

というかさ、そもそも世の中ってそういうもんじゃなかったっけ?という、別に珍しい話でもないよなあとも思いながら書いてみる話をひとくさり。読み返してみるとカッコばっかりで実に読みにくい文章だが、今は推敲する気力がないので殴り書きのままおいとく。

もともとこういう話はことばの定義によってどうでもなる要素がある。ここでは「バカ」と「暇人」なわけだが、なにしろ本を読んでいないので、本の中でどう定義されているかは知らない。しかたないので、Amazonのページに出ている商品説明から推測してみる。

出版社/著者からの内容紹介
どいつもこいつもミクシィ、ブログ。 インターネットは普及しすぎて、いまやバカの暇潰し道具だ。
----みんなが言いたかった真実を、ニュースサイトの編集者が大放言! ネット界大顰蹙!?

内容(「BOOK」データベースより)
著者はニュースサイトの編集者をやっている関係で、ネット漬けの日々を送っているが、とにかくネットが気持ち悪い。そこで他人を「死ね」「ゴミ」「クズ」と罵倒しまくる人も気持ち悪いし、「通報しますた」と揚げ足取りばかりする人も気持ち悪いし、アイドルの他愛もないブログが「絶賛キャーキャーコメント」で埋まるのも気持ち悪いし、ミクシィの「今日のランチはカルボナーラ」みたいなどうでもいい書き込みも気持ち悪い。うんざりだ。―本書では、「頭の良い人」ではなく、「普通の人」「バカ」がインターネットをどう利用しているのか?リアルな現実を、現場の視点から描写する。

ふむ。これが適切に内容をあらわしているのだとすると、「バカ」ないし「暇人」のふるまいというのは、たとえばこういうことらしい。

(1)ミクシィをやっている
(2)ブログをやっている
(3)他人を「死ね」「ゴミ」「クズ」と罵倒しまくる
(4)「通報しますた」と揚げ足取りばかりする
(5)アイドルの他愛もないブログを「絶賛キャーキャーコメント」で埋める
(6)ミクシィに「今日のランチはカルボナーラ」みたいなどうでもいい書き込みをする

ほほう。このうち(3)(4)あたりはウェブで目立つ発言を追っているからそう思うだけで、必ずしも多数派とは思えないが、まあそこそこいるにはいるっていうのはわかる。(5)のような人もどのくらいいるのか正直想像がつかないが、アイドルファンがだいたい皆そうであると仮にすると、これまたそこそこはいるだろう。(3)(4)みたいな人よりひょっとしたら多いかもしれない。とはいえやはりウェブで多数派というほどでもないのではないかな。

しかし、(1)と(2)は、少なくともアカウント数からいうなら8ケタになるはず(実数がどのくらいかはよく知らないが)。ウェブの利用者が国民の7割に達する中ではこれまた多数派とまではいかないかもしれないが、じゅうぶん多いといってもいい規模ではあろう。それに、ミクシィやブログをやること自体が特殊なふるまいであるとも思えないから、これはごくふつうの人を指しているといっていいのではないか。これなら、GREEをやっている人も、Facebookをやっている人も、MySpaceをやっている人も、モバゲータウンをやっている人も、前略プロフをやっている人も、REALをやっている人も、Second Lifeをやっている人もみーんな、「バカ」なり「暇人」なりのカテゴリに入りそうな気がするから、ダブりはあるにせよ数はもっとずっと多いだろう。(6)は(1)の部分集合であるわけだが、こういう書き込みってそもそもミクシィが想定するしごく「まっとう」な使い方のような気もするから、(1)とほぼ同義ということになろうか。

というわけで、総合してみると、どうもこの著者は、ネットにおける「普通の人」を「バカ」で「暇人」と呼んでいる、と解しておおむねよいようにもみえる。ふむ。なぜこんなにネットには「バカ」や「暇人」があふれているのか。

何をいまさら、と思う人が多いだろう。そんなの決まってるじゃないか。世の中というものがおおむね「普通の人」から成り立っているからだ。普通のことをしている普通の人を「バカ」とか「暇人」とか呼ぶなら、by definitionで世の中は「バカ」と「暇人」だらけであり、よって世の中の一部であるネットが「バカ」で「暇人」であふれかえっていたって、別に何の不思議もない。

人をその知識なり実績なり社会的立場なり行動なりでランク付けする考え方というのは、あまりおおっぴらにいうと嫌われるが、世の中には厳然としてある。で、そのいずれの基準においても、常人から抜きんでる「優れた人」というのは、全体の中でごくわずかだ。当然、「残りの人々」、つまり「普通の人々」が数でいえば大半を占めることになる。こういう人々が「優れた人」よりは「バカ」というのは、これまたおおっぴらにはいいづらいが、一般的にはトートロジーといっていいほど自然に受け取られる話だろう。

また、人はさまざまな行動をする。どんなに「優れた人」だって、ときにはバカなふるまいをするだろう。「普通の人」ならなおさらだ。で、いまやすっかり「日常の場」となったネットでは、人が実生活でするのと同じように、意味のある話もすればバカな話もする(どちらの割合が多いかは人によるだろうが)。それを指して「バカ」というなら、世の中が「バカ」なふるまいだらけであることもまた当然の話(余談だが、ミクシィに「今日のランチはカルボナーラ」みたいなどうでもいい書き込みをすることは、実生活で友人と「今日はカルボナーラ食べたんだ」と話すことと基本的に変わりない。それを横から盗み聞きして「そんなどうでもいいことを話すんじゃない!」と一喝する人はあまりいないだろう。ネットではいらない情報は見なきゃいいわけで、それをわざわざ見に行って「バカ」だの「暇人」だのいうのは、閉めてある生ゴミ入れのふたをわざわざ開けて「くせぇ」と文句をいうようなものだ。やんなきゃいいのに)。

もちろんマスメディアでは、こういうことは「比較的」少ない(ない、とはいわないよ。あるよねけっこういっぱい)。それはマスメディアが高価かつ希少なツールであり、それを使う人々にそれなりの能力と責任が求められているからだ。ネットはそうではない。そもそも性質がちがい、使われ方がちがうのだ。

昔のインターネットはこんなに「バカ」や「暇人」ばかりではなかったのに、ということかもしれないが、これもまた普及のプロセスを考えれば何の不思議もない。初期のユーザーのほうが知識もあり意識も高いというのは、ネットに限らず広範にみられる現象だ。私の祖父は住んでいた炭鉱町で最初に自動車を持った人だった。なんのことはない、自営のタクシー運転手だったのだが、その時代の自動車というのは基本的に一定の資産を持つ者のためのものであり、運転者の多くはプロの運転手だった。そういう時代であれば、自動車運転者の技量や意識が(現代と同じ基準で比べるのは難しいだろうが)誰もがクルマを持てる場合よりも高かったろうことは容易に想像できる。インターネットも、それが大学研究者や大企業など一部の人々のものだった時代、技術に明るく教養にあふれた先進的ユーザーたちが集っていた時代は遠く過ぎた。それだけのことだ。

その意味では「わかってないね」という話になるわけだが、別にそんなことはどうでもいい。批判や中傷が目的ではもとよりないし、「わかっちゃいない」点においては私もほぼ同じだし。

では何がいいたいのか。今、世界で最も「進んだ」(このことばも定義とかめんどくさいがまあ一般的な意味で)国なり社会なりはほぼ例外なく、その「バカ」で「暇人」である「普通の人々」に窮極の権限を与え、あるいはそういう人たちの自由な行動を保護すべき最大の価値として尊重している。もちろん、そうすることが絶対に正しい結果につながるとかいうつもりはない。よくいう「群衆の叡智」ってやつもそんなにナイーブな話ではない。「バカ」で「暇人」である「普通の人々」は非合理的だし、利己的だし、きわめて限られた知識や判断力しか持たないし、簡単に情報に釣られるし、平気でダブスタするし、くだらないことばかりに気を取られている。そんなことは件の本の著者に教えていただくまでもない。

であるにもかかわらず、というところに意味があるのではないか、というのがここで書きたい本題。やれ基本的人権だとか何だとかいう類の話もあるのだろうが、それだけとも思えない。やはりなんらかの意味で「合理性」があると考えるほうが自然なのではないか。人権なんていう「高邁」な考え方はほんのここ数百年にできたもので、それよりずっと以前からあるその「合理性」の上に飾りをかぶせただけのものだ、たぶん。じゃあ、それはどういう「合理性」か?ちょっとよくわからない。べろべろではないにせよちょっとだけ酔ってて頭が働かないから、なんてかっこをつけたりはしない。頭が悪く知識もないからわからないだけだ。ひょっとしたらそれは、どんな賢明な指導者も勇猛な武人も民衆の大群には勝てないというシンプルな数の論理かもしれないし、あるいは集合的意思決定が長期的には確率的に決定的な破綻を避けられる可能性が高いといった進化論っぽい話かもしれない。または、たとえどんなに非合理的でまちがっていても人は自ら下した決定には不満を抱きにくいといった心理学的な話かもしれないし、単純に「頭のいい人々」が恨まれないための隠れ蓑なのかもしれない。個人的には2番目の話だといいなあと思ったりしてるが、もとより確証を持っているわけでもない。全部ある程度正しい、のかもしれない。

ともあれ。私たちの社会は「バカ」と「暇人」で満ち溢れていて、それを前提として成り立っているわけだが、もちろんだからといってそれがすべて「あるがまま」ですべて完璧、というわけではない。ここが書きたいもう1つのポイント。よく、「今の社会のあり方はまちがっている」と力説したり批判したり、「こうすべきだ」と提言したりする人がいるが、こうした人たちがたいてい自分を考察の対象たる社会から除外し、いわば「神の視点」でものを語っているのは面白い。しかし実際にはそうした人たちも含めて社会が構成されているのであり、そうした人たちの影響を受けて社会が揺れ動いていくところも含めて考えなければならない。

「バカ」と「暇人」でおおむねできている私たちがの社会が成り立っているのは、たとえば「愚かな大衆」を正しく導こうとする「優れた人」である「賢い」指導者の皆さんの努力が多少なりと影響しているからであり、また「バカ」の度合いを少しでも減らそうとする教育者の皆さんの涙ぐましい努力がこれまた多少なりと影響しているからでもある。それと同じ意味で、世にあまたいる「バカ」と「暇人」の皆さんもあるいは発言する、あるいは沈黙を守るといったさまざまなかたちで社会に影響を与える。誰かが必ず正しいという保障はないが、そういうもろもろを含む全体が「システム」として成り立っている、ということなのではないか。

まあ、この程度のことはすでにたくさんの人が考えただろうし、どこかの偉い人の本にもちゃんと書いてあって、頭のいい人たちはみーんな知ってるのかもしれないが、少なくとも私は知らないので書いてみた。しょうがないじゃん。「バカ」で「暇人」なんだからさ。

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Comments

> それをわざわざ見に行って「バカ」だの「暇人」
> だのいうのは、閉めてある生ゴミ入れのふたを
> わざわざ開けて「くせぇ」と文句をいうような
> ものだ。やんなきゃいいのに

笑っちゃいましたが、その通りですね。
そうことをしているのを端から見ると、
バカっぽく見えるんですが...(笑)


> 「神の視点」でものを語っているのは面白い。

私は、面白いというよりも、危険な感じがし
ます。神の視点とは、私は、何でも知っている、
知る事ができる、という、"壮大な勘違い" では
ないでしょうか。

ベンサム対ヒューム
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c6fae2dc3c3b167f6142432de079d31b

Posted by: ひろん | October 08, 2009 at 06:23 AM

ひろんさん、コメントありがとうございます。

いわゆる「計画経済が可能か」問題について、過去の実例からはかなりはっきり結果が出ているわけです(少なくとも私はそう思います)が、あれはそれぞれ個別の事情があっての話ですから、あくまで「事例」にすぎません。それに、現代の資本主義も政府の役割を前提とした修正資本主義なわけですから、「偉い人」「頭のいい人」によるコントロールは一定程度あるわけです。

よく「群衆の叡智」というときに、「素人の集団がプロに勝てるのか」といった議論になるわけですが、それが「神の視点」ということなのかな、とも思いました。プロの方が自分を「群衆」に含めず、外から「群衆」を見ている視点のように思われるからです。実際には「群衆」には「素人」も「プロ」もいるわけで、「多数の素人と少数のプロからなる群衆」は「少数のプロ」と比べてどうだろう、と考えなければならないのではないかと。

いいかえると、個々には影響力の小さいが数が多い「素人からなる多数の群衆」と、個々の影響力は大きいが人数が少ない「プロ」が、それぞれわいわい言いつつ、それぞれそれなりの影響力を及ぼしつつ、全体としてものごとを決めていくコミュニティが、「少数のプロがほとんどすべての決定を行い、多数の群衆は基本的にそれに従うだけ」というコミュニティならどっちがいいか、ということなのではないかと思います。

どちらもそれなりにうまくいく場合があり、それなりに失敗する場合があります。どちらが必ず優れている、という話ではないでしょう。そういう前提でどちらをとるか、ということなのかな、と。

Posted by: 山口 浩 | October 08, 2009 at 11:02 AM

無駄に長い文章とカッコ書きで分かる通り
書いている奴はべろべろになったバカ

Posted by:   | October 08, 2009 at 12:53 PM

 さん、コメントありがとうございます。
匿名で人を中傷して少しは気が晴れましたか?

Posted by: 山口 浩 | October 09, 2009 at 09:51 AM

誹謗中傷するのが好きな人って、使えないんですよね。なんでこんなに使えないのか。まあそういう精神構造だからしかたないかも。

Posted by: まお | October 09, 2009 at 11:31 PM

まおさん、コメントありがとうございます。
「精神構造」というより、心理状態なのではないかと想像しています。防衛機制の一種なのかな、と。

Posted by: 山口 浩 | October 10, 2009 at 08:16 PM

いえ、どんな分野でも出来る人って人を誹謗中傷しませんよね。する必要もないし、そんなことにエネルギー使いたくないから。で逆に誹謗中傷する人って人の意見とか無視する(フィードバックがかからない)ので使えないし、だめなままですよ。なぜだめかって、そういう精神構造変えないからです。

Posted by: まお | October 10, 2009 at 08:22 PM

まおさん
ご趣旨はわかります。ただ、できる人が誹謗中傷することもあるし、できない人が誹謗中傷しないこともありますから(個人的にはどちらの例も知ってます)、直結するのはやや早計かと思います。
誹謗中傷が生産的でないというのは同意ですが、人は失敗しながら学ぶものでもあります。子どものうちにけんかをさせておかないと大人になってから問題が出たりしますよね?
もちろん自分がその対象になるのは気分のいいものではありませんが。

Posted by: 山口 浩 | October 11, 2009 at 09:25 AM

残念ながら、ネットで中傷している人たちは、子供ではなく大人なんですよ。失敗しても学ぶことをしない。問題はそこだと。

Posted by: まお | October 11, 2009 at 10:50 AM

「すべての年齢の子どもたちに」。どこかのテーマパークみたいですが、まあそういうことです。少なくともできる限り私はそうしたいです。あくまでできる限りで、ですが。

Posted by: 山口 浩 | October 12, 2009 at 09:49 AM

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