自治体をSNS的に運営する、という話
2009年10月24日の「朝まで生テレビ」での東浩紀氏の主張が一部で反響を呼んでいる。簡単にいえば「インターネットを使えば小規模自治体はSNS的なかたちで直接民主制として運営でき、政治家はいらなくなる」といったもの。J-CASTニュースでもあまりこなれてない文章で報道されているが、ブログやtwitterなどのあちこちで議論がわいているようだ。
それなりに「過激」な発言ではあるわけで、当然批判も呼ぶ。あくまで印象論だが、「そんなことできるわけないじゃん」みたいな意見は、むしろネットサービスを熟知した人々からの方が強いのかもしれない。いわんとするところはわかる。とはいえ、意味のない主張だとも思わないので、少し考えてみる。
インターネットを活用した直接民主制という考え方自体は別に新しいものではない。試しにぐぐるとこんなのがすぐ見つかるし、いわゆる「電子政府」とか「e-government」とか呼ばれる概念の先のほうにはそれが常にうっすらとだが見えている。ネットの可能性についてまじめに考えたことのある人ならほとんど誰でも、こうした可能性が意識のはじっこに上ったことがあるはずだ。ただそれを公の場で、立場のある人が、当面の問題への対策を論じる文脈で発言することはそれほど多くはないかもしれない。
その意味で今回の東氏の発言は、個人的には「このテーマでその話を出すかい」といった印象なのだが、だからこそ面白い。実際、当日の番組を見て(正確には聞いて)いたのだが、東氏の発言で議論は一気にその様相を変えた。けっこう救いのない「若者論」(「若い衆」の出演者がこれまた頼りなくて年寄り連中に励まされちゃってたし)で議論が朽ち果てそうになっていたところへこの「異物」をどかんと放り込んだものだから、その場はまさに蜂の巣をつついたような大騒ぎ。「ちゃぶ台返し」としてはなかなか痛快だった。ネットでの反響の大きさは、同じように思った人が少なくないことのあらわれでもあろう。
とはいえ、だからといって賛成意見の人ばかりではない。ぜんぶ見たわけではないが、ネットでもぱらっと見た限りでは賛否両論。たとえば「衆愚に陥る」、「議論が紛糾して結論が出ない」、「そんなことをしたら○○の連中が跋扈する」(「○○」の部分はいろいろある)、「ITにうとい○○を阻害するしくみである」(「○○」の部分は任意)、「地方の実情を理解していない」(「地方」を持ち出す人はどんなテーマでも「地方」を持ち出すね)、「予算がない」、「諸外国に例がない」、「直接民主制が機能するのは特殊な条件下でのみである」等々、いろいろな批判や懐疑的意見があるだろう。
ネットサービスやコミュニティの運営や経営に携わっている人たちは、その実態を知っているだけに、「そんなにうまくいくはずがない」と思っているかもしれない。実際、荒らしの被害や「限界コミュニティ」の悲哀、衆愚の滑稽等の例は枚挙に暇がない。「バカと暇人」に占拠されるネットを日常的に経験していれば、ネットの可能性やら集合知のすばらしさやらは、少なくとも統治システムの代替案としては「画に描いた餅」としか映らないだろう。
そうした意見は実にもっともで、地に足がついている。実際にやったこともないのに思いつきレベルで簡単にいうな、といいたくなるのもわかる。とはいえ、いろいろ考えをめぐらせること自体を否定するのはよろしくない。この東氏の主張自体はあらっぽいアイデアの段階のものだから、これに対して「現実味がない」とか「細部はどうなる」とか問うてもはじまらない。抜本的な変化は必ずこうした夢物語から始まる。なにより、現状に満足すべき状態でもないということも明らかではないか。
バックミンスター・フラーの本に「ピアノのふた」に関するくだりがある。乗っていた船が沈没し、荒れ狂う海に投げ出されたとき、船にあったグランドピアノのふたが近くに流れてくれば、それにつかまって助かるかもしれない。その人にとって、ピアノのふたは最善の救命具となったわけだが、だからといって、救命具はすべてピアノのふたの形をしているべきだということにはならない。ピアノのふたはたまたまそこにあったがゆえに救命具の役割を果たしただけで、本来救命具がとるべき姿や機能とは大きくかけ離れているだろう。現在の社会を構成する要素にはこうした「ピアノのふた」的なものが数多くあるはずで、したがって改良の余地がある。フラーの考案した数々の一見珍妙な発明品群はそうした発想に基づいたものだった。それが成功したかどうかはともかく、個人的にはこのような考え方に共感を覚える。
「ピアノのふた」論は、意思決定理論でいえば「ゴミ箱モデル」を思い起こさせる。ゴミ箱モデルでは、解決すべき「問題」に対する「解」は、その問題から演繹的・合理的に導き出されるのではなく、問題とは別個に存在しているもので、それが「選択する場」やその「参加者」に左右されながら、あるタイミングで解として選ばれる。要するに、解は流れてきた「ピアノのふた」ということだ。
現在の社会を構成する制度、たとえば政治のシステムにも、こうした「ピアノのふた」があるとすれば、それをより優れたものに置き換える余地は当然あるだろう。こうしたことが起きる原因の1つが、技術的制約だ。基本的に制度やルールはそれが作られたときの技術水準によって制約されている。技術が進歩して新たな手段が選択可能になるなら、つまりもっと優れた「救命具」が流れてきたら、そちらに乗り移った方がいいかもしれない。意思をよりよく伝え、集約する技術がコンピュータやネットによって可能となるなら、たとえば書物が手書きから印刷に代わったように、訪問する代わりに手紙や電話、電子メールを送るようになったように、政治システムが紙と鉛筆やら多数の専門家やらから次の段階に移行していってもいいのではないか。
ただし、一足飛びにジャンプするような話にならないのは当然だ。仮にもっと優れた「救命具」があったとしても、それが手の届く位置まで流れてこなければ、「ピアノのふた」から手を離すことはできない。そもそも新しいタイプの道具であれば、それが本当に「ピアノのふた」より優れているのかどうか、確かめもせずに飛びつくのは早計というものだ。現在の政治システムは、たくさんの社会で試され、試練をかいくぐってきているわけで、人がそれに慣れているという意味でも、けっこうよくできた「ピアノのふた」かもしれないのだし。
小規模自治体をSNSで運営して直接民主制を実現しようというアイデアは魅力的に映るかもしれないが、そこで盛り上がる前に、いろいろ試してみる必要はある。とりあえず、SNSを自治体的に運営してみるといいのではないかな。今のSNSは法令で運営者の責任がいろいろうるさかったりするせいもあるが、基本的に運営会社が独裁者のような権限を握っている「絶対王政」のようなものだ。営利を追う企業はしかたないかもしれないが、都合いいことに、最近はあちこちの自治体が地域SNSに取り組んでいたりする。なんなら特区でも作って運営者の責任を制限してあげて、SNSが直接民主制的に運営できるのか試してみたらどうか。それがうまくいったら、そのSNSを使って政策決定支援のようなことを試していけばいい。その最初の段階すらできないのだとしたら、東氏のいうところの「人の想像力が追いついていない」わけで、要するに10年早いということだ。
とはいえ人は変わる。ネットが実用になり始めてからまだ15年くらいか。ひと世代、ふた世代たった後のことを現在のままの感覚で推し量るのは危険だ。現在はまだ賛否両論だから、それぞれの立場の人がそれぞれ主張し、議論していくといい。そうこうするうちに、人間にとってより自然で、望ましいと感じられる方向にものごとは流れていくだろう。もちろんそれがベストとは限らない。直接民主制でよりよい資源配分が実現するという保証もない。ひょっとしたら新しい「ピアノのふた」にすぎないものかもしれない。しかしそれはそれでいいのではないか。社会はそうやって次々とさまざまな「ピアノのふた」を乗り換えながら進歩してきたのだろうから。
正直なところ、個人的には、インターネットによる直接民主制が、当日の番組のテーマであった若年層の閉塞状況に対する解になるとはあまり思えない。そもそもちがう話だし、高齢化社会が進んでかつ若年層の政治への関心が低い状況では、直接民主制だろうが間接民主制だろうが、若年層にあまり優しくない資源配分が抜本的に改善されることなど考えにくい(ネット選挙で若年層の投票率が上がる、みたいなことは多少はあると思うが)。むしろ、こういうゼロサムに近い状況では、国民同士が直接向かい合って対立するより、誰かに「憎しみ」の対象としての為政者になってもらったほうが心安らかに日常生活を送れるかもしれない。とはいえ、民主主義なるものが資源配分のしくみであると同時に納得のためのメカニズムであるということも意識しておくべきだろう。「みんなで決めたんだから受け入れよう」という方向に話が進んでくれたらとも思う。現状ではあまり高い期待は持てないけど。
それにしても今回の件は面白かった。古くからあるテーマでも定期的にまぜっかえす議論をすることは必要なんだな、と改めて思う。特に、古い話を新しい文脈の中に持ってくることは悪くないアプローチだ。イノベーションは「生産要素の新結合」だが、ゴミ箱モデル的にいえば「問題と解の新結合」は社会的イノベーションの源泉になりうる、ということなんだろう。今回のケース自体は、「問題」と「解」が結合したというよりは、「問題」から目をそらすため、あるいは「問題」設定自体を破壊する「ちゃぶ台返し」(丸山眞男でなく若者論をひっぱたきたかったんだろうなぁ)としての「解」に注目が集まった、という感じに見えるけど、それでもこの「解」への注目自体は悪いことではないと思う。ちょうど政治が大きな転換期になるかもしれない時期なわけだし。
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Comments
「諸外国に例がない」っていうのはいかにも日本的な考えですね。
バックボーンのある技術開発は世界初にこだわるくせに、根拠のないものは周りの動きに合わせようとする辺り。
とりあえず試すべきです。やってみなけりゃわからない。
ただ、実際にやるとして、自治体の仕事の多くをSNSに頼るのはどうかと。
議論の段階が1〜10まであるとして、1〜4あたりまでならSNSでいいと思いますが、それ以上をリアルを介さないで進めるのは怖いですね。ターミネーターじゃないですけど、イメージはあんな感じになりそうな予感です。
あと、若者を変えたいなら、人と会わなければいけない環境を作るべきです。家の中とか小さなコミュニティで完結してしまうような社会はだめです。
若者論といいますけど、その若者を作ったのは(もしくは作るきっかけとなったのは)他ならぬ今の年寄り連中です。
今の若者はマナーがなっとらんと言う前に自分達が携帯電話のマナーモードの使い方を覚えるべきだと思います。
まぁ、言うからには私もしっかりしなければなりませんが。というか、指摘しあってお互い改善していくのが「良い環境」なのに、それが出来てないですね。
Posted by: kurotan | October 26, 2009 12:19 PM
kurotanさん、コメントありがとうございます。
個人的な印象では、「いかにも日本的」といわれるもののうちかなりの部分は他の国にも同じくらいあったりします。この領域もそうかもしれません。たとえば電子投票でも、これが日本よりはるかに普及しているアメリカでもこの方式への不信はまだまだ根強くあるようです。この主張には一応それなりの根拠があったりもするので、運用も含めてもう少し成熟が必要なのでしょう。個人的にはいろいろ試してみたらいいと思いますが、同時に「失敗したくない」「失敗は許されない」という人の気持ちもわかります。一番重要なのは多くの人が関心を持つことですね。
若者論については、若い人の立場からはいろいろ言いたいこともあるでしょう。どんどん主張していくべきだとも思います。と同時に、年寄りはすべて若い時代を通り過ぎていて、今の若い人たちが直面している問題のかなりの部分をすでに経験しているということも理解してください。彼らはじれったいのです。「もっとこうすれば簡単に、うまくやれるのに」と。彼らの知恵を上手に取り入れ、いらない部分は切り捨てて、さらに進歩させていくことは、後に続く者の責務でもあります。
Posted by: 山口 浩 | October 26, 2009 02:22 PM