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December 25, 2009

「金融恐慌とユダヤ・キリスト教」

島田裕巳著「金融恐慌とユダヤ・キリスト教」文春新書、2009年。

いただきもの。いや別にクリスマスだから取り上げたとかじゃないから。

著者の島田裕巳氏は宗教学者だが、数年前某映画関連イベントに「映画評論家」という肩書きで登壇していたのを思い出した。本書の肩書きは東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、とある。ある意味「とばっちり」(と私は思っている)を受けてしまって以降、なかなかかつてのようなご活躍とはいっていないようだが、がんばっておられるのは頼もしい。一種のマーケティング戦略なのか、昨年、三菱UFJ証券(株)チーフエコノミストの水野和夫氏と共著で「資本主義2.0 宗教と経済が融合する時代」という本を出版する等、どうも最近は経済方面に「進出」しておられるようで、本書もその系統にあたるといえるだろうか。

帯がなんだかおどろおどろしい。「神の怒りが「100年に1度の危機」を招いた―。」と大書き。一応ざっと読んだ限りでは、そんなことは本文のどこにも書いてないし、むしろ趣旨に反するのではないかと。「気鋭の宗教学者が挑むグローバル経済の本質」はいいとして、「アダム・スミス、マルクス、ウェーバー、ケインズ、クルーグマン、グリーンスパン、竹中平蔵……。エコノミストたちは、「預言者」なのか。」なんてことも、もちろん本文には書いてない。というかその人選は何。編集者の方、釣りすぎ。

いってみれば、宗教学者の視点で経済をみたもの、というか批判したものということになろうか。とはいえ、正直なところあまり論理的に説得された気分にはなれない。どうも宗教学者にとって神学というのはあまりよく思われていないらしいのだが、島田氏は、経済学は神学に似ていると喝破している。その心は、いずれも「根拠が薄弱な前提」によって成り立ち、その学問の対象への絶対的な信頼を核としているがゆえに脆弱である、ということらしい。その代表格が例の「神の見えざる手」ネタ(ktkr、と突っ込む声が聞こえる)で、実態にそぐわないのに信奉してると手厳しい。私としては、宗教っぽいということでいうなら、どっちかっていうと、現状の理解より「聖典」解釈に心血を注ぐマル経のほうじゃないかと思うのだが、まあそれはおいとく。

確かに、経済学領域では宗教を想起させる言葉遣いがある。「市場原理主義」もその1つだろう。「原理主義」自体があまりいい意味で使われないから、これも悪い意味であることが多い。理念形としての完全な「市場原理主義」なり「自由放任主義」なりは歴史上どの文明国にも一度も存在したことはないし、もちろん今もないから、その意味では市場原理主義批判は確かに「神学」的ではあるかもしれない。少なくとも現代の経済学者が経済の話をするときに宗教用語を使ったとしてもそれはほとんど(すべてでないとすれば)の場合一種のレトリックであって、別に宗教的意味合いなどさしてないはずだが、宗教学者としてはなんとしてもそこに意味を見出したいのだろう。

ともあれ、「神の見えざる手」批判は延々と続く。原書には「神の」とは書かれていないという点についても詳細に指摘されているのだが、そもそもあれのポイントは市場の調整機能が「神の手」であるかどうかより、「見えざる手」のごとく働いているかどうかということなのであって(だから「神の」とは書いてないのではないかな)、少なくとも現代の経済を分析したり理解したりするうえでは、「見えざる手」が「神の」ものでなく、たとえば「空飛ぶスパゲティ・モンスター」のもの(手はない。触手?というか麺?)であっても「見えざるピンクのユニコーン」(これも手はないな。前足?)のものであってもいいわけで、要するに「誰の手か」はほとんど意義を持たない。というか、それ以前の問題として、市場の調整機能が充分ではないというご指摘は100年前になされている「車輪の再発明」だ。今の経済学の課題は「神の手」ではなく、経済政策を実施する「人間の手」の不充分さ、つまりどの人間の「手」がどんなときに効くか効かないかなのに。

本書における経済学の取り扱いはかなり荒っぽい宗教史のようなものだ。曰く、欧米におるアダム・スミスの「見えざる手」的経済観は、ユダヤ・キリスト教の強い影響を受けており、それ自体が旧約聖書の「強い神」に対する信仰のようなものであると。それにマルクスやケインズなど「果敢に挑戦した」ある意味宗教改革者ともいえる人たちの考えは一時期力を得たもののいずれも(残念ながら)敗れ去り、再びスミスの「子孫」ともいうべき新自由主義とか市場原理主義とか呼ばれる一派が支配し、やがて「ネズミ講」のごときバブル的投資にたどりつき、それがとうとうリーマンショック以降だめになって今に至ると。だから今注目されるのは、村落共同体のような和を重んじるコミュニティを形成する日本的な考え方と、経済よりも宗教的価値を重んじるイスラム的な考え方であると。

高校の歴史教育じゃないが、最近の話がすっぽり抜け落ちている(念のため。一応、合理的期待仮説なんかについては軽く触れてはいる。非現実的な前提に基づく市場への「宗教的帰依」の例として。要するにスミス一族のできの悪い末裔という扱いだ)。ええと、経済学は専門じゃないので詳しくは知らないが、まあ80年代あたりで止まってる感じだろうか。単純な「スミスvs.ケインズ」みたいな話ではない最近の経済学を学んだ方であれば「いやそこを批判されましても」となるのではないか。

ただ、本書でそれよりも気になるのは、ご専門であるはずの宗教学の領域であれ?と思うようなやや「乱暴」な取り扱いが散見されることだ。もちろん一般向けの新書なので正確・詳細であることよりわかりやすいことを重視して書かれたのかもしれないし、そもそも宗教学についてはただの素人なのであくまで素人から見てということだが、たとえば本書で頻発する「ユダヤ・キリスト教」という表現、「一神教」という表現はどうだろうか。確かに本書には、中世以降金融業がユダヤ教徒によって担われてきた経緯や理由は書かれている。いわゆる「プロ倫」が宗教と経済活動の折り合いをつけるのに貢献した経緯も書かれている。しかしこれらをいくらどちらも「啓典の民」だからといって、「ユダヤ・キリスト教」という一言でまとめて、いわゆる「市場原理主義」みたいなところへ一直線につながるラインに置いてしまっていいのだろうか?「旧約の神」やら「一神教」やらを引き合いに出すならカトリックだってイスラム教だって同じではないか。では「プロ倫」がユダヤ教徒の経済観にいったいどのような影響を与えたというのか。ちょっと長めだが引用してみる。

 一神教の世界において、金融資本主義が過剰なほど発展を見せてきたのも、市場には神の見えざる手が働いているという信仰が存在し、市場に全面的な信頼を寄せることができると考えられたからである。あるいは、金融業者や金融機関は、人々のあいだにそうした信仰が広まっていることを前提に、積極的な投資を促すことができた。
 しかも、世の終わりにおける神の裁きの信仰があり、悪は徹底して滅ぼされ、永遠に地獄に落とされるものの、善なる者には神の究極的な救いがもたらされると考えられてきた。人間誰しも、自分が悪の側にあって地獄に落とされる運命にあるとは考えない。逆に、ノアの箱船の物語に象徴される選民思想を背景に、自分こそが最終的に救われるのだと考える。投資もまた、この信仰にしたがって正当化され、たとえほかの人間たちが投資に失敗して破滅しても、自分だけは救われると信じることができる。
 そう考えると、金融資本主義の成立そのものが、ユダヤ・キリスト教の信仰と密接な関係を持っていることになる。金融危機を経験しても、金融資本主義に根本的な反省が加えられず、すぐにその傾向が復活してくるのも、その背景に数千年にわたる信仰の歴史が横たわっているからである。

ここに書かれた「一神教」「世の終わりにおける神の裁き」「善なる者」への「究極的な救い」は、イスラム教にも共通の属性かと思うが、本書でイスラム金融を「金融資本主義の過剰な」「発展」の範疇から除いているのはなぜか。また、一神教ではないはずの日本で欧米と同様の問題が繰り返し起きているのはなぜか。バブル崩壊後、欧米の復活をよそに日本が苦しんでいた時代に本書が書かれたとしても同じ論法を使うのだろうか?キリスト教についても、「プロ倫」では清貧や禁欲が重んじられているのに、「資本が蓄積され、資本主義が発展していくと、そうした倫理は不要なものとして切り捨てられた」としている。ならば、それは宗教が経済に影響が及ぼしていることではなく、及ばなくなったことのあらわれではないか。宗教学者がこの問題に取り組むなら、まさにそうした部分こそが中心的な課題ではないのか。

とはいえ、本書にはいくつか重要、というか個人的に興味深かった指摘がある。1つめは、経済と宗教の間に関係がある、という指摘自体。この本に書かれたことがどれほど適切かは別として、確かにこの2つはいろいろなところで関係しているだろう。文化が経済にさまざまな影響を与えるのは周知の事実であり、その重要な一部である宗教もそうであること自体は想像に難くない。クリスマスの経済効果、みたいなレベルにとどまるものでないことは明らかだ。ポイントは、それが「プロ倫」の時代よりずっと下った現在でもそうであり、かつ、少なくとも一般にはあまり意識されていないということだ。もっと注意を払ってもいいのはまちがいない。

2つめ。西欧人が恐慌を終末思想との関連でとらえがちであるとの指摘。だから必要以上に深刻に受け取るのだ、と。仏教では弥勒菩薩による最終的な救済は56億7千万年後と相当先に考えているからちがうのだというわけだ。本当かどうか確かめるすべは今の私にはないが、面白い見方だとは思う。そういえばいわゆる「「2000年問題」への騒ぎ方は、ちょっと世紀末のあれこれとかぶっている印象があったっけ(この点に関しては雑誌「ムー」の取り上げ方が面白かった。こちらを参照)。

そして3つめ。これが一番重要と思うが、経済学に関する理解のレベルが人によってちがっているという認識だろう。よくいう「市場原理主義は是か非か」みたいなあらっぽい話は、少なくとも一線の研究者の間ではあまり議論のテーマにはならないと思うが、その他の人々の間では大きなテーマとなったりする。同様に、経済理論の少なからぬ部分について一般の人々は不充分に、あるいは不適切にしか理解しておらず、結果として理論が意図したものとはちがった世界が出現するということだ。

こう書くとすぐ、当たり前だ現実の人間は経済合理性を持って自らの効用最大化のみを追求する「経済人」ではないではないか、みたいな話になるが、そういうことではない。そもそも「経済人」という考え方、「完全な市場」という考え方等は、実際にそういう人が街を歩いているという話でも魚市場で取引が何の摩擦もなく行われるという話でもなく、現実を理解するために、あたかも物理の実験室のように「作られた」環境や条件を仮定したものなのであり、それらは現実の一部を分析のためにちょうどよく切り取った「モデル」だということが理解されていない、ということだ。

数式の上で理論の正しさが「証明」されるということは、それが実験室環境ではうまく動くことが示されたにすぎず、実際に現実に使えるかどうかは「実証」によって検証される。当然、実証結果にはいろいろなばらつきがあり、ある程度理論と整合的な結果が集まってくると、その理論はしだいに定説、つまり「当面支持される仮説」となっていくが、理論の前提条件が崩れたときなどは、まったくちがった結果だって生じうる。

もともとそういうしくみでできている学問であるわけで(というか科学ってそもそもそういうしくみではないか)、研究者なら本来そのことはわかっているはず。しかしそうでない人々には、これが「地球はほぼ丸い」とか「三角形の内角の和は180°である」クラスのもののように受け取られているようだ。本書の著者はそうしたことが生じる原因について触れていないし、おそらく気付いていないのではないかと思うが、この本の書きぶりが浮かび上がらせてくれる。経済学研究者の「周囲」にいる「専門家」や「プロ」たち、たとえば著者自身のような他分野の研究者や、金融機関で働く金融のプロたちが経済学の前提を理解しておらず、あるいは意図的に曲解していることこそが、この問題の本質なのではないか。

もちろん経済学研究者にもこうした問題はあるにはある。考えてみれば、1980年代のブラックマンデーも、90年代のLTCM危機(このときはショールズやマートンも「中の人」だった)も、今回のサブプライムローン問題も、理論上は分散されていることを前提としていたリスクの集中に市場のキャパシティが追い付かなくなったという意味で構図は変わらない。私たちは同じ失敗を繰り返しているのだ。研究者も、現実経済が動いている現場では、理論の前提を忘れてしまいがちになるのかもしれない。しかしこの問題の大半が、経済学研究者自身よりもその周辺、つまり外部で起きていることは、やはり否定しがたい。

となると、ここから得られる教訓は、経済学研究者が、理論と現実の差について自覚的になるべきであるということと、もっと研究者コミュニティの外に向けて情報を発信していくべきであるということなんだろうかね。


経済学や宗教学の勉強にはおそらく向かないが、この問題に関心がある方向けの入門編ととらえれば必ずしも悪くない。ただ、経済学者を攻撃したい方は、この本で勉強してもあまり有効な「武器」は入手できないので念のため。あくまで「読み物」としてお楽しみいただくのがよろしいかと思う。

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