「クォンタム・ファミリーズ」
東浩紀著「クォンタム・ファミリーズ」新潮社、2009年。
ふだん、小説などの物語はあまり読まないようにしている。別に嫌いだからではなく、読むと高い確率で「はまって」しまうからで、変な話日常生活に支障が出るのだ。昔、ヤクザ映画を見終わった後映画館から肩で風切って出てくる人がよくいたが、まああの類。世界観にひたってしまったり登場人物に感情移入してしまったりで、「復帰」にしばらくかかってしまう。というわけなのだが本書、各所で(一般的に、というより私が注目してる人たちの間で)話題になってるし、なんだかいろいろ参考になることもありそうだしというわけで、読んでみることにした次第。私ごときに批評なんておこがましいので、以下はあくまでただの感想文であることをおことわりしておく。
帯をみると、「批評から小説へ―ゼロ年代のラストに放つ東浩紀の新境地!」とか「『存在論的、郵便的』から11年、すべての思索と情報量と想像力を注ぎ込み、来るべき10年代に向け、いま、東浩紀は小説という形式で語り始めた―。」とかあって、少なくとも出版社的には、批評家として有名な「あの」東氏が小説という新たなフィールドに進出した、という位置づけになっているらしい。すでに批評の世界ではその名を確立した存在でもあるし、いろいろなテーマであちこちに言論を発表していて、世間には東ファンというのが相当数いるようだから、きっと「東思想」みたいなものがあるんだろう。本来そのあたりをふまえて読まないときちんと理解できないのかもしれないが、不勉強にしてよく知らないので、とりあえずふつうに「小説」として読んでみた。
とりあえずこの作品、私的にはSF小説に分類されるように思う。最近SF小説業界がどうなってるのかもよく知らないが、ひさびさに読んだSF、という印象。ジャンル的には量子論にインスピレーションを受けた「並行世界もの」、ということになるんだろうか。物語の流れ自体はいわゆる「セカイ系」ともいえるんだろうが、本書の、作品世界で何が起きてるのかをきちんと説明しようとする「律儀さ」は、どんな荒唐無稽でも「世界観」のひとことですませてしまう一般的な「セカイ系」(そういうのも別にきらいじゃないんだけどね)の作品群とは一線を画すもののように思う。
よくある「世の中には2種類の~」という分類法でいくと、私にとって小説には2種類しかない。それは面白い小説と面白くない小説、いいかえれば好きな小説ときらいな小説ということにもなるのかもしれないが、いずれの分類にせよ、本書は前者に属する。要するに、文句なく面白い。スリリングで、緻密で、スピード感があって、かつ繊細。どす黒い欲望とピュアな願望が入り混じって、混沌の中に大きな秩序がみえたりして、それらが一気にラストに向かってなだれこんでいくあたりはいやおうなくひきつけられる。最後の余韻の残し方もいい。ちょっと残念なのは、若干刺激の強い描写があちこちにあって、健全なお子様方には少しお勧めしづらいところだろうか。特に主人公である葦船往人のロリ嗜好には正直ちょっと引く(おかげで主人公に感情移入しすぎずにすんだが)。
序盤に裏テーマ的なものが提示されている。それが「35歳問題」。村上春樹の作品が紹介されていて、世の35歳前後の人たちに広く共有されうる問題、ということなんだろう(本題と関係ないが、本文に「ぼくの世代の「批判的」な小説家は、たいていは春樹を軽蔑するように訓練されており」とあって面白い。そういう空気感なんだね)。本文を引用すると、こう。
ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直説法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
そして、その両者のバランスは、おそらくは三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界には存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。
ふむ。感覚的によくわかる。この問題、世間的にはいわゆるコップの水の「もう半分しかない問題」として語られることが多いと思う。この場合の「水」は時間で、その時間に実現されるかもしれないいろいろな可能性を内包して「水」なわけだが、本書はなんせ「量子家族」なわけで、その「可能性」の部分をもっと明確に意識する。で、「なしとげられる《かもしれなかった》こと」という「仮定法過去」と表現するわけだな。現実にはもう存在しないから「亡霊」。で、その「亡霊」に悩まされたあげく、「スタート時点まで駆け戻ってすべてをリセットしたい衝動に駆られ」ることになる、と。「リセット」などというと、あれやこれやの事件とか、あの人やらこの人やらの言論とかが思い出されてしまったりもする。ここでこれが「ゼロ年代」の、とかいうとかっこよく評論みたいなことができるのかもしれないが、不幸にしてそのジャンルについてあまりにも無知なのでやめといて、少しでも「土地勘」のある領域に引き寄せて考える。
読みながらつらつら思ったのは、ああこれって、この主人公にとっての機会集合が変化してないんだな、ということ。満期のある最適意思決定問題みたいなものがあって、機会集合が最初に決まっていれば、それは時間の経過によって減っていくだけというのは自然なこと。オプションでいうとシータが負ということでもある。
しかし実際には、人が一生のうちに直面する機会集合は大なり小なり変化する。はじめは巨大でもスカスカであちこちにほころびがあるような機会集合は、やがて小さくなったとしても濃密で豊かなものに変わっていくし、また新たな機会集合が生まれたりもする。なぜなら、その間にその人がさまざまな行動をして、いろいろな経験を積んでいくからだ。キャリアプランニングの分野で「プランド・ハプンスタンス」と呼ぶアプローチは、行動によって機会集合を変えていくことに注目する。企業が行う戦略的投資も、機会集合を変え、ゴールを変えていく。行動していくことで、当然、価値の基準も変化していくだろう。引用文中のことばを使えば、今の行動によって「直説法未来」を変え、増やしていく。その際評価基準も変わっていくわけだ。
「仮定法過去」に関して意思決定基準の観点から、もう1点重要なことがある。「サンクコストを勘定に入れてはいけない」というものだ。小難しくいえばベルマンの最適性原則からスタートしてみたいな話になるが、まあ簡単にいえば「覆水盆に返らず」というわけで、「先人の知恵」とみることもできようか。もちろんこれらは、いうはやすいが実際にそれでうまくいくとは限らない。ひょっとすると、そういう考え方や行動ができるようになるのが「成熟する」ということなのかもしれない。
もしそうだとすると、「35歳問題」というのは、そうした「成熟」にいたるまでの過渡期の葛藤みたいなものなのかもしれない。古来「四十にして惑わず」というが、35歳はまだ惑っている、みたいな。実際のところ、40でも50でも惑っている人はたくさんいるわけで、世代特有の問題ということではないし、そもそもある日突然、すっかり悟ってすべてクリア、という類の話ではない。場合によっては、意識の上での機会集合が子どものころのまま大人になっちゃった「中2病」問題みたいな部分もあるのかもしれない。
不況や社会の変化、その他の理由でそうした「経験」を積む機会、将来の機会集合に関する「期待」を奪われた人たちをどうするかという社会全体の問題とみるべき場合もあるだろう。特に「今」の35歳前後の人たち、いわゆる「ロスジェネ」と称される世代の人たちに関しては、この要素はかなり大きいはずだ。社会の側でやるべきこと、やれることはある。とはいえ、それもまた大半が「仮定法過去」に押し込められていくのはいたしかたない。だから社会に、他の誰かにすべて任せておけばいいというものではない。最終的に自分が行動しなければ、状況はおそらく変わらない。
主人公は、「量子的に拡散してしまった家族を再縫合」しようと走る。並行世界に住んでいた、自分がたどったかもしれない人生を共にしてきた別の世界の「家族」を、自分の家族として受け入れようとする。自分の世界での家族との関係は壊れてしまっても、まだできること、やるべきことはある、と考えたのだろうか。ともかくそれが、新たな機会集合を生み出すための行動だったわけだ。仮定法過去の亡霊から逃れるためには、直説法未来の機会集合を発見し、積み重ねていったり、新たな基準で「なしとげられる《かもしれなかった》こと」を再評価したりしていくしかない。「35歳問題」の「解」が「家族」である必要は必ずしもないのかもしれないが、まぎれもなく1つの「解」ではあろう。個人的には、そうした「解」の少なくともいくつかは、ネットを通じて、あるいはリアルでの「もう1つのつながり」「もう1つの活動分野」やら「もう1人の自分」やらといったものの中にあるかもしれない、とうっすら考えてはいるので、「並行世界」のメタファーは非常に興味深く読めた。本書を読んだ「35歳問題」の当事者の方々は、どんな「機会集合」を見出すだろうか。あるいは見出さないだろうか。ぜひ聞いてみたい気がする。
別に思想とか興味なくても面白く読める。あったらあったなりに面白いだろうけど。というわけで18歳以上のすべての方におすすめ。
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Comments
山口様
時下益々ご清祥の事とお喜び申し上げます。
度重なるご連絡をお許しください。
私は、東京大学大学院情報学環の
特任研究員の羽野仁彦と申します。
http://dcom.iii.u-tokyo.ac.jp/node/15
東京大学の研究の一環として
ブロガーの皆様に対して、
普段のブログ作成に関する
アンケートを実施する運びとなりました。
お忙しいところ恐れ入りますが、
ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
アンケートは以下のURLからご登録をお願いします。
薄謝として、アマゾンギフト券をお送りします。
http://asp01.cubequery.jp/003382a5
※なお本アンケートは、こちらのブログ管理人様宛に
依頼するものです。
管理人様以外の回答はご遠慮くださいますよう、
お願い申し上げます。
Posted by: 東京大学情報学環 羽野仁彦 | January 13, 2010 04:16 PM
羽野仁彦さん
アンケートは答えました。
ただ、選択肢の設定に偏りがみられること、誤字脱字が残っていること等、気になるところが散見されます。お急ぎだったのかもしれませんが、次回はもう少し練ってから実施されることをお勧めします。
Posted by: 山口 浩 | January 13, 2010 09:37 PM