「女学校と女学生:教養・たしなみ・モダン文化」
稲垣恭子著「女学校と女学生:教養・たしなみ・モダン文化」中公新書、2007年。
歴史の本というのは、過去を知ること自体面白いのだが、同時に、過去の中に現在をみることの面白みというのもあるように思う。歴史に学ぶというと聞こえはいいが、少なくとも私の場合、ほーら昔の人だってそんなえらそうなこといえないじゃん、みたいな動機も少なからずある。昔はよかったとか昔の人はえらかったとか、そういうことを無邪気にいう人がけっこう多いので、ほんとにそうかな?といいたくなるわけだ。たとえ今の状況があまり芳しくなくても、「昔もこういうことがあったんだねえ」と知るだけで、少し気が楽になったりもするし、よくすればなんらか解決のヒントが見えたりもするかもしれない。
で、この本。見てタイトルの通り。戦前、特に大正から昭和初期にかけての女学校と女学生に関する本。「はいからさんが通る」は今の世代にはちょっと縁遠いかもしれないが、まあ昨年も「大正野球娘」とかやってたし、なんとなくイメージは共有されてると思う。この世代には存命の方もまだ多いわけで、文献資料だけではなく、直接本人から聞いたりすることもできるから、今のうちに記録しておくことの価値はひときわ大きかろう。
女子教育については、最近でこそあまりおおっぴらにはいわれなくなったようだが、かつてはその不要論が繰り返し公然と主張されてきた。本題ではないのでつっこまないが、そのポイントは、おおざっぱにいえば「勉強しても役に立たないではないか」と「どうせまじめに勉強してない」の2点に集約されるだろう。このうち2点めの裏側には「どうせ男遊びばかりしているにちがいない」というのが隠れてて、要するに「強い女」「奔放な女」に対する男側の恐れや恨み、やっかみの反映とみても大きくはずれてはいない。
今回注目したいのは1点めのほう。女学校で教わる科目で人気があるのは、裁縫みたいな実用の技術ではなく典型的には教養の類だったらしい。じゃあ学校を出てそれを生かして仕事を、と思っても、そういう場はそうそうあるわけでもなく、結婚して(昔ふうにいえば「嫁に行って」)学んだものを生かすことなく宝の持ち腐れにするか(実際に「持ち腐れ」かどうか別として、外部からはそう見られがちということ)、あるいは実家でいわゆる「家事手伝い」になったりするというわけだ。
あれ?何か既視感があるぞ?と思ったら、これは今の大学生にもよくみられる姿ではないか。考えてみれば確かに、「家事手伝い」は「自宅警備員」と名目も実質もさして変わらないだろうし(実際、家事手伝いは「ニート」に分類されるらしい。ソース確認してないがWikipediaの記述はこれ)、「本人たちの心構えがなっとらん」という批判を受けがちなところも共通。となると、当時の女学生気質の中に、今の若者気質に通じるものがあるのかもしれない。
というわけで読んでみたら、あったあった。この本は他の文献からいろいろ引用してるのだが、これも引用。山本による、いわゆる不良女学生に関しての論考から。
出来る可能性を持つてゐながら努力しないことを以つて優越を感じようとする。努力さへすれば出来るのだといふ自惚を持つてはゐるが実際成績は本人の予想以上によくない」
山本三郎『女学生の心理』文進堂、1942年
これ、まさしく「働いたら負け」の論理ではないか。もちろんこれは教員側からの一方的な見方で、ご本人たちは悩んでる場合も多かったろう。以下は1931年(昭和6年)に女子高等師範学校に入学した女性の女学校時代の日記を、武田が引用したものからさらに引用したもの。
してみると学校を出て、就職もせず、結婚もせず、ブラブラとしていられれば一番いいのだが、家庭の事情、世間の体面で、そんなわけにはいかない。どうしたらいいのだろう。ピアノでも買ってもらって、その他茶道など続けて芸術に没頭してゆくなら、独り身の憂さも拭えるかもしれない。
武田佐知子「娘が語る母の昭和」朝日新聞社、2000年
1人1人聞いてみたわけではないが、今の大学生(当然、昔の大学生も、だが)の中で、こうした気持ちでいる人、いた人は少なからずいるのではないかと思う。当時の女学生と今の大学生の間で共通しているのは、卒業後に対する不安というか、卒業後に出て行く社会に蔓延する閉塞感のようなものだろう。女学生たちの場合は、長い時間をかけ、各世代の人たちの努力で切り開かれてきたわけだが、それとともに、社会の中で考え方が変化し、制度の後押しを得たということも、まだまだ課題はあるんだろうが現在の状態までこられた理由として欠くことはできまい。現代の大学生がおかれた状況に関しても、彼ら自身が努力すべき部分があるのは前提としても、制度などの面でもう少し後押ししてあげられないだろうか、とポジショントークっぽくなるが思う。
この本には他にも女学生文化の中で現代に通じる記述があって面白い。たとえば、当時の女学生の間では手紙のやりとりがさかんだったそうだが(私が高校生のころにも女子の同級生たちは授業中にノートの切れ端にメモを書いたものを折りたたんでやりとりしていた)、これはまさに今でいえば携帯メールなわけだ。道具は変わってもやってることはさして変わらない。今は男子もメールをやりとりしたりするから、その点でも女学生文化の「遺伝子」が男子にも浸透したってことになろうか。今はもう死語になったであろう「エス」もかなりのスペースを割いて取り上げられてるが、ひょっとしたら今でも、それに相当あるいは類似した行動が女子校なんかではあるのかもしれない。
最近の関心事にからめていうと、当時、小説が風紀を乱すものとして、少なからぬ学校で禁止されていたことなども書かれている。今なにやら東京都の条例案が話題になってるが、その条例案では問題にしていないらしい小説(あれは都知事が小説家、それも子供に見せたくない作品群で名を知られる小説家だったという以外に何か合理的な理由があるんだろうか?)も、当時は問題になっていたというわけ。当時問題視された小説の中には、今なら国語の教科書に載ってるようなものだってたくさんある。いまや当たり前のように音楽の教科書に載ってるビートルズの歌がその当時は「不良の音楽」「音楽と呼ぶに値しない」などと言われて学校で禁止されたのと同じだ。
条例案自体、目的と手段があれこれ入り混じってごちゃごちゃになってる点、基準がどうとでも運用できる点など、きわめて質の低いできだと思う。私が反対を唱えるのは基本的にはそのためだが、それに加えて、その底流に流れる「最近子育ての環境が悪化しているがそれは最近流行りのアレが悪いからにちがいない」的な発想が、子供を育てるということに関してあまりにも安直ではないかといいたい。歴史は繰り返すというが、過去の失敗を繰り返すのは、歴史に学ばない者が少なからずいるからだ。例の条例案を推進してる方は、本書の中の、戦前の小説に対する風紀紊乱批判についての以下の記述を、正座して襟を正して百万遍唱えるとよかろう。
このような批判には、学生風紀問題の責任を新興メディアである小説に押し付けることで、学校批判を回避しようとする学校関係者の戦略という側面もあった。
もちろん学校関係者だけではない。親も政治家も行政も、子供の健全育成に関わる人ならこの指摘を肝に銘ずべきなのではないかと思う。あ、ある程度の歳なら子供自身だって責任はあるはず。
というわけで、意外に「現代的」な本書、純粋に当時の状況を知るだけでも面白いので、女子に限らず男子の皆様にもお勧め。若い人も読んでみるといい。
The comments to this entry are closed.
Comments