日本型キャラクラシーについて
手短に。「キャラクラシー」という考え方を濱野智史さんが提唱しておられるのを初めて聞いたのは昨年のウェブ学会だった。「初音ミク」を出馬させよう、という「釣り」はともかく、発想はもちろんまじめな話。間接民主制が民意を受けた代表者による政治であるとするなら、その民意を受ける客体が自然人である必要はない、という発想で、民主主義のあり方についての議論の1つなわけだ。キャラクターを採用するのは、その方が支持が集めやすかろう、ということかとおおざっぱに解釈している。
荒唐無稽な、と思う人がいるかもしれないが、実際のところ、日本にはこれにやや近い状況がすでに実現しているのではないかと思う。
昨日ニュースで大きな話題となった柔道選手の谷亮子さんの出馬。参院選を控えて、他にも有力、あるいは元有力スポーツ選手の出馬宣言が相次いでいる。スポーツ選手に限らない。お笑い芸人やアナウンサー、タレント、作家など、いわゆる有名人の出馬はこれまで数多く例があり、実際多くの人が当選し政治家となった。
これらの方々に政治家としての能力がないとはいわない。少なくとも私は知らない。だが、少なくとも今出馬を取りざたされている方々の中で、その政治能力について有権者の間に一定の評価がある、という人はいないだろう。ではこの人たちが選ばれたのはなぜか、といえば、いうまでもない。知名度だ。「人寄せパンダ」という表現はご本人方にもパンダにも失礼だと思うが、その人の中身より外見が重視されていることはどうがんばっても否定できまい。
もちろん、同様の有名人候補として出馬して政治家となって、その後実績を挙げられた方々もたくさんいるだろう。政治には一般人の感覚も必要だ、という意見もわからなくはない。しかしやはり、「有名人さえ立てときゃ票が集まるだろ」みたいな計算が透けて見えるようだし、票を集めることばかりを重視するかのような人選に見えて鼻白む思いの人も少なからずいるのではないかと思う。
では、こういう人選に何か少しでも前向きの意味を見出すことはできるのだろうか。スポーツ選手として厳しい鍛錬に耐えた人たちにはそれなりの哲学や胆力が、などと持ち上げるのが一般的にはまっとうな方向ということになるんだろうが、そういおうとするとどうも背筋がすーすーして口からことばが出てこなくなる。もっとはっきりいえば、たいへん申し訳ないが、うそくさい。かといって、政界はスポーツ選手や芸人、タレント等「賞味期限」の短い皆さんにとって1つの「キャリアパス」、とまでいっては皮肉にすぎるか。
で、キャラクラシーなわけだ。有名人が有名であるということは、当然ながらそれ自体別に悪いことでもなんでもない。人の関心を引きよせる力というのは、それが言論によるにせよ、外見によるにせよ、りっぱな才能だ。問題は政治家としての能力の方なわけで、それをもしなんらかの方法で補うことができるなら、全体としてむしろいいことではないか。今の有名人政治家たちも、きっとスタッフや同僚議員などからいろいろ教えてもらいながら仕事をしているにちがいない。自分の考えで動く部分ももちろんあろうが、党議拘束みたいなものもあるだろうし、正直自分で考えなきゃいけない部分はそれほど多くないだろう。そもそも有名人議員にはそう多くを期待されないケースが多いのではないか。ならばその議員は、キャラクターとさして変わらないことになる。いわば三次元の、生身のキャラクターによるキャラクラシーなわけだ。他の型があるのかどうか知らないが、仮に「日本型」キャラクラシーと呼んでおこうか。二次元キャラクターを使うのが「本流」なら「擬似キャラクラシー」と呼んでもいい。
考えてみれば、どの政治家も秘書をたくさん使って情報収集やら折衝やら、政治家としての仕事を分担してやってるわけで、それとどのくらいちがうのだと考えれば、ずいぶんちがうとは思うが、まったく違うとまではいえないのではないかと思う。もちろん、有名人議員たちも最終的に自分で判断するという体でそうやっているわけだが、どうせなら正面から「知恵は信頼できるスタッフに借ります」とやったほうがよほど透明でいいのではないか。
もしそういう方向で考えるなら、今は議場でのPCや携帯電話とかはだめらしいが、解禁したらいいんじゃないかな。せっかくだから、アメリカの政治家の討論会みたいに、無線の受信機を仕込んで、スタッフから議論のアドバイスを受けながら発言できるようにすればいい。なんなら中継見てる人からのツイッター書き込みだの、ニコ割アンケートだのを参考にするもよかろう。「キャラクラシー」というなじみがない表現を持ち出すとめんどくさいから、「民意のよりダイレクトかつリアルタイムな反映が時代の要請」とでも言っておこうか。
あと、つけくわえると、名前についてはすでに、実名とはちがう名の使用が政界では認められている。国会なら不破哲三、扇千景といった面々(蓮舫議員も姓を表記しないという意味で実名とはちがうはず)、自治体ならそのまんま東や横山ノックなど。これらも一種のキャラクターといえばキャラクターだ。扇千景さんが「林寛子」名ではなく「扇千景」名で立候補したのは、その芸名で連想されるキャラクターに対して人々が投票することを期待したからだろう。このこと自体キャラクラシーの萌芽と呼んでいいものだと思う。
半分はネタだが半分は本気でもある。ぱっと見の印象ほど荒唐無稽なことでもないのではないかと思うのだが。
※追記
上のを「日本型」と呼ぶなら、アメリカ型はこのあたりか。
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Comments
とりあえず、やってみたら面白そうですね。
ウェブ学会で既に議論されているのでしょうけど、やってみることによっていろいろわかることもあるのでしょうし。でもむりなんだろうなー。
すこし、私の中で整理できていないのは、キャラクラシーを立てる一番の利点って何でだろうってことです(より直接人々の意見が政治に反映されるってことかな?)
Posted by: のひ | May 12, 2010 12:02 PM
確かに面白そうですが、討論をするのは誰になるんでしょうか?「民意」自体が一枚岩でない限り「船頭多くして」状態になってしまう気がします。
それとこの概念って高師直の名言と同じことですよね?やっぱり日本は戦国時代に突入するのでしょうか?
Posted by: ひまつぶし | May 12, 2010 06:59 PM
なんかもういっそ、比例は政党単位のみでいいんじゃないのかと。『自民クン』『コバトみんしゅ』みたいな政党キャラ(マスコット)だけ作って、中の人達でしっかり政策論争だけさせるみたいな。こうした方が変に知名度高い人争奪戦になるのは避けられるかも。
有名売れっ子漫画家とかイラストレーターとか声優が今度は引っ張りだこになるかも知れませんが。
政党単位のみでの比例選ですが、支持政党が無い場合、非支持票を入れて、支持票と相殺できるようにしておくと、投票モチベーションを上げられるかも知れませんね。(一人一票で、支持票か非支持票のどちらかしか投じられない) この場合、最悪比例議選ゼロとか有り得ますが、それも民意かと・・・。
Posted by: 名無之直人 | May 13, 2010 12:41 AM
コメントありがとうございます。
ひまつぶしさん
何をメリットと考えるかは、人によって異なるでしょう。政治への関心を高める、複数のスタッフが裏につくことで「1人」の議員の質を高める、キャラクターは歳をとらずイメージが劣化しにくい等々。むしろいろいろな理由があること自体が、これが悪くない案であることの傍証になっているのではないでしょうか。実現性に関してはもちろんアレですが、それに近いことはちょっとした運用で可能なのではないか、というのが本文の意図するところです。
名無之直人さん
政党に集約する、という考え方もありますね。ちがう考え方もあるでしょう。ともあれ、今の政治のやり方に何の改善の余地もない、なんてことはないはずです。実現できるのはごく一部でしょうが、少しずつ変えていくことができるなら、それもありでしょう。みんなでいろいろ意見を出していったらいいんじゃないかと思っています。
Posted by: 山口 浩 | May 13, 2010 07:45 PM
キャラクラシーの問題として、キャラクターが当該政党を代表、体現していると言えるのかがあるような(これは現状でも言えることですが)。
そしてキャラクラシーを突き詰めると議員などいらんような気も。政党名だけで投票して後は自由に内部で割り振ればいいわけで。
議員(スタッフを含んで)に政策能力がもっとあればいいんですけどねえ。
結局のところ、本当の意味で政策が選挙の争点になる(現実性のあるマニフェストを闘わせる)ことが先に来ないと、選挙制度をいじっても何も変わらないかなあ、と思います。
しかしそのためには政策能力を持つ者が議員にならねば。
どうしたものでしょう。
Posted by: akahashi | May 13, 2010 11:38 PM
akahashiさん、コメントありがとうございます。
この種の話は、似たようなことを考えていても、何を前提としてどのくらいのタイムスパンで何を目的としてどの順番でやるのか、みたいな具体的なところが人によってちがったりするので、さまざまな意見があるだろうと思います。
私としては、とりあえずわいわいいろいろ話をするぐらいのところから始めたらいいんじゃないかな、というわけで、こういう書き方をしてみました。面白いと思う人が集まって、何か動き出したらいいですね。
Posted by: 山口 浩 | May 16, 2010 01:26 PM
電子機器の規格決定とかでの議論・採決は、確か、法人単位だったはずです。キャラクタシーや政党政治と通じるものがあると思います。
因みに、法人は個人と一対多対応(一個人の所属する法人はひとつだけ)が普通ですが、一対一対応(個人事業主)どころか、多対一(ペーパーカンパニー)まであります。全政党が一議席ずつしかとれない小党濫立の議会でも、全党の党首・党員は同一人物というのが、原理的には可能でしょう。
Posted by: A-11 | June 01, 2010 12:28 AM
A-11さん、コメントありがとうございます。
この領域は、便宜的に決められたものを正当化するために理屈が考えだされてきたのではないかと個人的には考えています。人のマインドセットを変えることはなかなか難しいですが、世代が変わればけっこう動かせるのではないかと。
Posted by: 山口 浩 | June 08, 2010 08:52 PM