書評:『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』
福井健策著『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』集英社新書、2010年。
某誌向けなんだがこっそり出しとく。一応ちょっとだけ変えてある。
著作権は、私たちの生活に身近な権利だ。書籍や映像等のコンテンツがさまざまなメディアを通してやりとりされる現代社会では、その傾向がさらに加速している。が、どうもわかりにくいとされることが多いように思う。そうなってしまう理由はいくつもあるが、この権利がもつあいまいさ、わかりにくさがその一因となっているだろうことは想像に難くない。もちろん、あらゆる法律はなんらかの意味であいまいさを残しているものだが、たとえば人を殺せば殺人罪に問われるというのと比べると、著作権法においては、何が著作物なのか、何が権利として保護されるのかといった根幹部分から、何がその侵害になるのかといったところまで含めてグレーの部分がけっこうあって、何がよくて何がだめなのかわかりづらい。法律家ならわかるかといえば実はそうでもなくて、最終的には裁判で判決が出てみないとなんとも、みたいなケースが実は多かったりする。平易かつ良質な解説書が求められるゆえんであり、本書もその1冊として推奨できる。最初に読むべき本では必ずしもないかもしれないが、このテーマに関心ある人なら必ず読むべき本ではあると思う。
著作権に限らないが、法律や法律上の概念等をテーマとして書かれたものを、個人的には大きく2種類に分けている。ひとつは法律が何を意味するか、どう適用されるかといった、その法律の現在ある状態を前提として、それがどういうものかを解説するもの、もうひとつは法律を歴史や社会との適合性などより広い文脈からみて、それが適切か、よりよいやり方はどうかといったように、現状を変えられる前提として論じるものだ。
法律を「道具」と考えるなら、前者は道具の使い方の説明を目的とする、どちらかといえば実用的な性格をもったものだ。法律という道具はそれ単体で機能するわけではなく、一般的な法原則や立法時の意図、他の法律や上位法規との関係、あるいは具体的にそれが適用された先例(判例)等によってどう機能するかが変わってくる。そうした部分も含め、この道具をきちんと使いこなすためには法律の細部に至るまでの知識や実務の場での経験などが必要であり、実際には専門家のアシストを受けた方がいい場合が少なくないわけだが、それでも一般人が知っておくべきこと、知っておいたほうがいいことはたくさんある。
これに対し後者は、「道具」としての法律のよしあしやその作り方、改良の方法などについて考えることを目的とする、どちらかといえば学問的なものということになろうか。法とて人の作ったものであるから、きちんと手続きをふめば変えられるし、また必要に応じて変えていくべきものだ。当然ながらこうした論議は、現存する法を守るべきであることと切り離せる。とはいえ、その法が何のために定められたのか、それによって何がもたらされているのか、それをどう変えたらどうなるのかを考えるためには、現行法の考え方の枠を超えた幅広い視点や知見が必要だろう。
偏見とのそしりを恐れずにいえば、前者は法律の策定に関わった官僚や実際に扱う実務家の手によって書かれることが多い。これらの人々にとって法の細部にわたる知識や経験は著者としての大きなアドバンテージであり、それを生かすという側面もあるだろう。あるいは、現実の法に近い立場にいるために、そこから離れて論じることはなかなかできないのかもしれない。とにかくこうしたものは、現状を前提とするわけで、どちらかといえば現状肯定的な論調になりがちだ。一方後者は、法学者など、法をより広い視点から見る立場の著者や、法学以外の分野の人たちによって書かれることが多いように思う。たいていの法律にはなんらかの問題点があるわけで、その対策が法改正であるとは必ずしも限らないが、問題点に注目する以上、現状に対して批判的な指摘がしばしばみられる。
前置きが若干長くなったが、その意味で本書は、若干特異な位置づけにある。著者は第一線で活躍する実務家だが、本書は、新書というコンパクトなつくりの中に、上記の両方の視点を兼ね備えたものだからだ。
章立ては次のようになっている。
第1章 情報の独占制度
第2章 対立するテクノロジーと著作権
第3章 多次的創作の時代
第4章 PD、オア・ノットPD、それが問題だ
第5章 アーカイビングの現在
第6章 変容する著作権―リフォーム論、DRM、パブリック・ライセンス
第7章 擬似著作権と情報の「囲い込み」
終章 情報の「世界分割」
本書は、著作権にあまり詳しくない一般読者を念頭においており、その基礎的な考え方を簡潔に説明しているが、単なる著作権の解説本ではない。副題にもあるとおり、本書の視点は「変わる」という部分にあらわれており、現状の問題点から、著作権とはそもそも何か、どうあるべきなのかについての考察までを平易なことばで展開していく。
著者が著作権をどうとらえているかは、ひとことでいえば第1章のタイトルである「情報の独占制度」に現れているが、より広い文脈では、終章に掲載された「情報の流通と占有」と題する図が俯瞰的でわかりやすい。すなわち、情報を占有できる立場やそこから得られる収益を著作者に帰属させる手段ということだが、この図でいいのは、情報の「占有」と、「公開」やら「共有」やらを対極的概念としてとらえるのではなく、1つの平面の上で区切られた隣接領域として位置づけていることだ。その区切り方には本来いろいろなやり方があって、時とともに変えることができるという含みがあらわれている。実際、今、現場ではそうしたことが起き始めているわけで、第一線の実務家からこうした、権利の成立にまでさかのぼった俯瞰的な視点と、実務の現場でのぎりぎりの判断を踏まえた視点の双方が感じられる見方が提示されていることは、ある意味非常に心強い。
それともう1つ、情報を占有する手段として著作権が唯一の手段というわけではないということを明確に示している点も出色だ。著者によれば、情報を占有管理する方法は3つしかない。それは、秘匿、技術、法的権利であると。私はここに「戦略」を加えるべきと考えるが、それはそれとして、このような構図は多くの実務家の実感にも沿ったものだろう。第7章で述べられた「疑似著作権」という考え方も、法を高いところから俯瞰する視点とともに、実務家ならではの視点を兼ね備えた著者ならではのユニークなものだ。
そのうえで本書は、著作権はこの3番目の手段にあたる非常に強力な手段だが、時代の変化、技術の変化とともに、変換期を迎えているのではないか、と説く。本書の中では、権利保護期間や二次創作、私的複製の範囲等、現在の著作権のあり方に対する疑問が、あくまで控えめにだが、随所で提示されている。ここで声高な主張に走らないところに不満を覚える読者もいるのかもしれないが、実務をふまえ非現実的な理想論に走らない大人の議論ととらえるべきだろう。具体的な事例でわかりやすく説明されることで、素人の私たちにも、この法律が現在抱えている問題点が浮き彫りになって見えてくる。あとは社会を構成する私たちがどう考え何をどう変えていくかの問題、というわけだ。
本書におけるこうした議論は、権利保護の行きすぎと不足の双方を問題と考えるという意味でも、また過去からの継続性とともに、人や社会の変化、技術の発達を明確に考慮に入れているという面でも、非常にバランスのとれたものといえる。法律論の枠を超えるこのような幅の広い見方は、実務家の書く一般的な解説本にも、法学研究者が書く一般的な研究書にもあまり見られない大きな構図のものではないかと思う。
それから、事例を紹介する際の語り口を含め、文章を読みながら感じられるのは、コンテンツやその創造者だけでなく、利用者までも含めた、コンテンツをめぐる人々やその営みに対する著者の「愛」のようなものだ。もちろんビジネスの世界は厳しいものであり、甘っちょろいことを言っている余裕はないのだろう。しかしその根本にこうした「愛」を感じられない議論にはどこか空疎なもの、共感しにくいものを感じざるを得ない。著者が上記の2つの視点を併せ持った議論をできるのも、これがあるからななのかもしれない。私たちがコンテンツを考え、語る際にも、こうした部分を忘れてはならないのではないだろうか。
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