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July 18, 2010

「マニフェスト政治」とのつきあい方を考えてたらわかんなくなってきた

参院選が終わった。結果については思うところがないでもないが面倒なので別の機会にする。ここでは、「マニフェスト」(でも選挙公約でもなんでもいいが)を掲げて争われた選挙戦で、再びねじれ国会となっちゃった点についていったいどうするんだろう、と思ったりしてる件について。少なくとも今の政権は参議院では半数未満しかいないわけで、野党の協力がなければ大半の法案は成立させられない。協力を求めたければ、マニフェストを修正せざるを得ないのではないか。そう思っていたら、2010年7月14日付朝日新聞に曽我豪編集委員名で「民主党挫折の先(中) 手作りの多数へ 対話を」と題した記事が出ていた。

で、つらつら考えていたら、どうもよくわからなくなってきた。マニフェストがっていうより、マニフェストの論じられ方が。

記事は、大平正芳氏が自民党幹事長として与野党伯仲状態の国会で提唱した部分連合の例をひいて、こういう。

部分連合は国会対策上の小手先の技術ではない。交渉相手の向こうに自分と異なる意見の存在を見、反対、少数意見を組み込むことで広範ま国民の声を施策に反映させる。自説を押し通すだけの乱暴な多数の力でなく、説得と議論で手作りの多数を目指すしなやかな包摂の力こそが、いま求められる強い政治の条件だろう。

要するに、安易に連立に走るのではなく、対話を通じて合意できる部分を探り、案件ごとに決めていくべきだ、ぐらいの話になろうか。連立となれば、意見のくいちがいに目をつぶって合意したことにしてとりあえず政権立ててポスト分け合って、で、後でああだこうだもめて、意思が通らなかった方は連立を離脱するだのしないだのやって、政治家の皆さんは言い訳に追われて、で、政治への信頼が失われたとメディアが書きたてて、というのがお決まりのコースになってる。いつもいつもこれじゃあまりにも建設的じゃないだろいかんだろなんとかしようぜということかと思う。

考えてみれば至極道理ではある。選挙にあたっては、他ではなく自分たちのグループに投票してほしいわけだから、他とちがう政策目標を掲げるのが当たり前で、ということは政党間で政策がすべてぴったり一致することなどありえない。で、結果としてどれか1つのグループの意見が全部通る状況になるなら、よしあしは別として少なくとも争いにはならないが、そうでなければ当然、多数を形成するために意見のすりあわせが行われる必要がある。そこで自分はまったく譲らない、お前だけが譲れと言い合っていては、話し合いになりようもない。

そもそも間接民主制は、代表として選ばれた者に「操りロボット」となることを強いるものではないだろう。その判断能力を生かし、状況に応じて適切に行動することが期待されているわけで、その中には当初公約なりマニフェストなり、自分たちが掲げた目標の修正も含まれてしかるべきだ。もちろん、何でも譲り合って決めればいいとは限らないが、その余地がまったくないというのもおかしい。

さてそこでマニフェストとの関係が問題となるわけだ。マニフェストって具体的に数字とか挙げてあって、政権とったらそれを実行するっていう約束みたいにみえるし、実際に政治家の演説とか聞いてると、「国民の皆様とのお約束」みたいないいかたをしてるケースがよくあるように思う。マニフェストに入れた項目を変えることは約束を破ること、ウソをつくことになるんだろうか。

マニフェストなるものをどうみるかについてはいろいろ意見があるのかもしれないが、もともとの考え方はどうだったのか。日本にマニフェストを持ち込んだ(と記憶している)北川正恭氏率いる早稲田大学マニフェスト研究所のサイトのFAQには「マニフェストって何ですか」という設問があって、とっても長い説明が書いてあるのだが、端的にはこういうことらしい。

事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。

ふむ。じゃあ公約はどうかというと「事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます」と書いてあって、これはさすがにひどいだろうと思うが、まあ要するに、選挙の際に政治家がいう「当選したらこれやります」という類のもの、ぐらいにとらえておけばそれほどちがわないだろう。で、それがこれまであんまり軽く扱われてきたから、事後検証可能にして、国民の目でチェックできるようにしようというのが、マニフェストなるものを提唱する趣旨ということのようだ。

これを前提とすれば、いったん決めたマニフェストを後で見直すこと自体だめということではないように思われる。「事後検証」の際に、事情が変わりましたのでこうします、と説明できればまあいいわけだ。それじゃあ約束にならないという意見もあろうが、そこは程度問題。あとは説明をどのくらいていねいにするかという問題でもあるし、次の選挙でさあどうする、という問題でもある。最終的には有権者自身が問われることになるわけだ。少なくとも、「事後検証可能」ということは、事後変更不可ということではない。

もうちょっと突っ込んで考えてみる。あるマニフェストを掲げた政党に多数を与えなかったのが民意であるとするならば、その政党が多数を実現するために他の政党と議論をする中でマニフェストを修正していくのもまた民意の支持するところのはず。そもそも、マニフェストによって政治家が約束する相手は、支持者ではなく有権者全体であるはずで、それに対して有権者が総体として示した判断が選挙結果であるわけだから、一定の支持を受けたその他のマニフェストとすり合わせ、支持を受けた程度に応じてそれを取り入れていくことのほうが、むしろ有権者との約束を守ることになると考えるべきではなかろうか。

もしこういう理解でいいのだとしたら、今よくみる議論のやり方、つまりマニフェストそのものより、それが実現できなかったら辞めるとか辞めないとかそういうところばっかり注目する議論、マニフェストの変更自体を責めるような議論は、あまり建設的でないということにはなるように思う。むしろ、必要に迫られて変更に至る過程を検証することの方が重要ではないか。次の選挙のときまで、マニフェストが選挙後どう扱われたかを覚えておこうとすることの方が重要ではないか。

で、やっぱりわかんないわけだ。結局こういうのはエージェンシー問題の典型的な一類型なわけで、だとすれば私たちが考えるべきは、どうしたら政治家の方々が、マニフェスト(なり公約なり)を通じて、私たち全体の利益になるような行動をとってくれるかを考えることだろう。それは、現実に直面して柔軟に対応すべき政治家をやれうそつきほらうそつきと批判して、メンツを守りたい彼らを頑迷な態度に走らせることじゃないはずだ。当事者が我田引水を狙ってそういうのならまだわからなくもないが、メディアがそういう議論に走ってるケースがけっこうあったりするのはなんとも理解できない。ひょっとして、あれは世論を誘導しようとしてるんだろうか。やっぱり、よくわかんない。

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