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July 21, 2010

「海原雄山の憂鬱」とコンテンツビジネスに関するちょっとした考えごと

以下の文章は、情報技術の発達によって、社会のいろいろな分野で変化が起きてきているわけだが、その起き方には共通の要素がみられることがよくあるよね、というよくある類の話だ。似たようなことをいっている人も少なからずいるだろうし、自分としても以前からあちこちでしたことのある話であって、ひょっとしたらこのブログにも似たテーマで書いたことがあるかもしれないから、いろんな意味で新味はない。海原雄山を引き合いに出したのはまあ新しいといえば新しいが、これは一種のネタだ。あらかじめ念のため。

ここでいう情報技術の発達による変化というのは、ごくあらっぽくいえば、これまで難しかったことが比較的簡単にできるようになる、みたいな話だ。もちろん何でもできるというわけではないが、少なくとも、文章、映像や動画等からなるコンテンツをつくり、伝えることに関していえば、昨今の進歩は非常に大きい。これまでプロが、高度な技術をもったたくさんの人員や、高価な機械や施設、それらを動かすための多額の費用をもって臨まなければできなかったことのうちかなりの部分は、素人がネット接続されたPCと安価なソフトウェアでも可能になった。

とはいえ当然、素人の作ったものは、プロのものに比べて質が落ちることが多い。目の付け所、取捨選択のセンス、あるいは微妙な調整の具合、さらには効果的な伝え方、宣伝の仕方など、優れた才能や長年の経験をもってしかできない技のようなものはたくさんある。そういうものを身につけたプロにいわせれば、素人の作るものに見るべきものはなく、せいぜいまがいものだったり素人芸だったりで、たいした価値はないのだ、ということになるんだろう。この種の議論は、あちこちの分野で聞かれる。道理といえば道理で別に異論はないが、1点、この議論には抜け落ちていることがある。利用者、消費者の側が求めるのはいったい何か、という視点だ。

そこで海原雄山を引き合いに出す。もちろん、「美味しんぼ」の登場人物だが、実際にはこの作品をほとんど読んでいないので、要するに「こだわりの強い美食家」ぐらいの意味合いでとらえている。私がわずかに覚えているマンガ初期の描写では、料理が気に入らないとお膳をひっくり返してどなりちらすような人物だったと思う(その後設定が変わって、という話がWikipediaに書いてあるが現物を読んでないので知らない)。要するに、このキャラクターが実際にどう設定されているかはともかく、おいしいものを見分ける能力、おいしいものに対するこだわりがあるがゆえに、そうでないものを許さない態度をとってしまう人、とここではしておこう。

この種のものとはおよそ縁遠い私が想像するに、もしこういう人が実際にいたら、さぞかし日常生活がめんどうで苦痛なのではないか。海原雄山はおそらく自ら経営する美食倶楽部で毎食おいしいものを食べさせてもらえるのだろうが、実際にそういう立場の人はそう多くないわけで、仮においしいものにこだわろうとすると、街中で簡単に食事をとることもなかなかできなくなる。うまくそういう店を知っていたり、見つけられればいいが、そうでなければ空腹に耐えるか、仕方なく入った料理屋で気に入らない料理をがまんして食べるかという選択を迫られるわけだ。そんな状況を、仮に「海原雄山の憂鬱」と名づけてみる。目利きの能力があり、こだわりがあるがゆえに、レベルの高いもの以外では満足できないつらさ、ぐらいの意味だ。

現実には、こういう人は少ないと思う。人はけっこう柔軟にできていて、それなりのものはそれなりに受け入れたりする。味が気に入らなくても、こういうのもありだよね、まあがまんできるか、空腹よりましだ、と納得できるわけだ。さらに、食事の満足度というのは味だけで決まるのではない。場所、日時、同席者、価格、そのときの気分、作った人との関係性など、さまざまな要素が影響していて、それらの条件が異なるものは、あまり比較の対象にならない。たとえばの話、自分の家で家族が作った夕食と、「吉兆」の懐石の優劣を論ずることに意味があるだろうか。食べる側はたいてい、「何が何でもおいしくなければだめだ」とも「おいしければ他はどうでもいい」とも思っていないのだ。

同様のことが、多くのコンテンツにもあてはまるだろう。自分の子供が弾くつたない「キラキラ星」とホロヴィッツが弾くショパンの優劣を論ずる意味はないし、「○○の新曲は高音の伸びがいまいち」とか言い放っちゃう「音楽通」がカラオケで友人のへたくそな歌に大喜びで拍手したりしてもおかしくない。自分がファンなら誤字だらけのタレントブログだって読んで楽しいし、テレビ見ないで素人のUstream中継を見るのに熱中したりすることもある。もちろん程度問題ではあるが、少なくともある程度、コンテンツの質は、自分と提供者との関係その他、さまざまな要素と相互補完関係にある。業界風にいえば、「アイボール」(個人的にはこのことばは「オフ会」の意味を連想してしまうが)を競う相手は、プロだけではないということだ。

とすれば、現在のプロの方々が「自分たちプロの作ったものの方が価値がある」と考えるのは、それ自体まちがってはいないが、「だから買ってもらえるはずだ」までくると、「海原雄山の憂鬱」を過剰に評価していないか、との疑問をはさまざるを得ない。料理の世界でもそれ以外でも、「海原雄山」のような人がそう多くはいないとしたら、その考え方にはあまり説得力はないということにはならないか。

今と似た変化は、過去にもあった。音楽でいえばラジオやレコードの普及だ。録音や放送といった技術の進歩は、それまで数多くいたプロ音楽演奏者の仕事の多くを奪ったはずだが、同時に数多くの一般庶民に音楽とともにある生活をもたらした。書籍でいえば活版印刷の普及がそれにあたるかもしれない。安価に本を製造する技術の発達は、美術的な装飾を施した高付加価値の書籍の市場を縮小させたかもしれないが、一方で数多くの読み手、書き手にチャンスを与えた。演劇と映画、テレビの関係も似ているかもしれない。「安価な代替物」であるレコードや映画に職を奪われた演奏家や演劇人たちは、「あんなものはまがいものだ」といいながら去っていったのかもしれない。

一方、そういう専門家により近い領域での争いとはちがったところで、人々が以前から身近に楽しんできたコンテンツ、たとえば家族で歌う歌や、村の若い衆が演じる劇みたいなものがあった。それらの中には、特定の文脈で価値を持つものがあったりする。縁日の焼きそばがうまく感じられたり、友人とのバーベキューが店で食べるよりおいしかったりするのと同じだ。業界の人ならソーシャルとか何とかいうだろう。そうしたものの可能性が広がってきているのが現在の変化なのかもしれない。この動きもまた、かつてと同じように、それまでプロとして活躍してきた人たちの少なくとも一部の職を奪う可能性がある。それに対する反発も、かつて起きたこととよく似ている。

そういう変化に際して、現状を守るために規制を持ち出したり、公金を出させようとしたりする考え方は、もちろん例外もあるだろうが、基本的にあまり筋のいい考え方とは思えない。ある大きな流れが起きるときにはそれなりに理由があるわけで、それを無理にねじまげようとしても、たいていうまくいかないことは歴史が証明している。むしろ、いかにうまく対応するかを考えた方がいい。

レコードの普及で失職した音楽家たちはどこへ行ったのだろうか。他の職業に就いた人が多いのだろうか。一部は音楽教室なんかで教える立場に回ったかもしれない。音楽からまったく離れてしまった人もいるのだろうが、なんらかのかたちで音楽に関わり続けた人も少なからずいたはずだ。そうした人たちの「末裔」(象徴的な意味で)は今、新たに獲得した道具であるPCとネットを使って、新たなかたちで音楽の発信を始めている。ビジネスとしての音楽(金額で計測される)が仮に縮小したとしても、文化としての音楽まで縮小してしまうとは限らない。

だから放っておいても大丈夫、などとはもちろん思わない。少なくとも現在の過渡期にはいろいろな摩擦が起きるし、落ち着いた後にどうなっているかも今はまだよく見えない。経済産業省の境真良さんが最近、「生態系」ということばをよく使っていて、うまい表現だと思う。人為的な介入なしに、自律的に生存可能な環境が保たれるのが生態系だ。さらに重要なのは、生態系は変化の途中でも生息可能であり続けなければ保たれないということだ。

作り手がコンテンツを生み出す活動にも、それを支える環境がいる。それを生態系とみるなら、環境が大きく変化しつつある今は、これまでの「生態系」が維持不可能になった状態といえる。新たな「生態系」のあり方を探るだけでなく、そこまでどうやって変化していくかも問題となるわけだ。

業界の中の人にとっては、それは放っておけば自然にできるというものではなく、むしろ各社、各人がそれぞれ動きまわる中で作り上げていくものだ。うまく対応すれば生き残りの確率は高まるし、うまくなければその逆になる。今だと、お金が流れこまなくなってきている状況に対して、お金が流れ込む新たな道を作ろうとしてるところが多いんだろう。個人的には、それだけじゃなくて、少ないお金で生き延びる方策を探る方向、力をつけた素人を生かす方向みたいなものもあった方がいいんじゃないかと考えたりしてて、できる範囲で何かできないかなとか考えてるわけだが、そろそろエネルギーが切れてきたので、本日ここまで。

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Comments

まあ、そうですが、死刑囚の最後の晩餐と、生まれたばかりの赤ちゃんの食事は、思いが全然違うので。

まあ、なんていうか、TPO?

Posted by: luckdragon2009 | July 21, 2010 04:43 AM

luckdragon2009さん、コメントありがとうございます。
とはいえ申し訳ありません。ご趣旨が理解できません。

Posted by: 山口 浩 | July 28, 2010 11:45 AM

あ、しまった。
少し端的に過ぎましたね。

コンテンツに関しても、多分、それぞれの多様なシチエーションにより(死刑囚と赤ちゃんの例をあげましたが)、要求度合いが変わってくるのではないかと思いました。

単純に、くすっ、とわらって面白ければいいや、と思うシチエーションと、ここで、大切な事を知らせないと、もう二度とないかも、と思うシチエーションでは、コンテンツにかける意気込みが変わってくるのではないかなあ、と。

まあ、私も深く分析して、市場や、今後の発展性とかまで考えているわけでもないのですが。

そんな事を、なんとなく感じて、コメントしたのですが、少々端的にすぎましたね...。

Posted by: luckdragon2009 | July 30, 2010 07:31 AM

luckdragon2009さん、コメントありがとうございます。
本文には明確には書いてませんねそのあたり。当然そう思っています。で、たいていの人はときにおいしいものを食べたりしていても、日常的にはありあわせのものでそれほど不満なく過ごせるんじゃないかな、というあたりを言いたいわけでして。

Posted by: 山口 浩 | August 04, 2010 08:50 AM

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