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「駒東大学山口教授」が伝えたかったこと

2010年8月7日、「スイッチオン・プロジェクト」の記者体験プログラムに参加してきた(参考1参考2参考3参考4参考5)。今年は現実のテーマについて取材するのではなく、架空の設定で「村人」を演じるアクターに取材する、という形式。アクターとして参加した私が割り当てられたのは「駒東大学山口教授」という役柄。本当は経営学の研究者だがいきがかりで環境学に首をつっこんでて、調査のため村に滞在しているという設定になっていた。設定が微妙に現実とかぶる部分もあるのでやりやすいんだかやりにくいんだかわからないが、なかなか面白い経験で楽しめた。

とはいえ、素人役者なりに考えていたことがあって、それがうまく学生記者諸氏の取材で充分にはしゃべれなかったのが若干食い足りない感じではある。というわけでここにひとくさり吐きだしておこうかと。プログラム参加者向けに書いてる部分があるので、わかりにくい部分があったら申し訳ない。

それでも一応、ご存知ない方向けに概略だけ書いておく。「スイッチオン・プロジェクト」というのは、公式サイトによると、組織や媒体の枠を超えてジャーナリストが切磋琢磨しあう場づくりに取り組む、実践的かつ実験的なジャーナリスト育成プログラム、みたいに説明されている。より詳しくは上においといたリンク先でお確かめいただきたい。昨年は、プロのデスクの指導の下、実際の取材を行って記事を書いたわけだが、今年は架空の設定でアクターに取材する形式になったわけだ。企画にからんでないので形式を変えた理由は知らないが、ともあれそこに取材対象となるアクターとして参加するよう要請を受けたので引き受けたという経緯。

プロの「デスク」(編集のリーダーをこう呼ぶのがこの業界のならわしらしい)を中心に数名の学生記者が配置され、いくつかのチームが編成される。それぞれのチームは、デスクの指揮の下、学生記者たちが取材し、記事の企画を立てる。与えられた素材は、簡単にいえば、過疎の村での新たな村興しの取り組みを伝える架空の新聞記事だ。とはいえそこにはさらっとダム建設計画の復活についての言及があり、何やらもっと事情がありそうな気配。取材対象となるアクターは、村の振興課長、婦人会リーダー、謎のコンサルなど計10人。

実はこのシナリオには、「正解」となる真相は設定されていない。これがこのプログラムのミソで、「真実」がどこかにあるわけではなく、個々の参加者が自らの意思をもって行動する中で事実がどんどん生成され、状況が変化していく。だから、唯一の真相を求めて走り回ってもいい結果は得られない。視点を決め、ひとつの切り口でものごとのある断面を切り取る作業が必要だ。これは、現実の取材と同じ。それを学生記者たちに経験させたいという思いなんだろう。したがって、取材時間として許された3時間の間に、何について誰にどう聞けばいいのかを選択しつつ進めていくのが、学生記者たちと、彼らを指揮するデスクの皆さんの挑戦になるわけだ。

この中での私の役柄となった「駒東大学山口教授」は、ダム反対派に学問的な見地からお墨付きを与える行動をとった。「村」ではダム建設と、記事にも取り上げられた祭りなどの村興し事業を一体としてすすめる動きがあるわけだが、取材を進めていくと、これに対して環境保護の観点からダム建設を快く思わない人たちがいて、表立っては言わないものの不満を募らせ、独自にアートイベントを開こうとの動きもあることがわかってくる。こういう対立構図の中で、現地調査に来ていた「駒東大学山口教授」は後者の「反対派」に加担し、専門分野である「持続可能な地域開発」の観点からダム建設反対の論陣を張った。だから一見、その立場は明快だったようにみえたかもしれないが、実際にはそう単純なものではなかった。

もともとこの役柄には、他には明かされていない裏設定があった。「駒東大学山口教授」は「「この村にはダムをつくってもいいのでは」と思っているが(中略)言い出せず困っている」、というものだが、当初はまあそんなもんだろと思って、そのまま演じるつもりでいた。しかし、事前打ち合わせで、「村」の振興課長役を演じる東海大の河井先生と話をした際、そのダム推進の論理があまりに説得力があったので、アプローチを変えることにした。

河井「課長」の論理は、地域振興、というか地域存続のための手段としてダムを受け入れる、というものだった。下流地域の治水の必要性などりっぱなお題目を並べつつも、つきつめれば、他にこれといった産業も観光資源もなく、人口が高齢化していく村がコミュニティとして存続していくためには、ダム建設の受け入れによって獲得できる交付金や補助金等に頼るしかない、という切ない理屈だ。河井先生の演技は、過疎の村などに典型的なこの考え方を見事に再現していたのだが、こうした自治体がおかれた現実をふまえると、この主張への反論は難しい。実際、事前打ち合わせの際、「振興課長」と「反対派」村民との話し合いも行われたのだが、「課長」から説明を受けた「反対派」役のアクターは、誰も有効な反論ができなかった。

このままでは一方的になってしまう、なんとかしなければ、と思った。「ダム反対派」に近い立場を演じる以上、「味方」の劣勢を見過ごせなかったというのもあるが、同時に若干利己的な理由もある。あらかじめ設定された「真相」がなく、アクター自身の考えで行動できるとなれば、やはり自分の役柄の主張が大きく扱われて欲しいと思うのは人情だ。学生記者やデスクたちの間で取材競争があったのと同じように、アクター間でも一種の影響力競争のようなものがあった。少なくとも自分はそう感じていて、全体の設定に矛盾をきたさない範囲で独自に動いてやろうと思ったわけだ。

しかしもちろんそれだけではない。この「振興課長」の立場をもっと複合的にみる必要がある、と思った。おそらく、「課長」の直面するジレンマこそがこの問題の最も重要なポイントだからだ。この「村」のような自治体の立場では、自ら選択できる余地はほとんどなく、事実上、与えられた選択肢を受け入れるか受け入れないかしかないわけだが、たとえば県のレベル、国のレベルでは、その気になればもっといろいろやれることはあるはずだ。なぜ「ダムあり+環境破壊」と「ダムなし+コミュニティ崩壊」のいずれかを選択しなければならない状況になってしまっているのか、他の選択肢はないのか、「村」にとっての与件の中に実は変えられるものがあるのではないか。

こういうジレンマは、各地の自治体が直面しているはずの共通課題だろう。マスメディアではよく「開発か、環境か」みたいな二者択一の議論を見かけるような気がするが、本来、彼らの役割は、そういう表層的な対立を追いかけることよりも(それも大事ではあるが)、むしろこの「村」が直面するような問題の「構造」を掘り起こすことではないか。「裏設定」の中には、隣村には有力な観光資源である温泉がある話、「村」がかつてその隣村との合併を選択しなかった話などもあった。「課長」をていねいに取材していけば、そうした事実を掘り起こすことができるかもしれない。「公式見解」ではない「本音」的な部分聞き出すことができるかもしれない。そうすれば、「もうひとつの道」がみえてくるかもしれない。

そこには、私自身の考えも反映している。「持続可能性」ということばはしばしば「自然と共生」やら「環境重視」やらといった耳触りのいいキーワードといっしょに語られるから、ダム建設に関しては反対の方向でばかりみられがちだが、これは経済や財政の分野でも使われることばだ。こちらの領域では、お金が回らなくなるような状態は持続可能とは呼ばない。この「村」で行われようとしている村興しのイベントの類は、一般的には面白がられるかもしれないが、それで村がどうにかなるというほど大きな影響を与えることは少ないし、独立採算とまではいかないケースも多いから、単体で持続可能とはいいがたい。

この「村」がダムなしでは存続できないとすれば、ダムによって村は持続可能性を獲得することになるわけだが、一方国レベルではそうしたやり方、つまりコミュニティ維持のためにダムやら道路やらの(おそらくそれ自体の必要性はあまりない)公共事業に頼るやり方は持続可能性がないことがはっきりしつつある。となれば、問うべきは、村を現状のまま「持続」することが本当に最優先すべき課題なのか、仮に村の「持続」が必要としても、それならダム建設をその手段として使うのはまちがいではないかという議論ではなかろうか。ややタッチーな議論だから、メディアが扱うことは現実にはなかなか難しいのかもしれないが、こういうテーマこそ報道が取り組むべき課題だと思うし、今回のような「実験室」的な場ならやりやすいかもしれない。

というわけで、「駒東大学山口教授」としての私がやったことは基本的に2つ。議論のバランスをとるために、持続可能性の観点からダムに反対であるとのスタンスを明確に打ち出し主張することと、河井「課長」の主張の説得力を弱めるために、この種の案件によくある汚職の噂を流すことだ。取材に来た学生記者には、専門家の「教授」として、国土交通省の有識者会議での検討状況(これは本当にある)を示しながら、「3つの持続可能性」と名付けた怪しげな理論(こっちは口から出まかせ)を「講義」してみせ、ダム建設ではなくアートイベントこそ持続可能性の観点から望ましいと主張した。気付いた学生記者には、「たまたま」手元にあったあやしげな週刊誌記事を渡した。いってみれば、河井「課長」の現実をふまえた主張に対し、これもよくある「空中戦」で対抗しようとしたわけだ。

学生記者から、イベント成功の可能性や、それで村はよくなるのかといった質問を受けた際にはちょっと苦しかったが、「これだけでうまくいく保証はないが、大事なのは村民が自らの意思で立ち上がることだ」といういかにも正論ぽい煙幕を張って逃げた。もちろんある意味そのとおりだが、あきらかに論理のすりかえがあって、はっきりいって苦しい「逃げ」でしかない。とはいえ実際の報道でもよくみられる表現だから、プロのジャーナリストでも気づきにくのかもしれないが。少なくとも、ここにつっこんできた学生記者たちはいなかった。

結果からいえば、この策は当たった。というか、やや効きすぎたらしい。学生記者たちは、これこそが「真相」と思いこんだのかもしれない。談合疑惑を追及しようと河井「課長」のところに取材が殺到してメディアスクラム状態となったらしい。聞けば、私が渡したあやしげな週刊誌記事をふりかざして(つまり、いかにも信憑性が薄そうに書かれた週刊誌記事をまるごと信用してしまったわけだ)「汚職」を追及しようとしたり、ダム建設方針について「そんなことでいいのか」と問い詰めたりする学生記者もいたとか。なんとも既視感のある、メディアスクラムの典型例ではないか。

考えてみれば、無駄な公共事業や汚職の噂といった「山口教授」が流した情報は、メディアの方々がもっとも敏感に食いつく類のネタだった。もちろんその「反対側」としての環境やら持続可能性やらもおいしいキーワードなわけで、よくある地域興しネタにこれを加えればいかにもそれっぽい記事ができ上がるはずだ。私は最終的な結果を見ずにその場を離れたので、実際にどのような記事の企画が出たのか知らないが、取材のようすを見た限りでは、そういうアプローチのものがけっこうあったのではないかと想像する。もしそうなら、当然ながらそれは、私の意図するところとはちがう。いくつかのチームが汚職話にひっかかって暴走してくれればいいぐらいには思っていたが、もし多くのチームがこれに引きずられたのだとすれば、それは本意ではない。訓練プログラムならもっとわかりやすくすべきだ、やりすぎだ、という批判もあるかもしれないが、もしあれば甘んじて受ける。

とはいえ、プロのデスクが指揮していた以上、彼らにも考えてもらいたいと思うところはある。いかに時間が短かったとはいえ、取材にあたったのが学生記者だったとはいえ、やはりアジェンダセッティングはデスクの責任だろう。別に公共事業の無駄や汚職が重要なテーマではないとはいわないが、現状が現状のようになっているのにはそれなりの理由や経緯や(部分的かもしれないが)合理性があるわけで、「どこかに悪者がいる!糾弾しなければ!」だけではジャーナリストとしての責務を果たしたことにはならないのではないか。紋切り型の記事では、問題の解決にはつながらないのではないか。逆に、どこか1つでも、そうした「構造」にまで踏み込んでくれたグループがいたとしたら、私の狙いは成功した、といえる。

もちろん、デスクの皆さんの奮闘ぶりは、取材時間終了後に少し横で見ていたのでよくわかる。彼らの「苦悩」する姿こそが、学生記者の皆さんにとって最良の手本だったはずだ。通り一遍に陥らない慎重さとより深く掘り下げようというしつこさを、ジャーナリストの皆さんには持っていてもらいたい。あと、失敗にくじけない強さや、失敗から学ぶしたたかさも。学生記者の皆さんが、こういう機会を早いうちに持てたのは、やはりいいことだったのではないかと思う。実際に職業ジャーナリストになる方ばかりではないだろうが、期待している。

以上、「駒東大学山口教授」の反省半分、期待半分の弁。

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