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November 12, 2010

「流出ビデオ」の対立軸

尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件に関するビデオ流出事件については、いろいろな意見があるらしい。「識者」の皆さんがあちこちでコメントやら議論やらしておられるのでそれを見比べるのは勉強になるが、じゃあ自分ならどう考えるかね?と問いかけてみるのも悪くないと思って、ちょっとだけ考えてみた。

といいつつ無駄に長いのはいつもどおりの芸風。

この件でまず思うのは、この件が、いくつもの意味で、異なる価値、異なる考え方同士の接点にあるということだ。その中には古いものも新しいものもあるが、ともあれ分けて考えられることの多い、あるいは相反する考え方がとられうる領域で、それらがぶつかったり摩擦を起こしていたりする問題だといえる。多くの場合、それぞれの立場にそれぞれの価値があり、正当性がある。答えなんて1つしかない、と最初から決めてかかってる人がいるかもしれないが、どの立場(折衷案も含め)をとるにせよ、そうした構造であることははっきり意識しておくべきかと思う。

じゃあ、どんな対立軸があるか。例によって3つぐらい考えてみた。


1 国益と公益

たとえば、国益と公益という対立軸。これらのことばがどのくらいちがうのかはいろいろ意見があるだろうが、少なくとも、国や国家、あるいはもっと狭く国家権力や権力者にとっての利益(要するに統治機構みたいな側面に注目する)と、国内、場合によっては国外の人々を含む「公」の利益(つまり人々に注目する)が常に完全に一致するということはなかろうから、対立点としてもいいのではないかと思う。

今回流出したビデオが国家機密に値するものなのかについては正直疑問の余地がある(見たところ映像の内容は予想の範囲内であって、これを非公開とした理由は理解できない。さっさと公開しておけばよかったのにと思う)が、それはそれとして政府が非公開と決めたものである以上、それを守ること自体には、それなりの国益がある。仮にそれが、非公開を決めた政府首脳のメンツを守るなんてことしかないとしても、政府のやることにある程度の信頼が置かれること、組織としての秩序が守られることは重要だ。

しかし流出容疑の海上保安官は、容疑内容が報道されているようなものであったとすれば(この書き方めんどくさいので以下省略)、そのビデオを公開するほうが、国民の知る権利という公益にかなうと判断したんだろう。公開を望んでいた国民が多数派かどうかは知らないがけっこういただろうし。ただ、逆にいえば、政府が非公開を決めた後で、上記のようないくばくかの「国益」を侵してまで漏洩すべき正当性があったかどうかにも議論の余地があるように思う。どんな映像であったかは、非公開の場で見た国会議員たちから既に語られていたわけだし。個人的には、事件からだいぶたって、その間すでにさまざまな情報がでてしまっている状況では、ここでいう「公益」は当初段階と比べてだいぶ小さくなっているような気がするが、それでも「国益」より若干大きいのではないか、ぐらいの印象。


2 公務員の責務と個人の良心

次。このことを、流出させた個人のレベルでみると、公務員としての責務と個人としての良心という、似てるが少しずれた対立軸がある。そもそも公務員である以上、法令に従って職務を遂行する責務があるわけで、個人の考えで勝手に動かれては困るのは当然だ。しかし組織がまちがったことをしていると考えられるときまで、それに必ず従わなければならないというまでではない。そのあたりの考え方は、たとえば公益通報者保護法みたいな法律にもあらわれている。今回のケースはどうも法的な意味での公益通報にはあたらないっぽいが、同様の精神からして情状酌量の余地があるんじゃないか、衝突事件を起こした中国人船長が処分保留のまま釈放されたこととのバランスという観点でも処罰は控えるべきではないか、という考え方だ。こういう声はメディアが伝える「街の声」にもよくあるようにみえるからそれを信じると、世論に近い意見なのかもしれない。

しかし一方で、現場の公務員がこうやって組織の命に反する行動をどんどんとりはじめたら、組織としてのたががはずれてしまうではないか、という懸念もあるのは事実。この懸念は、当該個人がどのような職務であるかにも依存する。今回のケースで重要なのは、流出者が国家権力、なかでも警察や検察、あるいは自衛隊なんかと同様、「実力」行使の部分を担う公務員だったということだ。この分野の映像を漏洩すること自体の政治的なインパクトもさることながら、「文」と「武」でいえば「武」の側に近い職務の公務員が組織の命に背いて勝手に動いたことに対して、私たちはもっと恐れるべきだと思う。正義やら義憤やらのためにやったんだから容認すべきではないかという議論はここでは成り立たない。そうした一見正しいと思われるもののために起きる権力の暴走こそ、現代の民主主義が最も警戒すべき対象だからだ。私の意見は、この点に関してはかなり明確に後者。もちろん、だからこそ彼らを指揮する政府の責任は重大なわけで、その意味で今回の政府の一連の対処は、少なくとも国を統べるという観点では相当よろしくない。


3 マスメディアとネット

3つめの対立軸は、マスメディアとネット。今回のビデオがマスメディアでなくネットで公開されたことに関しても、さまざまな話題を呼んでいる。実際のところ、読売の記者が早い段階から接触していたようだから、漏洩者自身が自分の意思でネットを最初の公開先に選んだのかどうかはわからないが、ともあれネットが最初の公開先であったのは事実であり、かつマスメディアが動く前に拡散するよう夜公開されたことも考えれば、情報拡散の場としてのネットの価値が「存分」に生かされたかたちとなったとはいえる。どこかのテレビで、「これまでマスメディアを介することで情報の正確性がある程度担保されてきたのに」といったコメントがあったが、今や逆に、マスメディアを介すると情報が歪曲されてしまうという懸念の方が強くなった、というでもあるんだろう。ネットで直接、未編集の情報を出すことが(実際には当然最低限の編集はなされていたわけだが)、情報の信ぴょう性の観点からは価値の高いものとされた。いろいろな意味で役割の「交代」を意識させるできごとではあったわけだ。マスメディア嫌いの人にとっては、ある種溜飲を下げるできごとだったろう。

しかしここで私たちは、マスメディアが果たしてきた役割について、もう一度考えなおしてみる必要がある。基本的に情報を伝えたい人から受け取りたい人へと伝えるのがメディアの機能だとして、それを大規模に効率よく行うのをマスメディアなわけだが、単にそれだけではない。社会のあちこちにちらばっている情報のどれを集め、どのように構成し、どれを伝えどれを伝えないかという判断をすることは、単にマスメディアが伝えられる情報量のキャパシティによる制約や企業としての営利追求という領域を超えて、社会にとって一種のインフラとしての役割を担っている。今ではすっかり使われなくなったことばを使えば「木鐸」機能とでもいおうか。

それからもうひとつ忘れちゃいけないのが、情報源の秘匿だ。権力を監視するという機能を果たすためには、情報を抑えこもうとする権力者から情報源を守らなければならない。そのためにマスメディアはときには訴訟リスクを抱え、あるいは身内から逮捕者を出してでも、このルールを守ろうとしてきたはずだ。公表によって情報提供者が負うべきリスクは、ここで遮断される。このリスクを自らかぶる「覚悟」は、出すべき情報を自ら判断するという「特権」と表裏一体になっている。

これまでマスメディアが担ってきた、こうした情報の収集・フィルタリング・裏付け機能とリスク負担機能は、少なくとも現在の、多くのネットサービスではほとんど期待できない(最近話題のWikileaksは、情報源を秘匿するようになっているし、伝えられるところでは、公開すべき情報を選択しているらしいから、例外かもしれない。当然、その裏側で訴追のリスクを抱えることになる)。

フィルタリングが行われないことは、情報公開によって実現が期待される「公益」の大きさに疑問符がつく可能性を示唆する。誤報である場合、悪意による誹謗中傷である場合なんかが混じってくることは避けられない。例の「嘘を嘘と」という話になるわけだが、ネットの影響力の増大は、こうした「リテラシー」をもたない人々にまで、ネット発の情報が届く状況を作り出した。「被害」が生じる場合、それが大きくなりがちということだ。

「自由」は単なる「好き放題」ではない。マスメディアによる「恣意的」なフィルタリングを受けない代わり、情報公開に伴なって生じうる責任の多くを、提供者は自ら負わなければならない。現在のインターネットは、一般的にいわれている以上に、あるいは郵便のような従来型メディアと比べて、匿名性の低いしくみだし、技術の進歩やら法制度の整備なんかもあるから、少なくともマスメディアが提供してくれる「情報源の秘匿」と比べればはるかに高リスクとみることができよう。

情報発信によって負う責任が、個人で負いきれる範囲を超える場合だってある。今回のケースで情報提供者の訴追に反対する人たちも、もし同様のネット流出が、たとえば少し前に韓国で女優が自殺したケースのように、誤った情報(あれが誤った情報かどうか実は知らないが、まあそうだとして)を広めることによって、関係者の自殺を引き起こしたり社会的名声を奪うようなものだったとしたら、あるいはもっと極端に、まったくの誤報や誹謗中傷が暴動や企業倒産、国際紛争なんかを引き起こして多額の損害や多数の死者が出たなんてケースだったとしたら、擁護できかねるのではないだろうか。問題は、「公益性」の判断が発信者個人に任されていて、その個人の「リテラシー」の水準がさまざまでありうるということだ。もちろんマスメディアがこの種のまちがいを犯さないわけではないが、少なくともリスクは比較的小さかろうぐらいの期待はできる。

こういう状況があると、やれネットの時代だマスメディアは滅びるのだとか、逆にネットは危険だ規制強化すべきだとか、つい優劣の比較みたいな議論になりがちで、それが無価値というわけじゃないが、そこでとどまっていてもしかたがない。両者は重なる機能をもつがちがうものであり、どちらも社会にとって重要なものだからだ。最大のちがいは、上に挙げたような機能とかではなく、ネットがまだ新しくて、個人のレベルではともかく社会のレベルではまだその使い方に習熟しているとはいえない、という点だろう。マスメディアは、曲りなりにもここ数十年現在と近いかたちで存在していて、人も社会も付き合い方に慣れており、制度もそれを前提にして作られているが、ネットはまだそこまでいっていない。

ネットは「不可侵の理想郷」でもなければ「社会の良心」でもなく、また「危険なおもちゃ」とか「悪の温床」でもない。ただのツールだ。それはマスメディアが社会にとってのツールであるのと同じ意味であって、ちがうツールである以上使い方がちがうのも当然。私たちは個人として、職業人として、あるいは組織や社会全体として、それに習熟していかなければならない。

その中には、マスメディアがネット情報をどう取り扱うかについての習熟も含まれよう。今回の事件でマスメディアは、映像の流出自体を「事件」として扱った。しかしもしこれがネットではなくマスメディアに持ち込まれそこから報道されていたとしたら、「事件」ではなく、「スクープ」と呼ばれていたはずだ。これは明らかにダブルスタンダードだ。マスメディアの皆さんには、もし自社に映像が持ち込まれていたらどうしたかをぜひ示してもらいたい。まあ、その後当該映像を繰り返し繰り返ししつこく報道に使っているところをみると、もし彼らが最初に映像を得ていたら大スクープとして報道していたんだろうが、もしそうなら、この映像流出には公益性があると認めることになろう。ならば、今回の「事件」について、情報提供者を擁護する論陣を張らないのはなぜだろうか。機能が重複する部分では、同じ基準で考えていく必要があるのではないか。

こうしてみてくると、今回の一件は、政府も、流出させた海上保安官も、それを伝えたマスメディアも、やるべきことをやらずあるいはやるべきでないことをやったという印象を受けてしまう。こうした混乱状況自体が国益を損なうという部分もあろう。ただ、課題がよく見えるかたちで示されたことを公益にかなったとみることがかろうじてできるかもしれない。というか、もう起きてしまったことはどうしようもないわけだし、今後はこれをいかに国益なり公益なりにつなげていくかを考えるのがよろしかろうと思う。

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Comments

今回の事件を時系列的に整理すると、以下の判断過ちの順になると思う。

1)船長逮捕(国際政治上の判断ミス)
 両国間で非常にセンシティブな領域での逮捕によってもたらす両国間の影響の先読みがなかったとしたら、国際政治上の判断がされなかったという意味でミス。

2)船長釈放(国内政治上の判断ミス)
 中国側の強硬な反応に怯えをなしてか、本来は政府関与のもとで判断すべき釈放を、表面上地方検察の判断にすり替えたことで日本国民の政府に対する信頼を失ったという意味でミス。

3)ビデオ非公開方針(政府内の判断ミス)
 本来は船長逮捕の理由を国民に説明する意味から早い段階で公開すべきだったものを、国民に対して明確な説明なきまま非公開とし、かつ一部の特権階級的な政治家にのみ公開したという国民感情に対する配慮不足のミス。

4)情報管理不徹底(海上保安庁の管理ミス)
 国交省大臣の情報管理徹底の指示云々とは別に、今回のセンシティブな海域での映像を通常の海難訓練の映像と同様な感覚で扱ったことに対する1)に述べた国際政治感覚のなさと、その結果としての情報管理不徹底のミス。

5)マスコミ報道(法治国家でのルール判断のミス)
 問題の本質は上記の1)から4)であるにも関わらず、直近の議論が結果の是非は別にせよ、一公務員の個人的な判断による『ルールを無視した』国際政治への危険な干渉行為であったことの強調不足のミス。

いずれにせよ、今回事態がここまで来たのは様々な要因があり、各部門毎の反省&教訓材料満載ですが、私は1)の段階で船長を逮捕せず(あるいは逮捕しても1日程度で)中国に強制送還するという国際政治上の知恵が政府およぶ現場になかったことが最大の問題と思います。

[民間企業 会社員 管理職]


 

Posted by: 風林火山 | November 14, 2010 12:57 PM

この「流出ビデオの対立軸」は問題点、論点が良く整理されている。公平な論評であると思う。
個人としては、何処かに属さないといけないので、この論評のようには行かないが、政府当局の対応の稚拙さ、思想哲学の無さが露呈したものと受け止めてて居る。国民の意向や、要望を全く聞かない政府の強権政治は反感を買うだけで、どのような理由を掲げようと反民主主義と断定している。メデア、プレス、報道関係も政府を批判せず、権力に迎合しており、これも大問題だ。

Posted by: 藤森義典 | November 17, 2010 09:03 PM

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