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暴論:国民皆教制を導入すべきである

確かめたわけじゃないが、世間には、学校教員は社会経験がないから非常識で世間知らずで、だから日本の教育はだめなんだみたいな議論をする人がけっこういるらしい。少なくとも、文科省はだいぶ前から「教員の長期社会体験研修」なんてものをやってるし、ちょっと前にやってた「熟議カケアイ」でもこれはけっこう大きな話題になってた。あと、全然根拠にはならないが、こちらのページによると、「某太田総理を見ていたら「社会経験を10年以上積んだ奴だけが教師になれる法案」というのをやっていた」とあるから、まあ世間的に共感を呼ぶ主張、ということになるんだろう。

以下はそういう前提で、思考実験的にある意味極端な暴論をぶってみようという話なので、まあその程度に受け取っていただけると助かる。タイトルに「暴論」とあるのはそういう意味なので、実現性がとかそういう話をされても困る。

要するに、教員に社会経験を積ませるべきだみたいな議論に対して、逆を主張してみようということだ。教員を社会に送り出すんじゃなくて、社会の側から学校現場に人を送り込んだらどうかという話。しかも一部じゃなくて、全員。で、国民皆兵ならぬ「国民皆教制」とでも仮に名付けてみる。

想像するに、「教員に社会経験を積ませよう」みたいな考え方のステレオタイプというのは、ざっくりいってこういう感じだろうか。

(1)学校教員は、勉強ばっかり得意だが、学校という狭い世界だけに閉じこもっていて外の「実社会」を知らず、人に頭を下げる経験もしてないから、社会常識がない。
(2)そういう社会常識のない教員は、生徒・学生をきちんと教え育てる能力、保護者と適切にコミュニケーションをとる能力に欠ける。
(3)日本の教育問題は教員がこうした劣悪な資質の者ばかりであることに起因する。
(4)一方、学校外の「実社会」で経験を積んだ「社会人」は、視野も幅広く、コミュニケーション能力も高い。
(5)すなわち、「社会経験」には、人の視野を広げ、コミュニケーション能力を向上させる効果があると考えられる。
(6)したがって、教員に「社会経験」を積ませることで、同様の効果を期待することができるかもしれない。
(7)ただ、もともと資質の欠ける者が教員になっている可能性もあるから、教員になりたい者にはまず「社会経験」を積むことを求め、そこで一定の能力を示した者のみを採用する方がよいかもしれない。

他にもあるかもしれないがまあこんなところで。もちろん個人的にこういう主張に納得してるわけじゃない。で、代わりに「国民皆教制」なる暴論を主張する理由を、例によって3つ。

その1。教育の場は人材も予算も足りてない。教員を研修に送り出すということはその分穴があくわけだが、人や予算は現状でも不足してる。一部に不届きな者がいるのは民間企業でも官公庁でもどの世界でも当たり前のことで、それに対しては、そいつらを排除しろとかちゃんと管理しろとかって話になるのがふつうかと思うが、それが教育をめぐる問題の主要なものとして取り上げられてみんなで侃々諤々やってるということは、そもそも上記の主張が、問題があるのは教員の一部じゃなくて全員、もしくはそれに近い相当数である、という認識に基づいていることになるかと思う。それに、一部の教員を毎年長期社会体験研修に出す取り組みはけっこうやってるのに効果は上がってないっていう認識なんだろうから、そうなるともっともっと大規模に、という流れであるはずだ。となると、そんな多数を研修に出すことなんて無理だろうから、逆方向のアプローチが必要なのではないか。教育の場から教員を引き剥がす方向じゃなくて、むしろ教員となるべき人をもっと送り込む方向で考えるべきではないか、となる。

その2。むしろ教育の現場を皆が知るべき。教員が「実社会」を知らないから問題だというわけだが、ならば教育が実際に行われている場を知らないで教育を批判するのはおかしい。「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ」という映画があったが、実際のところ、事件は会議室でも起きるのであって、会議室もまた「現場」の一類型だ。その意味でいうなら、教育現場もまた「実社会」の一部。私たちは皆、「実社会」の一部を知っているにすぎない。子供を持つ親だって、教育現場について知っているのは自分と接点のある部分だけであって、その全体像を知っているわけじゃない。知りたければ、つまり語りたければ、実際に「現場」に行ってみるのが一番だろう。「一部可視化」であるところの授業参観などで教育のことがわかろうはずがない。教える側に立って、1コマ数十分しゃべるために教員がどのくらい準備しなければならないかや、教育以外のこまごました事務がどれくらいの負担になってるのかとかも知るべきだろう。言うことをまったく聞かない子供やモンスターペアレントの対応もぜひやっていただこう。「実社会」で豊富な経験を積んだ外部の方なら何なく対応できるだろうし。「お上」からのあれやこれやの無理難題ともぜひ格闘していただきたいところ。

その3。みんなで教えることに意義がある。今はどうも、教育というと教員がやること、みたいに考える風潮があるようだが、そういう考え方こそ、今改めなければならないのではないか。家庭教育の重要さはいうまでもないが、かつてあった、たとえば近所の大人たちからもいろいろ教えてもらったりするような、社会全体で教えていくしくみを、現代社会に適合するように修正して取り入れることはできないか。社会には、さまざまな分野の専門家の方々がいらっしゃるわけで、たとえば情報技術のことを教えるなら、パソコンもまともに使えない教師よりも、その道のプロの方の方がはるかに適任だろう。その他、生徒や学生が学ばなければならない幅広い知識を、それを持った人が集まって教えてあげればいい。勉強を教えるなんて無理という人だって、給食でも清掃でも、スポーツの指導でも調理実習の補助でも、いろいろできることはあるはず。当然、すべてボランティアだ。もともと予算がないんだし、みんなで分担するなら1人あたりの負担は軽かろう。何より、社会全体で次世代の育成に取り組むのだ、という姿勢が今求められているのではないか。教育問題がこれほど盛り上がるのは、ある意味誰でも口を出せる領域だからであろう。ならば、口だけでなく手も出したらどう?というシンプルな話だ。

この暴論で本当にいいたいことは何かについては、あえてここでは書かないが、わかる方はわかるんじゃないかと思う。ま、しょせん「太田総理」の「社会経験を10年以上積んだ奴だけが教師になれる法案」と変わらない机上の空論だが、あれよりははるかにましな案なんじゃないかと個人的には考えている。ともあれ、こういう与太話は早々に切り上げとこう。おあとがよろしいようで。



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Comments

私も賛成します。コミュニケーションの基礎は幼児教育が最も大切なので、幼稚園教諭と小学校教諭から社会人教員制度を始めると良いと思います。
みんなで一年ずつ担任をやってみると良いのではないかと思います。

学校教育のおもしろいところは「だれでも専業の教員よりもすばらしい一時間の授業ができる」というところで、これを見誤ると子供たちにあまり良いことにはなりません。
教員の専門性は小学校なら6年間を見通してアベレージで教える専門性をもっているということです。

大学院を出ているから良い先生とかそういうことは絶対にありません(そうなら、私は日本で一番良い先生群に属していることになってしまいます)子供たちも学歴で先生を比較したりはしないのです。

Posted by: Amygdalus | January 02, 2011 at 03:53 PM

>教える側に立って、1コマ数十分しゃべるために教員がどのくらい準備しなければならないかや、教育以外のこまごました事務がどれくらいの負担になってるのかとかも知るべきだろう

この部分だけ賛同します
教育の問題が解決できないのは、教育のどの部分が問題かわかっていないからだと思います。

あとの部分は申し訳ないですがどれをとっても賛同しかねます。
例えば「~~のほうがはるかに~~」という言い方
根拠がないですよね
この文章には「~~だから」というのが抜けているので全然しっくりこない

あとわざわざ何を言いたいか書かないのは何かを伝えたい気持ちがないのでしょうか。

Posted by: tarou | January 03, 2011 at 01:29 AM

大変考えさせられるお話です。
同時に、コメント欄の皆さんのご意見(賛成・反対とも)にも唸らせられました。

私は、どちらかと言えば賛成に属します。
体制上の脇の甘さはあれど本来教員の活動の専門性はきわめて高く、近年若く熱心な教員が厳しい訓練を経て輩出されて来ており、また多くの教員が精魂込めて生徒と向き合っている、と感じるからです。
その一端でも、生徒のご両親や、社会に出て教育を横目で眺めつつ暮らす人々に理解してもらいたいと思う次第です。

「教育」は、実は門外漢が大変口を挟み易い分野です。
教員たちの体系的な取り組みに対しては、それを理解するしないに関わらず破壊的な関与すら容易です。(それは戦後から近年に至るまで、行政から一般から、繰り返されてきました。)

現場の活動・教育実践において教員たちは、様々に議論・研究される教育学の方法に即し、子供たちを「成長」させようとしています。
残念ながら、その研究に熱心な教員に対し、左翼だ何だと人々が攻撃を加えることがあります。教育学の長年の成果に、人々は興味を示さないか誤解を持っているような気がしてなりません。

大昔、大学の教官(専門はデューイ,教育実践,他)に、「高校~大学教養課程の必修単位に教育学を。最低限、発達・児童心理・青年心理を入れるべき。」という主張を含んだ議論をふっかけたことがあります。
自己における異物「他者」を理解し、自己の領域を拡げ、また或いは自己を見つめなおすために、これほど適した学問(総合文芸)は無いと思ったからです。
議論自体は準備もろくに無く論旨の張り方も拙くて、軽くあしらわれてしまいましたが、実は今でも同じ考えでおります。
これは、御説についての私なりの追加提案です。

ああすいません、思い出が次から次へと湧き出てしまいまして・・・
長々と失礼いたしました。
それでは。

Posted by: 黒 | January 04, 2011 at 12:23 AM

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