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March 19, 2011

地震で「働かないアリ」を思い出したので

長谷川英祐著「働かないアリに意義がある」メディアファクトリー新書、2010年。

売れてるそうなので読んだ方も多いと思うが、社会性昆虫の研究者による一般向けの本。しばらく前に読んだのだが、地震の後ちょっと思い出すことがあったので。

アリやハチなどの真社会性生物の習性が面白いという話は比較的よく知られていると思う。中でもよく聞くのは、「働きアリの2割は働いていない」っていう話だ。で、その2割の働かないアリを群れから取り除くと、また残ったアリのうち2割が働かなくなる、といった話が続く。よく働く奴とふつうの奴と働かない奴で2:6:2だ、という話も聞いた。とはいえ、実際に目にするものは専門家じゃない人が伝聞で書いてるものが多くて、いまいちあてにしにくいな、と思っていた。(以下の文章もまさしく「専門家じゃない人」である私が本を読んで書いてる話なので、関心のある方はぜひ本書で確かめていただきたい。)

本書は、その真社会性生物の研究者によるものなので、その点はばっちりなわけだ。真社会性生物は、別に昆虫に限られない。ネズミとかエビとか粘菌とかにもそういう性質を持つものがあるらしい。この種の生物は、ふつうの生物のように自分の遺伝子を残す確率を高める戦略をとるのではなく、一部の(しばしば大多数の)個体は自らの子孫を残そうとしないし、さまざまな局面で見事な連携プレーを見せる。そうした「協力」関係がどうして発生するのか、どういうしくみで協力がなりたつのか、というあたりが研究者として面白いらしいが、もちろんこれは、素人目に見ても相当面白い。

特に、組織とか集団とかのマネジメントをふだんから考えている人にとっては、「!」を連発したくなるほどだろう。もちろんアリと人間はさまざまな面で大きくちがうわけだが、そこで働いているメカニズムには、種を超えて共通する要素がある。著者はこの点を意識して書いてくれているので、考える材料には事欠かない。

あちこち面白くて面白くて叫びたくなるくらいで、逐次挙げていくと全文丸写しになりかねないので、ブログにも書きづらかったのだが、今回の東日本大震災、というかその後に発生した状況を見ているうちに、この本のことを思い出したので、その関連で特に興味深かった点だけ書いておくことにする。

それは、この本のタイトルにもなっているが、「働かないアリ」が出てくるしくみと、そのことが集団にとって持つ意味だ。そもそも例の「2割のアリは働かない」という話だが、あれは、「約2割のアリは一生働かない」ということらしい。ある瞬間でみると、働いているのは全体の3割ほどで、残り7割は休んでいるのだ、と。アリというと働き者のイメージがあるが、私たちが見ているのは地上に出てきて働いているアリであって、巣の中には働いていないアリがもっとたくさんいるというわけだ。で、アリを個体ごとに(!)観察していくと、2割のアリは一生労働らしきことをしないまま過ごす、と。

私たちはつい「働かない」というと意欲とか機会とか、能力とか公平とか、人間の社会に引き寄せて考えてしまいがちなわけだが、アリの世界にはそんな理屈はもちろん通用しない。ある個体がある仕事をするかしないかは、ある時点での分業や協業の結果でしかない。もとより厳しい生存競争にさらされている彼らにとっては、あるやり方がその個体、そのコロニー、その種全体の生存や存続の確率を高めるかどうかだけが重要であるわけだ。もちろん、彼ら自身がそう考えているというわけではなくて、自然淘汰の結果そういう性質を持つようになったということ。つまりここで重要なのは、それが「勝ち残ったシステム」ということだ。

そして、観察していると、実際アリたちは集団の中で見事な分業と協業をしてみせるわけだが、別に誰かが司令塔になって指揮しているわけではないらしい。接触刺激とフェロモンによる最低限のコミュニケーションはあって、先を行くアリを触覚で触りながらついていったり、他のアリが残したフェロモンを道しるべにエサまでたどりついたりはするのだが、基本的には局所的に、その場その場の状況に応じて、プログラムされた習性と、小さな脳で学習した知識とに基づいて行動しているのだ、と。

で、これを成り立たせているのが個体差である、というのが、私が本書で最も面白く感じた点だ。ある刺激、ある情報に対してどのくらい敏感に反応するかは、個体によって差がある。より敏感な個体はより小さな刺激で早めに反応し、鈍感な個体はなかなか反応しない。したがって、その場でやるべき仕事が少なければ、敏感な個体だけが反応し、仕事がたくさんあれば、より鈍感な個体も含めた多くが反応する、というかたちで、作業にあたる個体の数が調整される。こういうのを「反応閾値モデル」と呼ぶらしい。

巣の中で働いていないアリは、怠けているのではなく、動作が遅いゆえに仕事にありつけないだけだ。それが続けば、一生をそうして過ごすことになるのだろう。人間だといろいろめんどくさい議論が巻き起こるところだろうが、アリは公平とか自己実現とか考えたりはしないから、働いていても、働いていなくても、幸せでも不幸でもない。

仕事をしたくなくてしていないわけではないから、結果として彼らは、突発的に生じるかもしれない仕事に備えて「待機」している状態であるわけだ。だから、刺激が大きくなって、つまりそのそこで仕事をする必要が高まってくれば、自然と働き始めることになる。複数のやるべき仕事があれば、そのうち刺激の強いほう、つまり必要度の高い方にとりかかる。

また、ミスをする個体にも価値がある。エサを見つけたアリは、接触刺激やフェロモンを使って、他のアリをそこへ誘導するわけだが、中には道をまちがうドジなアリがいる。しかしそうしたドジなアリがより効率的にエサまでたどりつけるルートを発見したりすることもあって、全体としては、そうしたアリが一部いたほうが、エサをうまく集められるらしい。

こうした多様性は、集団としての存続可能性を高める。皆が同時に反応するようなコロニーは、単位時間当たりの労働量が大きく、効率がいいが、同じタイミングで疲労して休んでしまうので、たとえば卵の世話をするといった、ずっとやり続けなければならない仕事があると、長く存続できないということを、著者らはコンピュータシミュレーションで導き出した。一見非効率とみえるムダを内包した集団の方が安定している、というわけだ。

ここから先は、自分の感想。

組織の「ムダ」の効用というのは、割とその界隈の人たちには広く知られている。この本に出てないだけなのか研究がなされていないのか素人なので知らないが、少なくとも経営学の分野で「ムダ」の価値が高まるときといえば、典型的に思い浮かべるのは、環境の不確実性が高い場合だ。上の例でいえば、対処すべき新たな事態がどんどん出現する状態、ということになろうか。そうした場合、手が空いててすぐ動ける個体がいることは、集団としての事態への対処能力を高める。もちろんアリは人間と比べてはるかに脳が小さいしシンプルなことしかできないわけだが、人間にとって人間の置かれた環境が充分複雑であるのと同じように、アリにとってアリの置かれた環境は充分複雑なのだろうから、似たようなことはいえるのではないかと想像する。

アリと人間が同じだといいたいのではない。しかし直面している問題の構造がほぼ同じであれば、アリの研究から得られる知見にも、人間にとって役立つ原理が含まれているかもしれない、というぐらいはいえるのではないか。あ、「働かないアリに意義がある」からといってニートにも、とかそういう安直なことをいうつもりはないので念のため。それはまた別の要素がある。いいたいのは、もう少し抽象的なことだ。

アリも人間も、誰かの指示ですべて決まるのではなく、個々の主体が現場で判断し動くことが求められる程度には複雑で不確実性の高い環境で生きていかなけれなならない。全員が均質で、まったく同じ行動パターンしかとれないと、全員が同じまちがいを犯すおそれがあり、結果として集団を大きな危険にさらすことになってしまう。同じような反応閾値モデルがあてはまるとされるミツバチは、巣の中の温度が高くなるとハチたちが羽ばたいて空気を入れ替える習性があるが、反応閾値が似た個体だけを集めるときめ細かい温度調節ができない、という研究もあるらしい。同質性が高い集団では、刺激への反応が極端になってしまいがち、ということか。

一方、多様な個性が混在し、一定水準のムダを許容するようになっていると、非効率が生じるという欠点はある。しかし、全員が一度にまちがったり、一度に動けなくなったりするリスクを減らすことができ、結果として集団全体の生存可能性を高めることができる。

もちろん、すべてがまったくばらばらの自分勝手でいいというものでもない。全員が従わなければならない共通のルールは当然あるはずだ。アリならそれは遺伝子に組み込まれた習性などであろうし、人間ならそこに一定レベルの教育や、社会や制度が要求するルールなども含まれるだろう。なんでもそうだが、要はバランスなのだ。そして、少なくとも人間の社会では、そのバランスも時によって変わっていくはずだから、常に調整を続けていかなければならないのも当然。

もともと日本は、集団内の同調圧力が強い文化の国だ。今ふうにいえば「空気」だろうか。当然、それに対抗して自己主張したり個性を認めようとしたりする動きもあって(あるいは最近は「個性を持たなきゃ」という同調圧力もあったりするのでややこしいがそれはおいといて)、いろいろせめぎあいがあるわけだが、何か大きなできごとがあると、それが一気にひとつの方向へ向いやすくなる。

今だとそれは、「自粛」ムードであったり、「不謹慎糾弾」ブームであったり、あるいは「沈痛な表情」競争であったり「全国民一丸となって復興がんばろう」大会であったりするだろうか。もちろんそういう気分になって当然という状況の方がたくさんいらっしゃって、そういう方をどうこういうものではもとよりない。現在はどうみても特殊な状況である以上ある程度は当然だし、そもそも同調圧力は別に日本に限った話でもないし。

ただ、この本を読んだことを思い出したのは、今こそ私たちは、多様性の力をより明示的に意識することが必要なのではないか、と思ったからだ。さまざまな立場の人がいて、いろいろな考え方がある。やり方はたくさんあるし、目的すら1つではない。「たくさんの人が苦しんだり悲しんだりする状況から脱したい」という点では最低限合意できるとしても、そのためにどうするかにはいろいろな道があるはずだ。皆で力を合わせなければならないことについては同意するが、ではちがう考え方をする人の足をひっぱっていいのかという点に関しては、少しだけ慎重でありたい。

かつて本田宗一郎が通商産業省の意向(つまり国策だ)に屈していたら、今世界第7位の自動車メーカーは存在しなかったかもしれない。今被災地の物流を支える物流業界の雄はたびたび事業拡大のため運輸省(それは業界の声を少なからず反映していた)と衝突を繰り返した。いわゆる「クール・ジャパン」の基礎となったのは、社会の良識派が「俗悪」として嫌悪し、たびたび糾弾した人たちだ。同じようなことが、今どこかで起きているのかもしれない。今批判されたり嫌悪されたりしている人たちが、実は今後社会をよくするためのカギを握っているかもしれない。一見ムダな「働かないアリ」に意義があるように、一見社会にとって有害にみえる考え方にも「意義」があるかもしれない。そういう発想を、少なくとも頭の片隅には置いておいたほうがいいのではないか、と思う。

批判をするな、とまでは思わない。意見を持つのは当然だし、議論はしたほうがいい。ただ、多数が正しいとは限らないよ、ということは意識しておいたほうがいいと思う。少なくとも、社会の方針決定に関与している人たち、社会をリードする立場にある人たちは、明示的に意識しておくべきではないだろうか。


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Comments

私は社会心理学や、著作「みんなの意見は案外正しい」との関連で、この内容について考えたことがあります。

よく会社の中で、フリーライダーが云々されたりする事がありますが、私自身は多様性の保持が、その組織の延命性を伸ばす観点から、安易なフリーライダー論には懐疑的です。(ただし、権益保持のための高額給与者、いわゆる天下り官僚的な存在は、自己保持の傾向が強すぎて、社会には害だとは思っていますが。)

ネズミのえさ取りにも、働かないアリのようなネズミが出てきます。人間集団も一生かどうかは別として、そういう存在が実験等でも出現しますね。

Posted by: luckdragon2009 | March 22, 2011 06:53 AM

働かない蟻の原理が閾値の差だというのは初耳でした。

AppleだったかGoogleだったか忘れましたが、実用を考慮しない独創的な活動をするための時間をあえて職務に取り入れることで、新しい視点を探す役に立てているそうですね。
非常に有用な取り組みだとは思いますが、こういった活動を行うためには資本や経営に余裕がなくてはリソースを割くこともできません。
特に日本ではおっしゃる通り、同調圧力が高く、全員前倣えの姿勢で労働するために、同業他社との競争が一層激しい社会となって、短期的に無駄となる戦略を取りにくいのが実情でしょう。
教育の必要な技術を伸ばすか、新たな分野を築く独創性を求めるか、選択するのは簡単なことではないですね。

Posted by: Niname | April 22, 2011 06:51 PM

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