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暴論:デマの「根絶」をめざしてはいけない7つの理由

たまにやる「暴論」シリーズ。シノドス・ジャーナルに書いた、風評被害問題とリスクコミュニケーションについてちょっとした(つまり妙に長い)文章のおまけみたいなもの。ちょっと「大胆」なのであちらにはちょっと書きづらかったあたりをこっちで。

震災以降いろいろなデマが出て、流布され消えていった。そのあたりは荻上チキさんがまとめていらっしゃるのでまあそちらをご参照していただくとして、このリストは、いうまでもなくまだ現在進行形なわけだ。で、こういうデマに対しては、非常によろしくないということで、たいへん風当たりが強い。

もちろんデマがよろしくないという点には何の異存もないのだが、なんとなくデマを「根絶」してやろうとか、デマを流してる奴は徹底的に糾弾してやろうとか、そんな、なんていうか自警団ぽい雰囲気があちこちから感じられて、それはそれでどうかと思ったりするわけだ。

もちろん、野放しにせよといいたいわけじゃなくて、どんどん大きくなって実害が出てくるようなものは抑えこんでいくべきだが、そうでないものまでいちいち目くじらをたてるのはたいがいにしておいたらどうかな、というぐらいの意見なのであらかじめ念のため。

で、以下、そう思う理由を7つほど書いてみる。「7つ」っていうのは、山口的には「3つある原則」のバリエーションととらえているので、まあそういうくらいの話。

(1)デマの全くない社会はデマに弱い
たとえ話でいうと、デマっていうのは、人々のコミュニケーション全体をひとつの生き物のようにとらえた場合、病原菌のようなものにあたるのではないかと思う。ふだんは免疫で抑えこまれてるが、体調が悪いとか何かの事情があると、増殖を始めて体を蝕むわけだ。このたとえでいうと、「デマの全くない社会」というがのあったとすると、それはいってみれば無菌室にいる人のような状態であって、それに慣れてしまうと、病原菌への抵抗力がなくなってしまう。

つまり、最もよい状態は、デマが発生しても抑え込める「免疫」力を持った社会ということになろうが、そのためには、まったくデマのない状態じゃなくて、小さなデマが発生してはつぶされ、といったことを繰り返しているほうが望ましいのではないか、と思うわけだ。逆に、デマが全くない社会があったとすると、それはおそらく、デマに対して最も脆弱な社会ではなかろうか、と。

もちろん、デマのない社会でも、デマについて教えることはできる。人を殺してはいけないと教えるために、人を殺してみせることはありえない。でも、後の方に出てくるが、デマっていうのは現実にはなかなか見分けられない場合がけっこうあるのだ。それに、事実や科学知識に基づいてデマを検証していくプロセスというのは、科学教育のまたとない教材になるんじゃないかと思う。それから、人間は、忘れやすい。どんなとき、どんなデマが発生するのか、それがどうやって広まっていくのか、そしてそれをどうやって見分けるか、抑えこむためにはどうしたらいいか、みたいなあたりは、経験していればわかるし、その後もしばらくはすぐのときには思い出せるが、しばらくたつと、ほとんどの人は忘れてしまうだろう。そうならないために、全くデマが発生しないより、時折デマが発生する方がまし、なのではないか。


(2)言論の自由
こういう大上段の理屈を持ち出すとまたいろいろ跳ね返りがありそうだが、少なくとも1つの理由ではある。言論の自由というのはもちろん、何を言ってもいいというものじゃないが、裏返すと、それを上回る支障がない限り最大限尊重されるべきものであることも確かだ。

ここでポイントになるのは、「デマ」とは何を指すのか、ということだ。上で紹介した荻上チキさんのブログ記事でも、そこに出ている以外に、デマといえるかどうかよくわからず、したがってこのリストに含まれていないものがけっこうある。我らがWikipedia様によるとデマとは「デマゴギー(独:demagogie)の略で、本来は政治的な目的を持って意図的に流す嘘のことであり、転じて単なる嘘や噂、流言などを指すこともある」と書いてあるわけだが、仮に最も簡単に「嘘」、つまり事実でないこと、ぐらいの意味だとしても、何が事実かがはっきりしない場合は、現実にはそんなに珍しくない。単純に自分の考え方に合わない意見を「デマ」と呼んでる人もけっこう見かける。

つまり、デマへの糾弾も、度が過ぎると言葉狩りになる、という当たり前の話だ。言いたいことが言えない社会というのは、けっこう窮屈ではないか。


(3)愚行権
これもまあ、いろいろ言われそうな理屈ではあるけど。以前このブログで、ホメオパシーと「共生」をめざすべきだ、という趣旨の文章を書いたことがあったが、基本的にはそれに近い考え方だ。実害がそう大きくない範囲なら大目に見てやんなよ、ぐらいの話。「実害」ってのはこの場合、デマの拡散が進むこと。ネットだともちろん拡散しやすいけど、仲間内で言い合ってるくらいの段階なら、わざわざ外から入り込んで「デマだ、削除して謝罪しろ」みたいに騒ぎ立てるほどのこともないんじゃないだろうか。正しい情報を知ってるなら教えてあげる、ぐらいならいいんだけど、ネットではえてして「自分の方が頭がいい」競争になりがちだし。


(4)失敗から学ぶ
人間だもの。みつを。ってわけじゃないが、人間誰しも失敗をすることがある。ネットで、ちょっと思いつきを書いたらデマとして拡散しちゃったなんてこともあったかもしれないし、なんの気なしにRTしたらデマ拡散者になっちゃったなんてこともあるかもしれない。悪気がなければ何でも許されるというわけではもちろんないが、ちょっとしたまちがいで人格攻撃までされるいわれはない、ぐらいには開き直ってもいいんじゃないかと思う。まちがったら直せばいいじゃない。人に「完璧」であることを求める社会は、人から「完璧」であることを求められる社会だ。失敗する人を嘲笑する風潮が蔓延すると、人は萎縮する。窮屈じゃない?そういうの。


(5)啓蒙では説得できない
これはシノドス・ジャーナルの方にも少し書いたんだが、リスクコミュニケーションでもデマ対策でも、「啓蒙」は必ずしも最良の手段であるとは限らない。もともと聞く気、学ぶ気のない人を啓蒙しようとしたって聞き入れられるわけがない。そうする動機がないんだから。それに、この種の話で「啓蒙」をしようとする人は、えてして上から目線の「教えてやる」的な態度や、悪くすると相手をバカにする態度をとったりするから、かえって逆効果になったりする。誰がそんな屈辱的な環境下で学ぼうとするかね。よくしたって無視、悪くすればいっそうデマに傾斜する結果になってしまう。人に何かを教えたことがある人ならこういうあたりはおわかりいただけると思う。

その意味で、「デマを根絶してやる!」とばかりに相手を徹底的にやりこめようとするんじゃなくて、「退く」余地を与えるべきだと思うわけだ。うろ覚えだが孫子の兵法だか何だかにそんな感じのがなかったっけか。デマの弊害は、それが野放図に拡散して多くの人が誤った行動をとってしまうことにあるわけだから、それが防げれば、いいかえればデマを信じてる人がいたとしてもそれが大規模に拡散されていなければ、それ以上追及しなくてもいい場合ってけっこうあるかもしれないよ?、とか思ったりする。


(6)デマは不安のあらわれ
理屈の世界に住んでる人が陥りやすいミスは、人が何か言っているときに、それがその人の本当に言いたいことだと単純に考えてしまうことだ。でも実際にはそうじゃない。人は自分のしばしば本音をカモフラージュするし、自分で自分の本音に気づいてなかったりすることだってある。卑近なあたりでいえば、たとえば異性に「休日何してるの?」と聞かれたときにそれを文字通り「休日の過ごし方に関する質問」であるととらえてしまう人はなかなか難儀だよね、という話。あるいは、仮に「山口さんちのツトム君」(古いね)が絵本を「つまんない」と言っているとしても、それは本当にその絵本がつまんないと思ってるんじゃないよね、みたいな話。

じゃあ、デマはどうかというと、あくまで想像に基づく仮説だが、デマをまったくの悪意で流す人というのは、たぶん少ないと思う(ここ最近ではネット界隈で2人くらい見かけたが、ああいう外道なふるまいはまあ論外)。たいていは、そのデマを自らは正しいと信じ、皆にそれを知らせたいという思いからやっている、というのがまあ一般的な説明ということになるかと思う。

しかしそこで止まってしまってはいけない。ではなぜ、そういうデマを流したり拡散したりしてしまうのか。もちろん知識や情報の不足とかそういう場合もあるんだろうが、大胆にいいきってしまえば、そういう人はおそらく不安なのだ(人が何をリスクと感じるかについてはシノドス・ジャーナルの方に少し書いたのでご参照)。不安な人は、それを共有しようとする。「こわいねー」と言い合いたいのだ。自分がもっている不安はみんなと同じだと確かめたいわけだ。デマの拡散に関わる人たちの中には、そういう人がかなりの割合で混じっているのではないか、というのが仮説。確かめたわけじゃないけど、けっこう当たってるんじゃないかと思う。そういう不安の共有がリアルに会っている者同士で行われれば、それほど拡散しないケースが多いだろうが、それがネット上で行われると、拡散力が強いのでその分面倒なことになったりするわけだ。

もしこれが当たってるとすると、効果的な対応策は「正しい情報を与える」ことではない。「不安の共有」の場を、ネットの拡散力の強い部分から切り離すことだ。そもそも、何かを不安に思うことは、悪いことでもバカにされるべきことでもないってことは強調しておく。それは人間ならごく自然なことで、「弱い心」とかそういう話じゃない。そういう場合に、人に話してみるっていうのもごくふつうにやられてることだし専門家もそう薦めるだろう。基本的には、その手のコミュニケーションはリアルの場でやるのがいいんだと思うが、もしネットでそういう場を探すなら、たとえばSNSみたいなクローズドな環境、ということになるだろうか。

というか、そういう「場」の問題よりも重要なのは、そういった心の問題を適切に扱える人の関与が望ましい、ということのように思われる。その意味で、これまた大胆に私見をいえば、デマ対策に求められるのは、正しい情報を伝えられる専門家というより、カウンセラーとか心療内科医とか、そっち方向の専門性を持った人たちなんじゃないだろうか。いや別に「正しい知識」が不要とか言ってるわけじゃないんだが、たとえば今回の震災でも、何が「正しい」かわからない場合ってけっこうあるし、専門家同士で意見がちがうこともままあるようだし、というわけで、別のアプローチの方がいいかも、と思ったりしたわけだ。不安からデマに走った人たちが自分たちが「不安」だということに自分で気づけるかどうかっていうあたりは問題なんだけど。


(7)ひょっとしたら役立つかも
これもかなり暴走ぎみだが、あえて。デマはそもそもまちがいだからデマであるわけだが、世の中、何が正しくて何がまちがいかというのはそう簡単にはいえない場合もある。ある時点では正しいと思われていたことが後でまちがいだとわかる場合もあるし、逆もあるだろう。今回の震災や原発事故に関してはどうだったのかよく知らないが、そういう話はあったのかもしれない。

もちろん、デマが結果として事実とわかった場合が仮にあったとしても、それが出てきた時点ではやはりデマだったことにはちがいないんだが、一方で、その(結果的に正しかった)デマのおかげで人が助かったみたいな事情があったとしたら、結果オーライでよかったじゃないか、とする主張も出てくるんじゃないだろうか。

ポイントはここだ。もしそのデマが一点の曇りもなき程に「ウソ」であるならいいんだが、もしそうでない場合、つまり、もしその時点での常識的な考え方がまちがっている可能性がある場合、異説の存在には何らかの価値があるんじゃなかろうか、という話だ。あんまりいい例じゃないかもしれないが、地震で3mの津波がくるっていう警報が出てるときに、いやほんとは40メートル近いのがくるぞ、と言う人がいたとする。おそらくその人は、その時点では「何言ってんだデマ飛ばすな」と非難されていたかもしれない。でも、もしそれが「たまたま」実際には適切な情報だったとしたら、その「デマ」を聞いて「ヤバいかも」と思ってもっと高台に逃げる人が出てきて、結果的に命が救われることになったかもしれない。

もちろんこれには逆のパターンもありうる(デマのせいで犠牲者が増えてしまうケース)から、それだけでいちがいにいいとはいえない。おそらく大半のデマは、単純に「本来正されるべきまちがい」なんだろう。いいたいのは、異説の存在が、「今の認識がまちがっているかもしれない」という気づきのきっかけになりうるのではないか、ということだ。大きくいえば、多様性が生存確率を高める、みたいな話になるのかもしれない。


繰り返すが、デマを野放しにしろという趣旨ではない。誤った情報が拡散して混乱を招き、実損が出るのはよろしくない。ただそのために、あまり過剰に糾弾したりするようなことはよろしくない、正しい情報を伝えるときには、相手に対して敬意をもって行おう、万が一相手の方が正しい場合だってあるかも、というつもりで臨もう、といいたいだけだ。そこんとこくれぐれもよろしく。以上、暴論、終了。


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Comments

デマを肯定・否定する前に、何が悪いのかもっと良く考えて欲しい所。
嘘を付いたりする事ではなく、非のない人の尊厳、命、財産、etcを損なわせることでしょうに。

言い方を変えれば、流れている情報の正確さだとかは別に気にする必要は無いと思います。
それよりもその情報が広まることで、誰かが傷つく事が無いかを気にして欲しいもんです。
多くの人がその辺を全く気にしていないのは、非常に怖い。

Posted by: とおりすがり | April 21, 2011 at 12:33 AM

同意します。

デメリットも目立つし多いけれど、それだけではないし、規制の先に出来るものは考えたくも無いですね。

Posted by: abc | April 21, 2011 at 12:54 AM

はじめまして。感心いたしました。
論理のレベルで真である情報を流通させればそれだけでOK、ではなく、
実際に言説が流通する社会という場の特性(人間心理を含む)を考慮し、
逆接や可謬性や冗長性を織り込んだ言説戦略が有効、ということだと思います。

社会の理想像として考えてみても、有象無象いろんな奴が生息し競合するが、
相としては安定している豊かなジャングルみたいな方が良いですね。

自然科学の基礎知識がないのに何事か言いたがる人を多く見ますが、
社会科学の思考方法もできるだけ多くの人に知られていけばいいのになあ
と思いました。

Posted by: type303 | April 22, 2011 at 11:15 PM

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