「本当の言葉」って何なのさ
2011年4月5日付朝日新聞夕刊「文芸批評」欄に文芸批評家の大澤信亮氏が「欲しかったのは本当の言葉 「秋葉原事件」とは何か」と題した文章を載せている。不勉強にしてこの方を知らないんだが、おそらくは有名な方なんだろう。「ロスジェネ」という雑誌の編集委員を務めていた、とある。1976年生まれというのは、まさにその世代、なのかな。ともあれ、少なくとも私より頭のいい方ではあると推察する。いや別に根拠はないがなんとなくそんな印象。
要するに、読んだのだが、読んでも読んでもわからないので困っているわけ。
いや、実のところそんなに困っているわけじゃない。そもそも文芸批評家という職業自体よくわかってなくて、「文芸」って文学作品とかのことじゃないの?とか、事件の判決について書くって、法律学や社会学でないとしたら、いってみりゃ時事評論とか社会評論とかだよね?判決って文芸なの?時事評論って文芸批評の範疇に入るの?とか、いろいろわからないことだらけなんだが、別にわからなくても損はないし、正直それほど興味もないし。
とはいえ、せっかく読んだんだからちょっとはわかりたいじゃんか。というわけで、何がわからないか、できるだけ手短に書いてみる。あらかじめことわっておくが、批判とかじゃなくて、本当にわからないのだ。わかってる方いたらぜひご教示いただきたく。誰かいないかね、文芸批評界の池上彰的な人は。いや実際、文芸方面の方の書く文章って難しくて、本気でわからないことがよくある。同じ思いの人、けっこういるんじゃないかと思うがどうだろうか。
この文章は、タイトルからもわかるが、2008年の秋葉原連続殺傷事件の判決がちょっと前に出たことを受けて書かれたものだ。もちろん、ここに書かれていることの基本的な流れはわかる。確か、この事件の被告は大澤氏より少し年齢が下だったと思うが、大澤氏、とにかくこの被告に共感してるらしい。犯行に至ってしまったことはもちろん非難されるべきだが、被告が直面した困難や感じたであろう絶望のようなものは、この世代の人には広く共感できる、ということなんだろうか。「あまりに人間的」だったと評してるぐらいだし。そこらへんは、世代はちがうが私にもある程度わかる。少なくともわかる気がする。
そこまではいい。でもその先がもうだめだ。こんなふうに書いていらっしゃる。
公判を記録した資料を通読して感じたのは、現実の生活よりも言葉を優先しようとする、彼のリアリティーの在り方だった。
彼には会って話せる友人がいた。一定の収入を得られる仕事もあった。だがそれらすべてを虚しく感じていた。気を遣い合っているだけ。誰でもいい役割をこなしているだけ。「工場で部品を組み立る自分自身が部品みたいだ」。そんなふうな言葉も口にされた。
彼は本当の言葉が欲しかったのだ。この切実な気持ちは私の心を深く刺した。
「本当の言葉」。
この欄のタイトルにもあったから、これがキーワードであろうことは疑いない。でも「本当の」って何?私のように「科学」サイドの人間としては(いや別に私が科学を代表する立場とかいうつもりは全然ないし大澤氏が「魔術」サイドの人間というつもりもないのだが)、「本当の」とさらっと書かれてしまうと「ちょっと待て」となるのはむしろ自然な反応であろうと思う。「定義しろ定義」とかごねるつもりはないが、そんな簡単に「本当の」とか書かないでよ、ぐらいはいいたい。
ここでいう「本当の言葉」は、何か特定の表現というよりは、あるカテゴリの言説を総称したものだろう。誰の? 上の文章では、被告が日々接する仕事場の、あるいは、ネットを通してコミュニケーションする匿名の相手の、ということになる。でも、「本当の」かどうか、誰が決めるの?たぶんこの場合は被告自身なんだろう。ではなぜ被告は日々交わすことばを「本当の言葉」と思えなかったんだろう?というかどうして被告がそう思ってたってわかるの?聞いたの?聞かなくても資料を読めばわかるってことかもしれないけど、被告が判断する「本当」が他の人にとっても「本当」である保証とかってあるの?
別にちゃぶ台返しをしたいわけじゃなくて、要するに、私がわからないのは、誰が何をどう言ってくれたら「本当の言葉」ってことになるのか、ということだ。そしてそれが「本当」かどうか誰が判断するのか、さらにいえば、「本当の言葉」が語られると誰にどんないいことがあるのか、ということもわからない。
一応、ヒントはまったくないわけじゃない。こうもある。
あれから3年になる。若年労働問題はもはや過ぎ去ったトピックとなった。言論メディアには君の願った「本心」は見当たらない。言葉以前のレベルで影響力を行使したり、自分だけは安全な場所に身を置きながら社会について偉そうに語ったりする、卑怯な世渡りが蔓延している。
私なぞはここでいう「卑怯な世渡り」をしてる輩の一員ということになるんだろう(世渡りは考えてるがそれを卑怯呼ばわりをされるいわれはないと思うし偉そうとかいわれるのも僻みじゃないの?とか反論したくなるけど)が、本題でないのでそれは置いといて、つまり、「本当の言葉」とは、「本心」を語った言葉ってことになるらしい。ふむ。本心か、なんて納得できるわけがないじゃん。そもそも人の「本心」、人間の「本当」の気持ちが何なのかなんてそんなに簡単にはわからないはずだ。人間の脳は自分自身だって騙す。他人はもっと騙される。
公判記録をもとに被告の「本心」を推定するのは勝手だが、彼が「本当」のことを語ってる保証がどこにあるのだろうか。あの事件では、犯行動機や背景として、当初「社会に対する若者のテロ」ってことになってったものがやがて「虐待に等しい母親の躾」の影響に注目が集まり、最終的に判決では「ネット掲示板での嫌がらせへの怒り」ってことになったわけだが、最後のものが本当であるかどうかなんてわからないし、他の要素も同様だ。どれもが「本当」ではない可能性だってある。
で、わからないなりに想像するに、この文章でいう「本当の言葉」というのは、この事件の被告は実はどうでもよくて、大澤氏自身が「本当」と判断するものを指しているのではないか。実際、この文章の末尾に、大澤氏の「決意」的なものがこう書かれている。
だが私は、君が心の底から悔しがる社会を実現するために、無数の敵と戦っていくつもりだ。自らを卑下する自虐ネタを投下し、それに入るツッコミで確認する惨めな生存ではなく、自らの本心の言葉を社会にぶつけ、それによって社会をも自分をも変えて行く、そんな生き方をめざすつもりだ。
「卑怯な世渡り」をしている(ことになるのであろう)私も「敵」の一味(まあランクはかなーり下の方なんだろうが)ということになるんだろうか。私は別に戦いたいとはまったく思ってないのだが、とにかく大澤氏は「自分の」(ここでは大澤氏自身の、ということだ)「本心の言葉」をぶつける戦いを社会に対して挑むおつもりらしい。その意味でこの事件の被告は、「バカな戦い方をして自らの死を招いた戦友」ぐらいにあたるのかもしれない。
仮にそうだとしても、じゃあその「本心」とやらは何なの?という疑問は残る。だって書いてないじゃんどこにも。いやもちろん別のところには書いてあるんだろう。著書とか読めばいいのかな?でもこの文章だってそこそこ字数あるんだから、他人の本心はともかく、少なくとも自分が自分の本心と思ってることくらい、書いてくれてもよさそうなものじゃないか。
しかたないから想像してみる。たとえば、ロスジェネっていう要素を考えて、仕事をよこせ、給料上げろみたいなのとか? あるいはもっとパーソナルに、彼女ほしい、友達ほしい、もっと遊びたい、うまいもの食べたい、いいところに住みたい、何か買いたい、かっこよくなりたい、モテたい、金持ちになりたい、みたいなのとか? あるいはもっと精神的な、もっと自分の価値を認めろ、もっと自分をほめろ、みたいなのとか? もっとダークに行くなら、老人に年金なんか払う必要ねえ、団塊の世代とかさっさと引退しろ、40代のやつとかうぜえ、金持ちの奴なんかみんな破産すればいい、リア充ばくはつしろ、丸山真男をひっぱたきたい、戦争でみんな死んじまえ、みたいなのとか?
なんか書いてて脱力してしまう。もっとちがうものなのかもしれないが、よくわからない。申し訳ないが(別に申し訳なくはないか)、わからない。少なくとも、上に書いたみたいなのが「本心」、つまり「本当の言葉」なのだとしたら、それをぶつければ「社会をも自分をも変えて行く」、なんてことができるとはとうてい思えないからだ。社会を変えたければ、社会のしくみを知る必要があるし、何より現在の社会のしくみを利用してしか、社会を変えることはできない。確か「生きさせろ」って言ってる作家さんがいたと思う。日本語としてあんまり好きじゃないんだが(だってそう言ってる時点で生きてるじゃん)、でもわかる。その作家さんが「生きさせる」ためには社会の何をどうしたらいいかについて、具体的に語っているものをさらっとだが読んだことがあるからだ。だからこそ、大澤氏も、「本当の言葉」が必要というなら、それが何なのか具体的に示してほしい。どっかでちゃんと書いてるなら申し訳ないが、紙面の1/4使うならそのくらい書いてよそれが本題でしょ?とかいいたい。少なくとも、事件の被告の「本心」を勝手に想像して「俺がそれを継いでやる」みたいなことを主張するやり方は気に入らない。
ネット社会について考えるとは、設計や政策を云々することではない。誰もが現実よりも言葉に翻弄される世界が全面化するなかで、振るい振るわれる暴力の連鎖を、新しい思想で断ち切ることだ。
「新しい思想」はけっこうだが、社会を変えたければ「設計や政策」を抜きにすることはできない。少なくとも「新しい思想」を「設計や政策」に反映させなければ不可能だ。そもそもいつ「誰もが現実よりも言葉に翻弄される世界が全面化」したのか。むしろネット世論を含む「言葉」が圧倒的な「現実」にさしたる影響を与えられず立ちすくんでいるのが現状ではないのか。確かに、ロスジェネの苦境の背景にある世代間格差のようなものだって、それを支えているのは、体のいい制度というよりはむしろ現状維持を望む言語化されてない声なき声(つまり「本心」ということだ)みたいなものだろうと思うが、だからといって、それをそのまま表に出して、たとえば「オレたちにも金を回せ」みたいな若年層の「本心」(おそらくだが政治の領域ではそれらはいずれも「エゴ」と呼ばれるのではないか)とぶつけあったところで問題が解決するとは思えない。理論やら大義名分やら、制度設計やら政策論議やらがどうしたって必要だ。少なくともそれが、私たちの社会が自らを変えてきたやり方なんだし、そのやり方を変えたければ、まずそのために今使われてるやり方を使わなきゃ。
最後にしつこく書いとくが批判するつもりはない。まあ、要は新聞に載ったそんなに長くないコラムを読んだだけの文芸素人による「何がわからないか」についての言い訳にすぎない。きっと私が抱いた疑問なんてものは、わかってる人にはちゃんとわかってて、これこれを読めばわかる、なんてふうになってるんだろう。自分で読めばいいんだろうけど、ちょっと時間もアレなんで、下にアフィリエイトのリンクとか貼ってお茶を濁すとする。大澤氏の文章に出てきた中島岳志氏の本もいっしょに。以下の本を私は読んでないので、読んだ方はぜひいろいろ教えていただきたく。
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Comments
はじめまして。
通りすがりの者です。
文芸批評家の大澤信亮氏という方は私も知りません。なので、こちらの記事を拝見したのみで、何となく「感じた」ことを、拙い言葉ですがコメントさせて頂きます。
…「本当の言葉」の「本当」って、わりとテキトーというか、簡単、乱雑につけられたって感じがします。
普段の言葉遣いでも、無意識に「本当に疲れたー」とか言いますよね。
何だか、それと同レベルな感じがします^_^;
「その、本当って何?」って聞かれたら、答えられないですよね。
大澤氏という方が、批評の文章にて使うなら、もう少し言葉を選ばれたほうが良かったのでは?ちょっとお粗末では?と私も思います。
秋葉原事件の被告の「部品のように感じた」云々は、若い人で同様に感じる人なんて履いて捨てるほどいるでしょうし、(ただ皆が、それで犯罪を犯すってことにならないですが)
彼はただ、リアルな感覚に飢えていた、だけでよいのでは?と感じました。
「本当」という言葉、たいていの人間は、「神的に(?)絶対に正しい」と確信できることのみに使うわけではないですよね。
むしろ、現時点の私の中では正しいと思っている、最上の、ていうニュアンスでしょうか?
なので、文章を書く時は「自分が正しい」と主張しているように感じるので、私は照れますね;
乱文失礼しました。
因みに、私は「科学」の人間では全くありませんので…見当違いな意見でしたら削除してくださいm(__)m
(科学に対するものが何かはわかりませんが…「文系」寄り人間です;)
Posted by: menoko | May 11, 2011 10:49 PM