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やや暴論:いじめ「根絶」をめざしてはいけない

いじめ問題がまた「ブーム」になっている。「ブーム」というのはもちろん皮肉で、いじめの実態そのものというより、社会問題として大きく取り上げられる時期が何年かに一度やってくる、といった意味だ。今もあちこちで、さまざまな立場の大人の皆さんがいろいろな呼びかけを行なっている。いずれも真摯な思いから出ているものであろう。解決策を提案している人たちも多い。適否はともかく、これも「なんとかしたい」と考えた結果だろう。もちろん現場では、日々悪戦苦闘し、悩んだり苦しんだりしてる大人たちがいるわけだ。

そういう取り組みは貴重なものと思うが、それはそれとして、うーんちょっと、と思う部分もなくはないので、少しだけ書いてみる。たまにやる「暴論」シリーズ。

いじめ問題「ブーム」は、概ね、いじめ関連で何か重大な事件があると起きる。今の場合は、昨年10月の大津市の事件を受けてのものだろう。今はこんな状況になってるらしい。「常設の組織を作り」「防止・根絶への取り組みを強めていきたい」ということのようだ。

省内に「いじめ対策支援チーム」…平野文科相」(読売新聞2012年7月22日)
平野文部科学相は22日、大津市で昨年10月に市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺した問題を受け、全国の学校や教育委員会に対し、いじめに関する専門的な指導・助言を行う新組織を8月中にも文科省内に設置する考えを表明した。

もちろん、いじめ問題は今に始まったものではない。Wikipediaでみても1979年には上福岡第三中学校いじめ自殺事件が起きてる(いじめ自殺が報道された最初のケースらしい)が、「いじめっ子」ということばはそれより昔からあるわけだから、報道されてなくても、自殺にまで至ったケースは当然、それ以前にもあったはずだ。遡れば戦前の旧軍における新兵いじめは壮絶なものだったらしい(こちらのページに旧軍における自殺の状況が書かれているが、これによれば、今ならいじめと呼ばれるような状況もあったようだ)。とすれば、自殺に至ったかどうかはともかく、子どもの世界で似たことが起きていないはずがない。

子どもの自殺に限っていうと、長期的にみれば、必ずしもどんどん増えているという状況ではない(こちらあたりを参照)。率でいって一番高かったのは1950年代あたりのようだ。1990年ごろから増加してるように見えるが、こちらを見ると同じ時期の中高生の自殺者数はあまり増えていないようなので、子どもの数自体が減ってきていることの反映なのではないかと想像する。もちろん、子どもの死因としての自殺は不慮の事故と並んでトップ3に入るわけで、軽い問題でなぞあろうわけがないが、「昔はよかったが今はだめだ」という状況では必ずしもないということは確認しておく(そういうことを真顔で言う人は珍しくないので)。

ともあれ、重大な問題という認識は基本的にずっとある中で、何年かに一度、「ブーム」がやってくるわけだ(前回は2006年にできた教育再生会議のころだったろうか。あのときも、その前に、いじめによる自殺事件があった)。おかげさまで対応の方も少しずつ「進歩」(議論の余地はあろうが)はしていて、たとえば2007年以降、いじめは

当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの

と定義されるようになった。「いじめ」に当たるか否かの判断を、表面的・形式的な基準ではなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うというわけだ。つまり、児童生徒がいじめ被害を訴えたらそこにはいじめがある、と認識するわけだ。また、文科省への報告も、いじめの「発生件数」から「認知件数」に変えて、積極的な報告を促そうというものになっている。

今回もまた、被害者の自殺に至った悲しい事件をきっかけに、政府やメディア、識者の皆さんや一般の人たち(当然、私自身もこの中に入る)がみんなで大騒ぎしているわけだ。文部科学大臣は談話も出していて、その中で「いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるもの」という前提で、「学校、教育委員会、国などの関係者が一丸となって取組んでいきたい」としているから、他にも何らか対策が打ち出されるんだろう。これらが真摯な取り組みだということはよくわかる。

とはいえ、だ。

いじめ問題「ブーム」が過去複数回起きているということは、その都度私たちがそれを忘れてきたということを意味する。解決したから、ではない。いろいろ他に懸案事項ができて次第に関心が薄れていく、といったところだろうが、要するに、誰かが騒ぎ立てたときに始まり、忘れると終わる、ということを繰り返しているわけだ。ならば今回の「ブーム」も、やがてさめてしまうのではないか、と考えるのはむしろ自然だ。いろいろ進歩したところもあるし、関係者の方々が真剣に取り組んでいらっしゃるのもわかる。でも、何か納得がいかない。何より、これでいい方向に向かうという気があまりしないのが気になる。

何だろう何だろうとしばらく考えて、どうもこういうことなのではないかという考えに至った。

「いじめは決して許されない」とした姿勢そのものに、根本的な問題があるのではないか。

このような考え方は、現在に限らず、いじめが社会問題として取り上げられるたびに強調されてきた視点だと思う。いじめは悪い。根絶すべきだ。誰もが賛同するだろう。私ももちろん、なくせるならなくなってほしい。しかし、実際にはなくならない。むしろ、いじめを根絶しようという考え自体に問題があるのではないか、と思ったわけだ。世間的にみて「暴論」であろうことは認識しているが、一方で正論ではないかと思う部分もなくはないので、とりあえず書いてみる次第。

上記の通り、現在、いじめは「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と定義されている。被害者の視点から「苦痛」を感じるものはすべていじめとなるわけだ。それによって、教師や学校、教育委員会などが、現実に起きている問題を「あれはいじめではない」と放置することを防ごうという意図だろう。これ自体に問題はない。

しかし当然、何を「苦痛」と感じるかは人によって異なるわけで、こう定義すると、潜在的にはきわめて広い範囲の行為が「いじめ」と判定されうる。まあ、「どの学校でもどの子どもにも起こりうるもの」である以上、当然といえば当然な話ではある。問題はこの後だ。

文部科学大臣は、教師や学校に対して、「日常において決していじめの兆候を見逃すことなく、いじめを把握したときは抱え込まずにすみやかに市町村教育委員会に報告」することを求めている。さらに、「報告を受けた市町村教育委員会は、当事者としての責任をもって、学校とともに迅速かつ適切な対応を行」うこととなっている。いじめが「決して許されない」行為である以上、こうした具体的な対応を求めるのは当然であるわけだが、上に書いたことと合わせると、「どの学校でもどの子どもにも」潜在的には「決して許されない」状況に追い込まれるリスクがある、ということになってしまう。

理屈通りに考えると、これはかなりこわい状況だ。ふつうに接しているつもりがいきなり「いじめだ!」と指弾を受け、一気に学校や教育委員会が乗り出す「決して許されない」おおごとになってしまうかもしれない。そうなれば当然、周囲でも話題になるだろう。いじめたとされた側がその地域にいられなくなることも考えられる。いじめが「どの学校でもどの子どもにも起こりうる」というのは、誰もが被害者になりうるというだけではない。誰もが加害者になりうるということでもあるのだ。そしてそれが「決して許されない」ことであるとしたら、いったいどうすればいいというのか。

もちろん、犯罪といえるようなひどいいじめをしたのであれば、それに応じて刑事責任の追及を受けるのは当然だし、そこまでいかなくとも、ひどいいじめに対しては懲戒が与えられてしかるべきだろう。しかし、そういうケースは、実際には比較的まれだ。世の善良な大人の皆さんは、学校における「いじめ」というと、報道で知るようなひどいケースしか想像しないかもしれないが、子どもの頃を思い出していただきたい。子どもたちの間で発生する「いじめ」の大半は、そうしたひどいケースではなく、もっと日常的な、比較的軽いものだ。学校などでの子どもたちの交流が「望ましい交際」と「悪いいじめ」にすっぱり二分できる、などと単純に考える人がもしいたら、あまりにおめでたすぎる。それらは地続きであり、子どもたちの日常はどちらか判断のつきにくい状況の連続だ。ましてや、「いじめ」の認定が被害者の主観でなされるとすれば、外から見て明確な判断などできようはずもない。

そういう、ごく一般的、日常的に起こっているさまざまなレベルのいじめを、ひとまとめにして「決して許されない行為」としてしまうと、このいじめの定義は、実質的に意味を失う。厳密に適用することができないからだ。そして、いったん報告されたら、いじめは教師や学校の「汚点」とされ、批判が集まる以上、そうした事態は誰だって避けたい。

結果、どうなるか。「いじめ」と「いじめでないもの」との区分の実質的な基準が別途、暗黙のルールとして作られる。いじめが被害者の申告によって認知されるのであれば、いじめられたという「申告」を「相談」とみなしたり、あるいはそもそも「気づかない」ということにしたりすることになるだろう。場合によっては、見たはず、聞いたはずのことを「記憶にない」とごまかすこともあるかもしれない。大津市の事件の場合、報道を見る限り、当局の対応はかなりひどいという印象だが、関係者が自らの汚点となるいじめ問題の表面化を恐れて「認識していない」ことにしようとしたのだとすれば、上に書いたメカニズムが働いた実例ということになるのかもしれない。だから正当化できるということにはもちろんならないが、予想できる対応ではある。いじめがあの件だけだったとは思えないが、それらもあまり報告されていないのではないか。

もう少し考えてみる。

繰り返すが、ここで問題なのは、「どの学校でもどの子どもにも起こりうる」いじめを、単純にすべて「決して許されない行為」と直結してしまっていることだ。なんというか、「すべての病気を撲滅しよう」と言っているのに近いのではないかと思う。病気にも、いろいろなものがある。重大な結果を引き起こすものは、むろん撲滅のためにさまざまな努力がコストをかけて行われるが、より日常的な病気を完全に撲滅することは、事実上難しい。風邪を引かないために無菌室で暮らすようなことはできないのだ。また、ある程度の病気は、人の免疫システムを健全に保つためにも、むしろあった方がいいかもしれない。

私たちの社会が病気とのつきあいにおいてめざしているのは、病気を撲滅することではなく、病気を共存可能なレベルに抑えこむことだ。重大な結果を引き起こす病気はコストをかけてでもできるだけ減らすよう努力し、より軽いものは、生活に支障のない範囲に抑えこめればよしとする。必要な人は助けの手を向けると同時に、できるだけ多くの人が、そうした外部の助けを要せず、自分で対処できる力を身につけられるような措置をとる。

それと同じような発想を、いじめについてもすべきなのではなかろうか。いじめは、ふつうの子どもたちには縁のない異常な行為ではなく、ごくふつうの子どもたちの日常行動の中の一部だ。だからこそ、「どの学校でもどの子どもにも起こりうる」わけだ。もちろん、法律その他のルールによって、容認できない行為があるのは当然で、それらは断固として排除されるべきだが、「いじめ」に分類される多様な状況すべてを「決して許されない」とし、強制的な介入や排除の対象とするのはまちがっている。

子どもの通常の喧嘩に警察を呼べ、という人はいないだろう。大半のケースは、そこまでの必要はないはずだし、そもそも「決して許されない」かどうかも議論の余地があるはずだ。喧嘩は、子どもの発育の上で重要な意義をもっている。喧嘩を通じて、人とのつきあいや、ストレスへの対処を学ぶわけだ。そして学校は、そうしたことを、教師の目の届く範囲で行う機会を与えることのできる場所であるはずだ。

いじめにも、そういう部分はあるのではないか。子どもを自殺に追いやるようなひどいいじめがいきなり発生するとは考えにくい。ある程度の時間的経過があるはずだ。そうした中で、ひどいいじめにならないよう教師が注意しながら、子どもたちの交流を見守り、指導していくのが本筋だろう。「決して許さない」のは「ひどいいじめ」であり、それに至らないものは、教育の中で直していく。その線引は、被害者や加害者との日常の交流の中で、教師が判断していくべきものかと思う。その判断が信頼されていると教師が思えば、いじめを報告することに躊躇はしないはずだ。

だとすれば、必要なのは、現場の教師に必要なリソース(主に時間だろうが、その他専門サービスや予算などのサポートも必要だろう)と権限を与えることではないかと思う。教師が子どもたちに向き合う時間を与えずにどうやって問題を発見し対処せよというのか。社会に信頼されない教師や学校がどうして子どもに信頼されるというのか。そうした手当なしに「いじめを許すな」と言っても、現場を疲弊させるだけだ。もちろん、学校や教育委員会が実態を把握しておくのは大事だが、そのために教師の負担を過重なものにしては本末転倒だ。報告書が必要なら教育委員が自分で調べに来て書けばいい。

リソースやサポートが必要なところにそれらをあてがわず、ただ「何とかしろ」と要求するのは、いじめと同じく、旧軍の悪弊を彷彿とさせる。そしてそうなってしまうのは、この問題への対策が、素人の気まぐれな関心によってしかドライブされない(それが「ブーム」だ)からであって、それもまた、リソース配分を変える気がないからという点に帰着しよう。この点を変えずに、いじめ問題が改善に向かうとは、私には思えない。

そもそもめざすべきは、いじめの「撲滅」ではない。犯罪行為や子どもを自殺に追い込むようなひどいいじめは可能な限り抑えこむ(必要なら強制力も行使すべきだ)べきだが、そうでないいじめに対しては、子ども自身が対処していけるようにしなければ、かえって問題を悪化させる。すべてのいじめを教師が把握できるわけではないし、成長した後の大人の社会にも、いじめはごく日常的に存在するからだ。もちろん助けを必要とする子どもには手をさしのべるべきだが、そうでない子どももいるだろう。病人に治療や休養を与えることと、健康な人を運動させて健康増進を図ることはまったく矛盾しない。いじめも同じだ。ポイントは、そういったきめ細かい対応ができる状況を現場に与えなければ、問題は改善しないということだ。

一連の報道やネットの騒ぎが、大津市の事件に関する対応の進展に寄与したであろうことは否定しないが、警察も動き出した以上、その時期は過ぎた。少なくとも、無関係の人のプライバシーをさらしたり(関係者ならいいというものでもないが)、学校に脅迫状を送ったりすることは断じて正当化できない。それはそれ自体が新たないじめ(しかもかなり悪質だ)に他ならない。むしろ今は、加害者が悪い、教師が悪い、学校が悪い、教育委員会が悪いと大騒ぎしている間に、この問題の本質的な部分を見失ってしまうのではないかと危惧する。個別事件の対応は専門家たちに任せて、私たちはそろそろ、この問題の背景にあるものに目を向けていくべきなのではないかと思う。せっかくの「ブーム」なのだから、少しでも意味のある改善を勝ち取りたいところだ。


※あらかじめ追記
読めばわかるとは思うが、この文章は、いじめを正当化するものでもないし、いじめによる自殺を自己責任だと突き放すようなものでもない。同時に、自殺を美化・正当化するつもりもないし、いじめ加害者への社会的制裁が引き金となって、自殺をいじめ加害者への復讐の手段として使おうとする人が現れることを危惧する。つらいことがあるときに「いっそ死んでしまいたい」と思うこと自体は誰にでもありうることだが、そういうときはぜひ、誰かに相談してほしい。身近な人でもいいが、そのための活動をしている人もたくさんいるので、そちらでもいいだろう。特定非営利活動法人自殺対策支援センターライフリンクのサイトには、「いのちと暮らしの相談ナビ」というページがある。ここには、悩んでいる人や、悩んでいる人の力になりたい人のためのさまざまな情報が出ているので、もし何かあるなら、ぜひ。



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