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August 16, 2012

終戦の日に新聞が書くべきこと

2012年8月15日の朝日新聞夕刊「素粒子」欄にこんな文章が出ていた。

67年前、この日まで神話に浸っていた。多くの命を犠牲にしない道はあったはず。そして戦後また神話にすがり。

まるで他人事だ。戦後の話はともかく、当時その「神話」を広め、世論を煽り立てたのは誰だったのか。まさか知らないってことはなかろう。こういう短文コラムですべての要素をカバーするのはもとより無理だし、何か書くたびに自省の文言を入れてこられてもうざいとは思うが、こういう日だからこそ書いてるんだろうから、当時「本土決戦、一億の肩に懸る 挙国全戦力投入も可能」みたいな記事を書いた新聞ならではの、こういう日だからこその自省のことばが少しくらい入っていてもバチはあたるまい。というか、そういうのなしにしれっと「神話に浸っていた」とか書かれても説得力ないよね。

終戦の日であるわけだし、一応念のため、朝刊も見てみたんだが、社説のテーマは「戦後67年の東アジア:グローバル化と歴史問題」、つまり現代の問題だった。韓国や中国とのここ数日のあれこれを取り上げ、「未来と過去の共有を」と訴えている。まあそれはいいとしても、ここでも政治家や政治指導者の責任を説くのみで、メディアの役割に対しては何の記述もない。今の朝日新聞が対立を煽ろうとしてないことはまあなんとなくわかるが、当時やったことへの反省をベースに今訴えるべきことというのがあるんじゃなかろうか。

まあそういっても大新聞様は書いてはくれないだろうから、1つだけ書いておく。朝日新聞に限らず、新聞が終戦の日に訴えるべきことの1つは、「新聞を疑え」というメッセージではなかろうか。

日本新聞協会が掲げる「新聞倫理綱領」には、こんなくだりがある。

国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。(中略)おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。

私としては、「真実」ってことばが出てきたときにはそれだけで要注意だと声を大にして訴えたいところだが、それはちょっとおいとくとして、仮に「真実」に迫るのが新聞の責務だったとしても、それが常に可能である保証はないし、むしろそうでないケースの方が圧倒的に多いはずだ。新聞はまちがう。それは別に新聞を貶めることではない。人間は誰しもまちがうのだ。プロが検証した上で情報を出してるから、素人が適当に集めてきた情報に比べて信頼性が高いだろうことは認めるが、それとて完全でないということは新聞の「中の人」の皆さんこそが一番よく知っていることだろう。特に、戦争をめぐる報道については、少なくとも後世の視点からみて、彼らはたいへんな大失敗を犯した。それは彼ら自身も詳細に検証してもいるはずだ。ならば、そこから得られる最大の教訓を、すなおに伝えたらいい。

新聞の伝える情報は、誤っている可能性がある。偏っている可能性がある。私たちを誤った道へ導くおそれがある。そして何より、これからもそうした過ちを繰り返す可能性がある。どんなに努力しても、完璧ではありえない。だから、「知る権利」が守られるためには、私たち読者にも、記事の内容を疑い、情報を突き合わせて検証していく努力が求められる。昔とちがって今は、国民の側にも、ある程度の「力」が備わってきた。私たちはもはや単なる情報弱者ではない。むしろそのように監視され、検証される中でよりよい情報を伝えるべく努力をするのが、現代のマスメディアの存在意義というものだろう。

もちろんこれは、新聞に限らず、すべてのマスメディアについていえることだ。しかし、現在あるマスメディアの中で、先の大戦の際に存在したのは新聞とラジオと雑誌ぐらいだろう。中でも役割が最も大きかったのは新聞ではないかと思う。そうだとすれば、新聞がこの日にこそ、当時犯した過ちへの反省として、自らを疑えというメッセージを毎年、何度でも繰り返すことには、大きな意味があるはずだ。

※追記
そういえば朝日新聞は、東久邇宮首相のいわゆる「一億総懺悔」論に対して、「天声人語」欄で「敗戦の責任は国民斉しくこれを負荷すべきである」とこれを支持したのだった(参考)。上に書いた「本土決戦」云々からみると見事な変節だが、一貫した他人事扱いも驚嘆に値する。そしてその姿勢は、今も変わっていない。ちょっと前に新聞協会賞をとった郵便不正事件での証拠捏造スクープだって、厚労省局長逮捕にまで発展したこの事件自体を最初に報じたのは朝日新聞だったかと思う。マッチポンプ自体もさることながら、自らの「スクープ」(報道も早い段階で村木氏に「注目」していたと記憶している)が厚労省批判、官僚批判の世論を大きく盛り上げた(そしてそうした世論が検察を局長逮捕へと焦らせ、主任検事を証拠捏造まで走らせたともいえる)ことへの自省らしきものが見当たらないことには驚かされる。同社が新聞協会賞受賞に大はしゃぎしていたときには大きな違和感を感じたのだが、このあたりは昔から「一貫」しているのかもしれない。もちろん朝日だけじゃないだろう。他にもこういう例はいろいろあるんじゃないかな。




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