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March 27, 2013

21世紀の「とりかへばや」に関する小論

しばらく前にどこかの書評欄(思い出せない。申し訳ない)で見かけて買ってみた、坂井恵理著「ヒヤマケンタロウの妊娠」 (BE LOVE KC)が面白かった。

で、少し連想したことがあったのでひとくさり。割ととりとめのない文章なのでご注意。若干のネタバレを含むので併せてご注意。

タイトルと表紙の絵でわかる通り、これは男性が妊娠するという話だ。「相手」は女性。理由はあまり説明されていないが、同じ「行為」から男女のどちらかが妊娠する設定となっている。男性が妊娠するという現象がありうることがわかりはじめて、でもまだ一般にはあまり認知がないという状態らしい。やや都合のいい設定だがまあそれはおいとく。

主人公の男性が、それまで想像もしなかった女性の妊娠・出産の大変さを、自ら妊娠したことをきっかけに理解するという、いわば女性目線でのファンタジーだが、中には妊婦や子連れを厄介者扱いする独身女性なども登場するから、必ずしも男性ばかりがやり玉に挙げられているわけではない。立場が変わることによって、相手の不安や悩みを実感し、互いをよりよく理解し合うという、まあ全体として「いい話」ではあるわけだ。セリフ回しに若干説教臭い部分も感じないではないが、個人的には嫌いじゃない。単につわりで気持ち悪い、だけではないリアルな描写は素直に参考になる。

この類の物語設定、広くいえば「男女入れ替わりもの」はある意味定番のファンタジー設定であって、古今東西・・・かどうかまでは知らないが、少なくとも日本ではかなり歴史も古く、けっこういろいろなものがある。知ってる中で一番古いものは古事記に出てくる、ヤマトタケルの熊襲征伐のエピソード(もっと古く、旧約聖書の申命記にモーゼが異性装をしてはならないと説く記述があって、ということはそういう習慣があったということだろうが、モーゼが物語を語ったわけではない)だが、独立した物語としては、やはり「とりかへばや物語」あたりが最初だろうか。

その後のものについて、別に詳しく知っているわけじゃないが(たぶん専門の研究者とかはいるだろう)、少なくとも現代のマンガや小説などの中には、その手のものが山ほどある。マンガに関しても、かなり網羅的に調べている方がいたりするので、ご関心の向きはそちらをご参照。基本、この文章は網羅的に論じるのが目的ではないから、細かいことはあんまり気にしないことにする。

もちろん、ヤマトタケルの話や「とりかへばや物語」は男女の体や機能が入れ替わるわけではないので、「ヒヤマケンタロウの妊娠」とはちがうわけだが、ここはあえて広く考えて、「男女入れ替わり」ファンタジーと呼んでみた。いわば「とりかへばや」の系譜に属する物語群だ。つらつら考えるに、概ね3種類(というか3段階というか)に分けられるのではないか。

(1)立場の入れ替わり
(2)服装の入れ替わり
(3)肉体の入れ替わり

「立場の入れ替わり」は、たとえば、よしながふみ「大奥」(2005-)のように、何らかの理由によって、男女の社会的役割が入れ替わるタイプのものだ。このタイプの物語は、現代のように、男女の役割分担が曖昧になりつつある社会では、男女の社会的役割が固定されている(と一般的に認識されている領域に舞台を設定しないとあまりインパクトが出ない。「大奥」はそういう時代を舞台に選んだわけだが、たとえば星里もちる「いきばた主夫ランブル」(1989)や細川貂々「ツレがうつになりまして。」(2006)のような主夫ものもこのカテゴリに含まれるだろう。比較的現実に近い世界観のものが多いような気がする。

「服装の入れ替わり」はヤマトタケルの話や「とりかへばや」も含まれるわけだが、これはマンガなどでも定番の道具立てだ。「入れ替わり」というより、異性装といった方がいいかもしれない。男装女子では手塚治虫「リボンの騎士」(1953)やら池田理代子「ベルサイユのばら」(1972)やらといった今ではもう古典といってもいい作品もあれば、葉鳥ビスコ「桜蘭高校ホスト部」(2002-2010)のような比較的最近の作品もある。女装男子に至っては、永井豪「おいら女蛮」(1974)やら江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」(1981-2010)やら、あるいは遠藤海成「まりあ†ほりっく」(2006-)やら、その他エピソードの一部として女装するものやら最近の男の娘キャラまで入れたら数えきれないくらいの例がある。

「とりかへばや」は男女双方が異性の服を着て、異性のふりをするという、まさに「入れ替わり」だが、一般的な「服装の入れ替わり」ものは、「入れ替わり」というより、男女片方が異性の服装をするというかたちのものが多いように思う。それぞれ、ターゲット読者層と同性の登場人物が異性の服装をするパターンが多いわけで、そういうファンタジーなんだろう。ただ、志村貴子「放浪息子」のように、男女双方が異性装をするというタイプのものもある(その意味で「とりかへばや」の「直系」の子孫ということになろうか)。異性装の人物を主人公とする物語は、「立場の入れ替わり」に比べて、皆には内緒で、というニュアンスが付け加わることが多いかもしれない。異性のコミュニティにこっそりまぎれこむことによる覗き見趣味やら性的要素やらを刺激するファンタジーなのだろうが、中には「放浪息子」みたいに周囲との摩擦や葛藤が主たる内容となるものもある。

「肉体の入れ替わり」は、当然ながら、さらにファンタジー色が強まる。マンガだと弓月光「ボクの初体験」(1975-76)とか高橋留美子「らんま1/2」(1987-96)などのヒット作がある。マンガでないものだと個人的には子ども向け小説だが山中恒「おれがあいつであいつがおれで」(1979-80)を挙げたいところ。このタイプの物語は、立場や服装の入れ替わりものに比べて、総じてさらに性的要素が強まる、というか主たるテーマになるのはまあやむをえまい。

で、こうやってあれこれ挙げてはみたんだが、どうも「ヒヤマケンタロウの妊娠」は、こういう「男女入れ替わり」ファンタジーの系譜の中では少し違う位置にあるなあ、という気が初めて読んだときからしていた。なんだろうなんだろうとあれこれ考えていたんだが、最近やっと、なんとなくわかった気がする。社会が「入れ替わり」を受容しているところだ。他の作品群は、基本的には役割やら服装やら肉体やらが異性のものに入れ替わった男性ないし女性の物語であり、彼らと周囲との摩擦(バレないかとヒヤヒヤするというのもバレたら摩擦が起きるからだ)を物語の核にしているように思う。

これに対して「ヒヤマケンタロウの妊娠」は、いってみれば、個々の登場人物というより、「男女入れ替わり」を許容する(少なくともしつつある)社会を描いている。妊娠自体は男女どちらに起きるかわからない(という設定)が、どちらに起きたとしても、産む・産まないを当人が自ら選択し、それを社会は受け入れる。実際にはそこまではまだいってなくて登場人物は悪戦苦闘するわけだが、少なくともそういう社会をよいものとして描いているところが新しいように思う。その意味で、21世紀的な「とりかへばや」物語なのかもしれない。

こういう作品はあんまり見たことがないなあ、と思っていたが、いろいろ調べていたら、1つあった(他にもあるかもしれないが)。18禁のいわゆるエロマンガだが、幾夜大黒堂「性転換教室」(2011)という作品。なんでこっち分野の作家さんはこういう変わったペンネームにするんだろうかと思うがそれはさておき。ちなみに雑誌連載時には「境目のない世界」というタイトルだったらしい。このタイトルの方がずっといいと思うんだが、まあ単行本にするとなるとこれでは何だかわからないということになるのかもしれない。

このマンガでは、成人は自分の意志で自分の性を変更でき、肉体的にも完全に異性に変わることができる技術がある、という設定になっている。出産は女性にしかできないが、男性が望めば女性になって産むことはできるというわけだ。実際、作中には女性になって出産する元男性が出てくる。社会が個人のそうした選択を尊重し、サポートする体制が整っているという意味では、「ヒヤマケンタロウの妊娠」の世界よりも一歩進んでいる状態といえるかもしれない。

比較対象としてこの作品を取り上げたのは、これらの2つの作品に共通する、印象的なことばがあったからだ。「性転換教室」の主人公は、女性への性転換を選択し、その準備のため1年間の教育プログラムを受けるが、最終的には男性のままでいることを選択し、教育プログラムでいっしょになった女性との間にできた子どもを育てることになる。しかし物語の最後で、2人目の子どもについて、「そのときは僕が産もうかって話してるんだ」と言う。「ヒヤマケンタロウの妊娠」の中でも、中絶をした男子高校生が相手の彼女に「ちゃんと大人になったらまた俺が妊娠してもいいよ」と声をかけるシーンがある。

うまく表現できないが、なんというか、「そういうこと」なんじゃないかと思う。相手の大変なことも、自分のこととして受け止めるというか、分かち合うというか。そう表現するとなんとも陳腐で安っぽくみえるんだが、実際に自らを相手の立場に置いたらどうなるかを仮想的に体験したいと願うというのは、やはり相手を理解したいという思いなんじゃないかな、と。両作品とも、立場が入れ替わったとき、女性が男性に対してイヤだと思うことを自分でしてしまって狼狽するというシーンがある。相手を理解する必要があるのは、男性ばかりではないということなんだろう。

もちろん社会にはいろんな人がいるわけで、「社会が入れ替わりを受容する」というのは、個人のさまざまな選択がある結果生じる多様性を、個人として受容する人が、社会の中で多数を占めているという状態のはずだ。私たちが住む現実の社会も、もちろんこれらの物語世界ほどではないが、かつてに比べれば多様性に対する受容の度合いは確実に上がっていると思う。そういった、多様性への受容を前提として、それでも残る摩擦やら葛藤やらを描くのが今風のリアリティなのかもしれない。

このあたりが、「ヒヤマケンタロウの妊娠」や「性転換教室」が、無数にある「男女入れ替わり」ものとは少しちがう、新しい部分なんじゃないだろうか、と思った。しかし同時にそれは、単に新しいだけでなく、古くからある「とりかへばや」の系譜に属する作品群全体を貫くファンタジーの本質(こういうことばはあまり使いたくないが)、言い換えれば人間の根源的な願望みたいなものでもあるかもしれない。理解したいと願うことと理解されたいと願うことは、単に同じ行為の主体と客体というよりもう少し近い、いってみれば同じものの別の呼び名のようなものなのではなかろうか、という気がする。適切なたとえかどうか自信はないが、こんなイメージ

というわけで、「ヒヤマケンタロウの妊娠」、いろいろツッコミたくなるところも含めて、幅広い層の方々にお勧め。18歳以上で「そういうの」が苦にならない方は「性転換教室」も併せて読んでみるといいかも。



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※追記
音声読み上げソフトに読ませてみた。ちょっと調整はしたが、けっこうちゃんと読むものだと感心した。







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