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September 21, 2013

自分が「凡庸な悪人」かもしれないという自覚について

手短に。2013年9月21日付朝日新聞「耕論」欄に「不良図書と呼ばれて」というのが出ていた。最近話題になった「はだしのゲン」問題について、デザイナーの高橋ヨシキさん、精神科医の斎藤環さんが論じているのだが、この中で「「臭いものにフタ」よほど有害」というタイトルがついた高橋ヨシキさんの主張が面白かった。

以下、一部引用。

「国民的」にみんなが無批判に乗っかっていく風潮と、そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を「過激だ」といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、「泣いた」「笑った」ではなく、「泣けた」「笑えた」と評するタイプの人たちです。

彼らにとっての表現は、自分が気持よくなるためのツールでしかない。映画「美女と野獣」を見て「泣けた」とか言うわけですよ。だけど自分が、野獣を「殺せ」と取り囲む側の人間かもしれないということには想像が及ばない。

リンカーンの偉大さに感動しても、自分が、奴隷制を支持して黒人を人間と認めなかった大多数の側の人間だったかもしれないとは思わない。ナチス政権下でもフランスの恐怖政治の時代でも、それに異を唱えた人の偉大さを理解するためには、それ以外の人たちがいかに、いわゆる「凡庸な悪」に染まっていったかを理解しなければなりません。すぐれた表現とは、そういう多面的なものの見方を提示してくれるものなのです。

同調圧力への嫌悪感が強烈に感じられる。意見のすべてに賛同というわけではないが、言いたいことはわかる。

「凡庸な悪」については、何が「凡庸な悪」なのかはその人の主観によるもので、歴史的な評価はある程度時間がたたないと定まらない、というのがポイントかと思う。「大多数」の側に立つ人の多くは凡庸だろうが、だからといって必ず悪と決まっているわけではない。大多数の側の人の方が正しいという場合も少なくないだろう。高速道路で渋滞中に路側帯を突っ走って行く車の運転者や、近所に迷惑をかけているゴミ屋敷の主などは少数者だろうが、だからといって彼らを「偉大」と評する人はあまりいないと思う。

もちろん大多数がまちがっていて少数の勇気ある人たちが正しいという場合もあるだろう。確かに、時代はそういう人たちによって切り開かれてきた。だが問題は、何が「正しい」かが事前に明らかでない場合も少なくないということだ。たとえば農業や漁業への保護策を維持すべきか。子どもが触れるべきでない表現とは何か。人によって考え方はちがう。自分は正しいと思っていても、他の人が同じように考えるとは限らないし、いったん多数派の側についたつもりでも、多数派の意見がいつのまにか変わってしまうかもしれない。

そして、もっと重要なのは、悪はともかく「凡庸」でいる自由、「大多数」の側に立つ自由が人にはあるということだ。皆が皆「正義の味方」になれというのはそれこそ乱暴な同調圧力だし、そもそもそういう人がたくさんいすぎるとかえって世の中が混乱するだろう。それに、ある面で「凡庸」な人がすべての面で「凡庸」であるとも限らない。ある人がある面では「凡庸」な「大多数」だとしても別の面では「偉大」な少数者であるかもしれない。

もちろん、凡庸でいる自由があるからといって、その結果起きたことへの責任から逃れられるわけではない。私たちは稀代の名映画監督であった伊丹万作が自らを「凡庸な悪」の側にいたと喝破したこの文章を何度でもくりかえし読むべきだ。

戦争責任者の問題

だからこそ、いかに少数意見を押しつぶさないかに心を配る必要がある。計算上、自分が「偉大」な少数者の側に立っていると思っている人の大半が実際には「凡庸」な多数派であって、しかも一定の確率で事後的には「悪」とされることになる側にいるはずだ。つまり、誰もが何かの問題について「凡庸な悪」の側に立っている可能性に直面していることになる。特に、自分にはあまり興味がない分野では、自分が多数派に入っている可能性が高いので、そうした分野における少数意見には意識的に注意しておくぐらいがよいと思う。

自分がひょっとしたら「凡庸な悪」の側に立っている人間かもしれないという自覚を持っていれば、「凡庸な悪」に対して無遠慮な糾弾の石を投げることに対して自制的になるのはむしろ当然のことだろう。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」っていうアレだ。もちろん、まちがうおそれのある者は一切他者への批判をしてはまかりならんという話ではないが、少なくとも、自分はまちがっているかもしれない、という前提でいないと、後でしっぺ返しを食う。

そういうことに対する自分への警戒心のない人は政治家にも教育者にもたぶん向かない。誰とはいわないが、自信たっぷりに他者を罵倒する「あの人」や、この表現は有害だから規制しろと声高に叫ぶ「あの人」なんかは、もう少し考えなおした方がいいのではないかと思う。私は高橋さんとちがって「すぐれた表現は多面的な見方を提供する」とは必ずしも思わない。多面的な見方はあくまで、多様な考えに触れながら自分の内部で培うものだ。そしてそのためには、自分とちがう考え方にできるだけ意識的に触れるのがよい。件の人たちはその意味でも「はだしのゲン」とか読んだらいいんじゃないか。

あと、本題からはややそれるが、高橋さんの「泣けた」「笑えた」への違和感は強く同意する。個人的にも大嫌いなことばだ。もちろん商業作品をどう消費しようが自由といえば自由なので「泣けるー」とか言いたい人は言えばいいわけだが、そういう物言いを「嫌いだ」と言う自由もあろう。テレビとかで「泣ける~」みたいなのを見かけるたびに「うへぇ」って言いたくなる、と表明しておく。



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