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September 29, 2013

私たちの社会はもう少しめんどくさくてもいいのかもしれない

森達也著「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい 正義という共同幻想がもたらす本当の危機」(ダイヤモンド社、2013年)

いただきもの。多謝。長いタイトルの本っていっときちょっとはやったような記憶があるが、これも長い。昔の土曜の2時間ドラマ並だ。さらに帯には、「当事者でもないのに、なぜこれほど居丈高になれるのか? 不安や恐怖、憎悪だけを共有しながら、この国は集団化を加速させていく――。取り返しのつかない事態を避けるため、今何ができるのか」とたたみかけるような文章が。もうこれだけで読んじゃったような気になるほどだが、中身も380ページほどあるので、もちろんこれだけの話ではない。

森達也さんという人は、ドキュメンタリー系の映画監督であるらしい。不勉強にして、作品を拝見したことはないのだが、オウム真理教を取り上げた作品があることは知っていた。授業終了後の学生とのやりとりについて書いた文章もあるが、明治大学の特任教授でもある由。

もともとダイヤモンド社の雑誌『経』に連載された文章に加筆してまとめたもの、とのこと。どこかで読んだ覚えのある文章があったような気がするが、ダイヤモンド・オンラインにも掲載されたようなので、たぶんそちらで読んだのだと思う。本は分厚いが、それぞれの文章はそれほど長くなく、平易に書かれているのでさらさらと読める。

タイトルのことばは、死刑廃止論についての文章に出てくる。死刑に反対する主張をすると必ずこういうことを言う人が出てくる、という話だ。この方がニコ生の番組に出演された際の罵倒コメントが一部紹介されている。要は「殺された人の遺族の気持ちを考えれば死刑は必要」という意見だ。まあ状況は概ね想像がつく。ネット独特の「飾らない」言葉遣いが敵意むきだしの罵詈雑言として襲いかかるわけだ。

で、著者はこうした人たちに対して問いかける。

もし遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか。

サンデル先生にお出ましいただきたいところではあるが、そこまでややこしい話になるわけではない。著者は、自らが本当に自分の子どもが殺されたらちがった考えを持つかもしれないがとことわりつつ、たたみかける。現に遺族になってしまった人ならともかく、そうでもない人が勝手に遺族の気持ちを忖度して代弁するのはおかしい、と。以前読んだ佐々木俊尚著「当事者の時代」で使われていたことばでいえば「マイノリティ憑依」というやつだ。

死刑制度自体についてはさまざまな考え方があろう。もちろん、死刑制度を支持する人たちの理由だってそうした遺族感情への配慮だけではないだろうし。著者は日本における死刑執行の方法、つまり絞首刑が海外での死刑の執行方法に比べて残酷であるとも指摘しているが、じゃあ残酷じゃない死刑ならいいのかという話もあるわけだし(「人道的な死刑執行方法」という考え方は、「人道的な兵器」という概念と少し似ていると思う。「人道的な拷問」みたいな概念もあるのだろうか)。

たとえば憲法改正や領土の問題のような大きなものから、捕鯨やいわゆる「タイガーマスク騒動」の問題、あるいは印鑑の必要性やスリッパの重ね方に関する問題のような比較的小さなものまで、本書に出てくる他のさまざまなテーマにおいても、人の考え方はさまざまであるはずだ。私も、読みながら「それはちょっとちがうんじゃないか」と言いたい部分がいくつかあった。

それでいいのだと思う。著者がいいたいのは、個々のテーマに関して著者の意見が正しい、ということではおそらくない(もちろんご自身では正しいと思っているのだろうけど)。著者がいいたいのはもっとメタなレベルの話、常識を疑え、自分で考えろ、空気を読まずに質問しろ、といったことなのではないか。それをしないから、本書の副題にもある「共同幻想がもたらす本当の危機」に直面する、という趣旨なのだろう。

私たちは日々暮らしている中でさまざまな不安に直面していて、それを解消するためにさまざまなものに頼っている。そのひとつが「われわれはより大きな何かに属する一部だ」とか「われわれは外部からの脅威にさらされている」とかいった共同幻想であって、その感覚が人によりどころを与えると同時に、居丈高になったり「よそ者」に対して冷酷になったりする原因になる。自然になじんでしまっている発想から少し視点を変えてみると、まったくちがった構図が見えてくる。異なる考え方がありうることがわかれば、自分と異なる考え方の人に対して居丈高に接することがいかに愚かしいふるまいであるかがわかる。

本書で気に入ったのは、著者自身が、自分にもわからないことがあり、まちがうこともありうるということを意識しているように思われることだ。これはとても重要なことだと思う。この種の主張はとかく「自分の方が正しい」合戦になりがちで、だから論者に何か落ち度があるとすぐ「ブーメラン」とか「 m9(^Д^)プギャー 」とかみたいなつっこみをしてみたり、あるいは別の観点から勝手な論理を並べ立てて「完全論破」みたいなことを言ったりする人が出てくるわけだが、そういうのはあまりにも不毛で無意味だ。多くの問題において私たちは誰も「正解」など知らないし、実際のところ、必ず誰かが知っていなくては社会が成り立たないというものでもない。

むしろ、社会の中に多様な考えがあって、それらが常にせめぎ合ってそのバランスを変えていく方が、環境変化への対応がしやすいし、大きな失敗も犯しにくい。特定の誰かが正しいからではなく、多様な考えの人が集まって、全体としてあまりずれた方向に行かないようにする、というアプローチだ。今の多くの社会は、このやり方で曲がりなりにも健全性を保っている。だから、そうした状態を失わないようにしよう。社会の中に常に異論がある状態を失わないようにしよう。今の日本の状態は、異論を封じようとする圧力が強く働いていて危険だ。これが本書の主張だと思う。

その意味で、本書は、「ああこの本いいこと言ってる」と思うような人より、「なんだこれ」と思う人にこそ読まれるべきなのだろう。そういう人はなかなか読んでくれないだろうけど。

もちろんこの点についても異論はありうる。本書は総じて「最近の日本は悪い方向へ向かっている」といった論調で書かれているわけだが、これって思い返すと、ずっと以前から評論の定番スタイルだった。「昔はよかった」とか「海外に比べて日本は」っていう人がいうところの「昔」とか「海外」とかの人たちが「昔はよかった」とか「わが国はだめ」とか言ってて、みたいな構造。本書で指摘されている日本社会の空気を読みすぎてはっきりものを言えない構造はそれこそ戦前からあったし、日本に限った話でもない。そのことは著者自身が本書の中でも書いている通り。

悪いところは昔からあったし、最近よくなったところもたくさんある。もちろん著者はこのところの社会の変化にいい点もたくさんあったと指摘してはいるが、「いいこともあっただろうが悪いこともたくさん起きている」という論法で(「悪いことも起きるがいいこともたくさんある」ではなく)、このまま放置するとおそろしいことになるという主張につなげている。これ自体、「❍❍しなければわれわれは滅ぶ」といった恐怖をあおって自らが望む方向の共同幻想を作り出そうという言説の一種ではないかといわれれば、そうかもしれないということになろう。

だからだめだ、というのではない。この構造に気づくことが大事、というのが著者のいわんとするところだろうからだ。いちいち疑ったり質問したり議論したりと、めんどくさい話ではある。しかし、これだけ技術が発達して便利になって、いろいろなこまごまから解放されたのだし、その反面でいろいろ危険も増してきて注意が必要にもなったのだから、これまでよりいろいろ考えるべきことはあるように思う。その意味で、私たちの社会はもう少しめんどくさくてもいいのかもしれない。

というわけで、幅広い層の人におすすめ。あえて絞るなら、だんだん世の中のことがわかってきたと思ってる若めの方には特にいいのではないかな。この本をきっかけにして、自分が正しいと思ってる考え方を一度揺さぶってみるといい。何も学ぶものはない、あるいはまったくこの本の言う通り!などという感想を持ったら、ちょっと危ないので要注意。




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