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January 17, 2014

オウム事件から学ぶべきこと

昨日、2年ぶりにオウム真理教関連の裁判が開かれた。1995年2月の目黒公証役場監禁致死事件に関連してオウム元幹部平田信被告が逮捕監禁などの罪に問われているものだ。

「平田被告、拉致共謀を一部否認 2年ぶりオウム裁判」(朝日新聞2014年1月16日)

オウム関連裁判では初めての裁判員裁判であること、死刑囚が証人として出廷することなど、さまざまな意味で大きな注目が集まる裁判だが、2008年に始まった被害者参加制度により、被害者の長男にあたる男性が裁判に参加することも注目点の1つらしい。

父の最期、知りたい 拉致された仮谷さんの長男、法廷に」(朝日新聞2014年1月16日)

この件を報じていたテレ朝系「報道ステーション」をちら見してたら、「オウム事件を忘れるな、向き合え」みたいなことを言っていたので、では何を忘れてはならないのか、何に向き合わなければならないのか、少しだけ考えてみた。

事件に直接関係していない私たちが忘れてはならないことがあるとすれば、それはこの事件にとどまらない、より一般的な知見になりうるものだろう。被害者の方の苦しみや遺族の悲しみは、想像はできても共有はできないし、代わってあげることもできない。確かに忘れられたら悲しいだろうが、だからといって覚えていられても癒やしにはならないだろう。テレビキャスターが眉間にしわ寄せて「苦しみはいかばかりか」とか共感してみせても、それで苦しみが消えるわけでもない。

というわけで、オウム真理教の一連の事件やその裁判を見て改めて思い起こさなければならないことの中で、より一般的な知見につながりそうなものを4つほど挙げる。他にもあるかもしれないがとりあえず4つ。できるだけ手短に。


(1)頭がよくてもひっかかる
新興宗教にせよ伝統宗教の分派にせよ、宗教の中にはカルト化するものがある。カルトはことば自体に「反社会的」というニュアンスを含んでいるのでby definitionで恐ろしいわけだが、その「恐ろしさ」にも、他者や社会に直接的な危害を加えようというもの、信者やその家族の生命や健康、社会生活などを破壊するものなど、いろいろな種類がある。オウムの場合も、教祖を含む幹部ら一部の人々が関与した殺人などの凶行だけでなく、信者に全財産の寄付を求めたり、脱会を許さず脱会希望者とトラブルを起こしたりといった、カルトによくみられる問題を抱えていた。今回裁判が行われている目黒公証役場監禁致死事件もその関連だ。

一連のオウム関連事件については、医師や一流大卒、大学院卒などいわゆる「頭がいい」人たちが多く関わっていて、なぜああいう人たちがあの教祖に「だまされてしまった」のか、という点がしばしば話題に上る。で、高学歴の人ほどもろいとか、現代科学の限界がとかしたり顔で講釈を垂れてる人もよく見かけるが、一連の犯罪に関与したのも入信していたのも、別に高学歴の人ばかりではなかったわけで、高学歴だからどうとかいう話を強調する意味はあまりないだろう。何か言いたいのであれば、むしろ「危ない考えにひっかかるかどうかに学歴や専門知識は関係ない」という点ではないか。それは東日本大震災後にもよく見られたことだ。


(2)過剰に追い詰めてはいけない
一連の事件は、ごくあらっぽくまとめれば、新興宗教としてそれなりの規模に拡大していったオウム真理教が、政界への進出など「日の当たる場所」への進出に失敗し、周囲との軋轢で追い詰められ、被害妄想に陥ったあげく暴走していく経過で起きたものだ。この流れ自体でみる限り、教団に同情できる余地はほとんどない。真理党なる党を結成して衆院選に打って出たものの全員落選したのも、信者やその家族などとの軋轢も、一連の凶行も、彼ら自身の責に帰するべきものであることにちがいはない。

とはいえ、社会の側にまったく問題はなかったかというと、そうでもない気がする。カルトに限らないが、集団が追い詰められるとかえって狂信化して過激化するというのはよくある。オウム真理教は事件後2つに分裂したやに聞くが、昨夜の「報道ステーション」によれば、うち少なくとも片方は今でも元の教祖を教祖として崇め、収監されている東京拘置所の周りを巡礼したりするらしい。一時は減った信者数も最近は増加傾向にあるとか。不気味なものを感じるのは感情的にはいたしかたないが、社会の側で受け入れ体制が整わないまま過度に敵視することはかえって危険でもある。社会復帰を急ぐな、はカルト対策の基本だ(参考)。

そして、相手を厳しく追い詰めればかえって問題が悪化することもある、というのは、カルトに限った話ではない。暴力団などの反社会的組織の場合もそうだし、ギャンブルやアルコールなどの依存症の場合もそうだろう。ネットで日常的に見られる不毛な争いも、相手を論破し従わせようとするところから生じる。もちろん誤った考えや行動は正された方がいいが、あまり追い詰めすぎず、差し迫った危険がない限りは放置しておくのもありうる考え方だし、介入するなら受け皿を考えておく必要があろう。


(3)メディアの暴走は恐ろしい
上記の「報道ステーション」の中では、この問題に長く携わっておられる紀藤正樹弁護士が「目黒公証役場監禁致死事件にきちんと対応していればその後の地下鉄サリン事件の発生は防げた」と語っておられたが、それでいうなら、1989年11月の世田谷弁護士一家殺害事件や1994年6月の松本サリン事件も同じことだろう。特に松本サリン事件は、犯行に使われた毒物が素人の個人に作れるはずもないサリンであることが判明していたにもかかわらず、長期間にわたって第一発見者の男性を容疑者扱いするメディアスクラムで苦しめるという、深刻な報道被害を引き起こしたという点が重要だ。一連のオウム関連事件から私たちが最も学ぶべきポイントは松本サリン事件の中にあるように思う。

この報道被害について、マスメディアには大きな責任がある。警察見解に従った報道だったようだが、それを鵜呑みにして、第一発見者の男性を犯人扱いするかのような報道を続けたことは、やはり問題があったといわざるをえない。毒物がサリンであることがわかった時点で、「素人の個人が家庭で作れるものではない」という見解はすでに専門家などから出ていたはずだ。本来、メディアが複数ある意義はこういった情報の相互チェックにあるのだろうが、その役割は果たされなかった。もちろん昨夜の報道は目黒公証役場監禁致死事件の裁判に関するものだから、松本サリン事件の報道被害に触れる必要はないということなのだろうが、「オウム事件を忘れるな」みたいなもっともらしいコメントをするなら、この点にもひとこと言及があってしかるべきだろう、と思う。松本サリン事件報道のせいで目黒公証役場の事件が起きたとはいわないが、時間軸的に考えれば、もし松本サリン事件の際にメディアがオウムに注目していれば目黒公証役場の事件は防げたかもしれない、ぐらいには言ってもいいのではないか。

この点を強調したいのは、マスメディアが世論の方向を誘導してしまう状況が昔も今も随所にみられるからだ。マスメディアのアジェンダセッティング力は侮れない。特に犯罪報道の領域では、捜査機関からの情報に頼らざるをえない。彼らの意に反する報道をすれば、情報をとれなくなるという恐れもあるだろう。しかしただ与えられた情報を伝えるだけなら、マスメディアの存在意義は著しく低いものとなる。スクープ狙いでセンセーショナリズムに走るなら、むしろ害悪の方が大きい場合もあろう。報道の自由は尊重すべきだが、何をやってもいいということにはならない。


(4)善意や正義感はもっと恐ろしい
何か深刻な被害を受けた人が出た場合など、議論を封じ、異論をいわせない「空気」が生じることはよくある。松本サリン事件のときもそういったものはあった。マスメディアを走らせたものも、そうした「空気」だったのかもしれないが、こうした「空気」が幾多の過ちを生み出してきたことに対しては、メディアの人たちにはもっと自覚的であってほしいと思う。「空気」については山本七平「空気の研究」が知られているが、改めて読み返すと、1977年に刊行されたこの本の骨子がまったく古びていないことを痛感する。私たちは未だに「空気」に支配されている。

その意味で、情報の受け手である私たちも単なる被害者ではない。松本サリン事件において、報道に流され、義憤に駆られたとはいえ、無関係の人々が第一発見者の男性のもとへ誹謗中傷の手紙を送りつけたりしたことは、最近の状況とまったく変わらない。「サリンなんて作れるわけない」と思っている人たちも、声を上げることはなかった。「犯人の肩を持つのか」といった的はずれな批判の矛先が自らに向かうことを恐れたからだろう。そこまで関心のない人は「まあマスメディアが言ってるんだからそうなんだろう」程度に思っていたのではないか。報道被害をもたらしたのはそうした状況全体が生み出した「空気」だ。その意味で社会全体が加害者だったといえる。そして今でも同様の状況は随所で繰り返し生じている。善意や正義感がしばしば恐ろしい刃となるということを、私たちは忘れてはならない。

だからといって、私たちは黙っているべき、というような主張をしているのではない。自由に意見を表明し、議論を交わしていい。ただしそこにはやり方というものがあろうということだ。マスメディアもまちがうことがあるのと同じように、自分の見解がまちがっているかもしれないという自覚があれば、高飛車に他者を見下したり、人格攻撃に走ったりすることがどんなに恐ろしいことか、わかるのではないか。不確かな情報をもとに形成された一方的な印象で無関係の人に罵声を浴びせることの意味を、もっとよく考えた方がいい。乱暴にいえば、そうした態度はむしろカルトに近いものではないかと思う。

あまり長くなるとアレなのでこのへんにしておく。要するに、オウム事件を忘れないでいるためには、その何が恐ろしいのか、何に気をつけなければならないのかを明確に意識しておかなければならない、ということだろうと思う。



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Comments

メディアについてひとこと
わりとメディアのせいにされがちですが、それだけではないことを下記の本を読んで知りました。

4つの要素をあげています
報道、被害者、司法、検察 ・・・だったかな!?すでに記憶が曖昧です(^^ゞ

浜井浩一
実証的刑事政策論 真に有効な犯罪対策へ

Posted by: sundy | January 21, 2014 11:13 PM

すみません
上のコメント間違っていました。
鉄の四重奏
マスコミ、被害者、行政、専門家の4つでした

Posted by: sundy | January 27, 2014 11:45 PM

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