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終戦翌日の原爆と原子力に関する報道

古い新聞記事のデータベースをぱらぱらと見ていてちょっと興味深かったのでメモ的に書いとく。

見つけたのは原爆に関する1945年8月16日の記事。いうまでもなく玉音放送の次の日だ。日本の無条件降伏の翌日というわけで、さぞかし新聞記事も書きにくかったろうと思うが、この日にけっこう原爆の記事が出ている。で、興味深かったのはその取り上げ方。別に政治っぽい話をしようというのではなくて、当時の空気感みたいなものを感じたという話。

朝日新聞のデータベースではこの日、原爆関連の記事が7件出ている。

「ウラン原子核の分裂 最少量で火薬2万噸に匹敵/仁科博士談」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

広島の調査を行った理化学研究所の仁科博士による原爆の原理についての解説。「仁科博士」はいうまでもなく日本の現代物理学の父ともいわれる仁科芳雄博士。旧陸軍の原爆開発を指揮した人だから、原爆投下直後の広島を調査するのはまあ当然だろう。

「紫外線で強烈な火傷 落下傘は無線送信機 浅田教授談」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

阪大浅田教授による被害状況調査及び対策。「浅田教授」とは大阪帝国大学理学部の浅田常三郎教授だろう。浅田博士は仁科博士とともに、戦後日米科学者によって行われた残留放射能調査にも加わっている。この記事では、放射線が人体に与える影響とか、被害を避けるためにどうすればいいかなどについて書いている。戦争はもう終わっているのに原爆対策を説いているのが目を引いた。まだ警戒感のようなものがあったんだろうか。こんな感じ。

異常の閃光を中空に認めた時はすぐ遮蔽物にかくれること間に合わぬときは伏せをする、折目をつけた白色の衣類を着用するか常携すること、警報発令中は防空頭巾、手袋をつけ、また帽子のうしろに白色のたれをつけること、紫外線除け眼鏡は非常に有効である

閃光を見たときにはすでに放射線を浴びてるはずで、これが対策になるとはあまり思えないが、このころはこのくらいの認識だったのかなあ。

「原子爆弾/「真珠湾」以前に準備 かくて成る“非人道の極致” 2年半に亘り秘密を保つ」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

チューリッヒ7日、リスボン6日発とある。スイスはいわずとしれた永世中立国、スペインは当時フランコ政権下で親枢軸国陣営とされていたが、参戦はしていない。要は日本の報道機関の海外からの情報ルートはこうした連合国側でない国に限られていたわけだ。この記事はトルーマン大統領の原爆に関して出した声明の内容を紹介するもの。10日も前の情報だ。この声明自体については、8月8日付の記事「◆◆広島へ敵新型爆弾 B29、少数機で来襲攻撃 相当の被害、詳細は目下調査中 大本営発表」においてすでに声明が出ていることを報じているものの、その内容は報じられていなかった。終戦によって出せるようになったということかもしれない。

この記事では原爆の開発がずいぶん前から始まっていたと伝えているわけだが、見出しにある「非人道」という要素は本文にはまったくみられない。15日以前の報道で原爆について繰り返し「非人道」であると非難してきた関係上、急にトーンを変えづらかったんだろうか。事実を伝えつつ見出しで印象操作する手法は新聞記事によくあるが、この時期にもあったのが興味深い。

「豪雨の中で“戦慄の実験” ロボット装置が操作を開始」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

リスボン11日発。この記事は同年7月16日にニューメキシコ州で行われた核実験の模様を伝えるもの。これも上の記事と同様、終戦まで出せなかったものだろう。

「渡米した英科学者 参加した学者達」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

チューリッヒ7日発。原爆開発に関わった欧州の研究者たちについての情報。

「10平方キロが破壊 爆弾投下の直後、空から見た広島 中立国紙の報道」
(1945年8月16日 東京/朝刊)

チューリッヒ8日発。広島原爆投下機搭乗員の証言を米軍発表及び英紙報道から伝えるもの。

ここまではなんとなくわかる。戦争が終わって連合国側の情報が伝えやすくなったこと、連合国をあまり悪くいう報道は控えようとしている風情があること、とはいえそれまでの報道のトーンを急に変えるのも難しいのでなんとかバランスをとろうとしていること、あたりがうかがえる。

特に興味深かったのはこの記事。ちょっと引用してみる。

「輸送手段に革命招来か」
(1945年8月16日 東京/朝刊)
原子爆弾に関してオックスフォード大学の或る有名な物理学者は次の如く説明をしてゐる
原子爆弾の爆発体は鉱石から採取したウラニウムでこれはチェッコスロヴアキア、ウラルから産出される、原子爆弾の爆発力は二万個の爆発薬に相当するがこの破壊力の採用する範囲は遥かに小さく約五百噸の爆薬の作用範囲と同じである、スウエーデンの有名な物理学者ジーグバーン教授は「原子爆弾の実際使用によつて世界に紹介された『原子破壊の技術的完成』は単に軍事方面のみではなく一般生産にも応用されるもので、これは人類の歴史の新しき時代を※するものである、原子の力が石炭、石油にとつてかはることも期待される」と述べてゐる、またアメリカの重工業界では今度の原子爆弾の根本原理は今日の生産方法を根本的にくつがへすものとみて居り殊に運送(空中海上陸上の全部)問題の大革命をもたらすとみて居り、石炭、石油、水の分野を殆ど全部奪ひ取ることになるであらう、例へば自動車もこの新動力を僅かつめただけで数千キロを走破することが出来るようになるであらうと論じてゐる
(※は印刷不鮮明により判読不能。以後同様)

原爆の恐ろしさ、非人道性を少なくとも見出しでは強調する記事のすぐ横に、その産業への応用の可能性に関する記事を載せている。この時点では原子力を産業利用する技術は存在しないわけだが、早くからその可能性は指摘されていた。だからこうした情報が出てくるのはもちろんありうることではあるわけだが、海外の学者や産業界の声を伝えるかたちとはいえ、終戦の次の日、原爆投下からわずか10日しかたっていない時点でこういう記事を出すというのはなんとも意外感がある。これがこの時代の空気、なのかなあ。


ついでなので読売新聞も見てみた。同じく1945年8月16日、読売新聞も同じく7件の原爆関連記事を載せている。

「家族主義の根強さ 新日本必ず建設 中立紙 日本の国民性讃う/終戦」
(1945.08.16朝刊)
日本は必ず最後の一人まで戦ふであらうと断じていた世界の輿論は一朝にして覆へされ、いはゆる極東通は日本の申入れは原子爆弾とソ連参戦に原因するものと簡単に解決しようとしてゐるが、真の日本通はそれよりも日本国家の伝統と国民性にその根源を求めてゐる

チューリヒ発。日本の無条件降伏に関する中立国での報道を伝えるもの。日本の国民性をほめたたえる海外報道を伝えている。そういうのって最近よくみるわけだが、この当時からあったのだね。

「2000トンの高爆薬に匹敵 原子弾の破壊力/チューリヒ電」
(1945.08.16朝刊)

チューリヒ発ロイター電。オックスフォード大学の有名な物理学者による原子爆弾の原理に関する説明。読売は国内ではなく海外の学者の説明をもってきている。

「米国戦時情報局の放送がウラニウムを解明」
(1945.08.16朝刊)

ストックホルム発。スウェーデンも当時の中立国。「米国戦時情報局」っていうのは合衆国戦争情報局(United States Office of War Information)のことだろうか。ここが放送で伝えた、ウランに関する説明を報じている。資源としてのウランに興味を持ってるような書きぶり。

[陣影]
(1945.08.16朝刊)
敵は人類の破滅を来し地上からすべての生物を抹殺するに足るほどの新爆弾を振りかざして吾々に降伏を迫つた。人類あつて以来未だ吾々がこの度体験せるが如き悲劇はない◇しかし吾々は敵を恨みその非人道を鳴らすよりも斯る威力ある新兵器を発明した彼らの科学技術力を「敵ながら天晴れ」として強い敵を※※して来た吾らの武士道的精神を以て※※に慰め、吾々自らが遂にこれを有するに至らなかった非力を※みとすべきである

コラム。ここではやはり原爆を批判してはいるわけだが、朝日ほどの強いトーンではない。さらに興味深いのは、原爆を開発した米国をたたえるかのような書き方をしていることだ。こんな感じ。見方によっては米国にすりよっているととれなくもない。

「機体に異様な衝撃 広島全市蔽う1万2000メートルの黒煙/原爆投下」
(1945.08.16朝刊)

チューリヒ発UP電8日付。原爆投下機搭乗員の話。これは朝日と同じソースと思われる。

「アトリー声明/原子爆弾」
(1945.08.16)
一週間前原子爆弾を始めて使用した日に余が声明を発表して以来、この新発明の大にして恐るべき効果は明瞭となるに至つた我々はこの発見が将来平和愛好諸国の平和に貢献し、全世界に測り知れぬ破局を巻き起こすかはりに世界繁栄の恒久的源泉となることを心から祈る

ストックホルム発。英国アトリー首相の声明。核管理の必要性について述べたのか産業利用の重要性について述べたのかはよくわからないがおそらく双方なのではないか。

「産業革命をも齎す/原子爆弾」
(1945.08.16朝刊)

チューリヒ発9日。これが朝日にもあった、原子力の産業用利用に言及した記事。少し引用。

ストツクホルムよりの情報によれば長い間世界の科学者たちが、最も熱心に追求して止まなかつた原子破壊の技術的方法をつひに完成し、これを広く工業的使用の分野にまで押籠めかくて人類市場に画期的時代を招来させることとなつたのは他ならぬノーベル賞受賞者で実験物理学者として国際的に令名ある某教授であるといふ/原子爆弾の根本原理をなすものは単に軍事面の革命といふだけでなく第二の産業革命をもたらすほどの驚異的なもので“原子力”はやがて間もなく陸海空の輸送方法を一変せしまるだらうとみられてゐる
即ち動力源としての石炭その他の燃料並に水力は相当範囲にわたつてこの新しい“力”により代替されるであらう、原子爆弾のよき協力者もまたノーベル賞受賞者、デンマーク人ボアー教授で同博士はアインシユタイン博士とともに特殊相対性原理に基礎を與へた一人である
博士は原子爆発原理についてコペンハーゲンの大学で研究を続けてゐたが一九三四年の秋ドイツがこの研究所を手中に入れるやスウエーデンを脱出せねばならなかつたドイツの原子研究者たちが博士の研究を仔細に検討したのであつたがつひに有効な解決を見出すに至らなかつた、当時スウエーデンにおけるドイツ秘密警察は博士の研究結果がイギリスの手に帰すせぬやうボアー教授を射殺すべしとの命をうけてゐたのである
だがチヤーチル前首相は自ら命を発して博士を飛行機でイギリスに運ぶことに成功し、その後博士はイギリスから更にアメリカに赴いたのであつた

後半のボアー教授(「ボーアの原子模型」や量子力学などで知られるニールス・ボーア博士)のくだりはちょっと意図がわからない。ドイツを悪者っぽく書いてるようにもみえる。

それはともかく、朝日と同じく、産業利用の例として乗り物を挙げている。この時代の関心事項なのだろうか。発電ではないのが興味深い(実際、原子力発電の技術は軍事用、つまり当時開発中の原子力潜水艦向けの動力炉を応用するかたちで開発されたらしい)。

朝日に比べて、読売の記事は「第二の産業革命」とかテンション高め。他の記事でもウラン自体に関する記事とかもあるし、この記事でも学者のことばではなく、記者自身のことばとして原子力の有望さを強調している。当時読売新聞社社長だった正力松太郎は1956年には原子力委員会の初代委員長に就任し、日本の原子力利用を推進する役割を果たした。会社としても、当時から原子力利用に対する関心が高かったんだろう。

ちなみに、原子力潜水艦の構想は米国の物理学者Ross Gunnが1939年に示していた。戦時中の日本やドイツでも研究されていたらしいから、物理学者の間では早くからさまざまな利用が考えられていたんだろう。実際、潜水艦は1950年代半ばに実用化され、原子力飛行機も1950年代にはいろいろ実験されていた。原子力空母は1960年代に入ってから。日本で原子力発電が始まったのは1963年。同じ年に原子力船むつの建造計画が決まっている。さらにちなみにだが、手塚治虫の『鉄腕アトム』は1952年連載開始、その原型ともいえる『アトム大使』はその1年前の1951年。

前後の流れをこうやって少し補足してみると、さらに当時の空気感がわかってくる。復興への期待というか意気込みというか、そういうものがこういう記事を書かせたんじゃないかと思う。復興に気持ちを振り向けることでこれまでの軍国あれこれを忘れようとした部分もあっただろうし、エネルギー不足が日本を戦争に走らせたという反省もあったのではないか。今の感覚でみると、広島や長崎は当時まだひどい状況だったはずで、現地の人たちが見たらさぞかし感情を害したんじゃないかと今の感覚では思うが、当時はそういう発想ではなかったんだろうなあ。そもそも新聞を読むどころではない人も多かったかもしれない。

別に何か教訓を引き出そうとか政治的主張をしようとかそういう意図はない。終戦の翌日に、原子力の産業利用の可能性を報じていて興味深かったという話、これにて終了。



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