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January 03, 2015

ジブリで振り返る20世紀日本

今はどうか知らないが、ちょっと前まで、暮れから正月というのは毎年、レンタルビデオ店が繁盛する時期だった。要するに、テレビ番組が面白くないというわけだ。実際のところ面白い番組もたくさんやっているとは思うが、少なくともふだんとちがう番組編成だから見慣れないという要素もあるのだろう。別にDVDやらを借りてこなくても、今は配信でいろいろ見られたりもするだろうから、テレビではない何かの動画を見ている、ということかもしれない。

個人的にはいろいろあってなかなか時間がとれないのだが、何か見るとしたらどうだろうと考えて、そういえばと思いついたものがあった。

ジブリアニメで20世紀の日本をふりかえってみる、というのはどうだろう。

同じようなことを考える人はきっといるだろうと思うので、別にオリジナリティを主張するものではないが、ジブリアニメにはさまざまな時代の日本が描かれている。それをたどってみると、20世紀の日本の歩みの少なくとも一部でもふりかえることができるんじゃないか、というわけだ。ジブリ作品は細部がしっかり描きこまれているし、特に生活習慣や立ち居振る舞いとかは時代がよくあらわれていたりするから、そういう目で見ると面白いかもしれない。

ということで、古い方から。

(1)1900-30年代…『風立ちぬ』
堀越二郎は1903年(明治36年)に生まれた。『風立ちぬ』の冒頭のシーンは、パンフレットによれば1916年(大正5年)とある。このとき二郎は13歳だから、高等小学校1年にあたるはずだ。設計者としてのカプローニ伯爵の名声は第一次世界大戦中に確立された。二郎の家はそこそこ裕福な家のようだが、家族間の会話が基本的に敬語、というのは今だと想像しにくいのではないか。親に対する敬語もさることながら、二郎と妹の加代が敬語で会話しているところがなんともいい。「赤チンをぬりましょう。ぬってさしあげます」はちょっと萌える。とはいえ、赤チンに消毒作用があることが発見されたのは1918年だそうなので、その意味では考証ミスなのかもしれない。というか、そもそも赤チンが何であるか知らない世代の人も多いかもしれない。

関東大震災は1923年(大正12年)だった。このとき東大の本郷キャンパスは建物面積にして全体の1/3が焼失している。二郎が東大にたどりついたとき、本庄たちが運び出していたのは図書館の本だったのではないかと思うが、これらも結局は焼けてしまった。二郎が三菱に入社したのは1927年(昭和2年)。銀行の取り付け騒ぎのシーンがあったが、まさに昭和金融恐慌のまっただなかである。その原因は第一次大戦後の不況や関東大震災であり、まさに近代日本を襲った試練だった。

二郎が設計し、墜落事故を起こした七試単戦の試作機完成は1933年(昭和8年)。傷心の二郎が軽井沢で謎の外国人カストルプ氏との会話の際に言及した「ヒットラー氏の政権」はこの年、政権を奪取していわゆる全権委任法を成立させ、国際連盟を脱退した。いわゆる「ナチスドイツ」が誕生した年である。日本もその前年、満州国を成立させており、ドイツに先立って国際連盟を脱退している。二郎が特高警察に追われるシーンがあったが、小林多喜二が特高の取り調べで死亡したのもこの年だ。暗い時代の始まりである。

その後、菜穂子と暮らしながら設計し、すばらしい性能を示したガルウィングの九試単戦(後に正式採用された九六式艦上戦闘機はガルウィングではない)が作られたのは1935年(昭和10年)。この年ナチスドイツはベルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言。日本も前年の1934年にワシントン海軍軍縮条約、翌1936年にロンドン海軍軍縮条約を破棄ししている。二郎・菜穂子夫婦のささやかで幸せな生活の描写は、そうした困難な時代を懸命に生きた2人の思いを想像するといっそう輝きを増すわけだが、同時に、自らの夢の実現として戦争の道具である戦闘機を作り出すことの「業」の深さも感じさせる。

この翌年(1936年)に二・二六事件、さらにその翌年(1937年)には盧溝橋事件が起こり、日本は本格的に戦争へと突入する。二郎の設計者としてのチャンスは、こうした時代だからこそ与えられたものだ。

上司である黒川の家での結婚式の口上の掛け合いがよい。当時、庶民の間では自宅での婚礼が一般的だった。神前での結婚式が一般化したのは1900年の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご成婚以来だが、庶民の間ではまだ、自宅での結婚式が珍しくなかったはずだ。夜の結婚式は大慌てでやったのかともみえるが、当時の嫁入りは夜行われることが多かったらしいから、今考えるより違和感はなかったのかもしれない。

二郎に赤チンを塗ろうとした妹、加代は後に女医への道を選ぶ。女性医師が初めて誕生したのは1885年(明治18年)、東京女医学校(現在の東京女子医科大学)創設は1900年(明治33年)だ。当時、公立の医学校は女子を受け入れなかったようなので、加代もこうした学校で学んだのだろうか。1920年代から30年代は女性解放運動もさかんだった。女医という職業も、そうした背景があっての選択といえるのかもしれない。

菜穂子は結核治療のため高原病院に入院する。結核は日本では明治以降急速に広まり、1920年代に流行のピークを迎えた。日本結核病学会が設立されたのが1923年(大正12年)、国の結核対策が推進されるようになったのは1930年代も終わりに入ってからである。当時結核は恐ろしい病気だった。ワクチンと称するものはいくつかあり、また民間療法も多数あったが効果はなく1924年にBCG接種が国内で初めて行われたが普及は進まなかった。そうした中で、転地療養は治療法の1つとして推奨されていたが、それでも治る見込みは必ずしも高くはなかった。菜穂子が時折見せる暗い表情はそうした運命の重さを感じさせる。


(2)1940年代…『火垂るの墓』
清太と節子の兄妹が家を失ったのは1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲だった。徹底的な爆撃で神戸はほぼ壊滅状態となっている。この時点で14歳の清太は1931年(昭和6年)生まれ、4歳の節子は1941年生まれだ。原作小説の著者である野坂昭如は1930年(昭和5年)生まれであり、清太は自身がモデルとなっている。後記の通り、節子は『となりのトトロ』のサツキと同じ年である。空襲で母が死ななければ、節子もサツキのようになれたかもしれなかったのだ。

1947年(昭和22年)の厚生省調査によれば、戦災孤児は12万人を超える。うち11万人弱は親戚に預けられた。中にはあまりいい待遇を受けなかった子どもたちもいただろう。清太、節子の行動が当時の状況下でよい選択であったとは思えないし、彼らのような子どもたちがどのくらいいたのかもわからないが、少なくとも、そういうことがあったかもしれない、と思わせる程度には現実味がある。当時はすでに救護法による生活扶助を行うしくみはあったが、孤児たちに十分な保護がいきわたっていたとは考えにくい。当時の、なきに等しいセーフティネットからこぼれ落ちる子どもたちはたくさんいたのではないか。

食べるものがないという状況、どんどん人が死んでゆくという状況は、今の日本では想像しがたいが、そう遠い昔の話ではない。戦後日本の復興と繁栄がこうした人々の犠牲の上に立っているという指摘には何の誇張もない。しかし、よく右寄りの人がいうような、彼らの犠牲があったからこそ、という意味ではない。彼らの死のほとんどは無意味な犬死であり、膨大な人材の喪失というかたちで戦後の復興の大きな足かせとなったはずだ。余談だが私の父母は清太と概ね同世代にあたる。清太や節子が生き残っていたら、どんな大人になり、どんな人生を歩んだだろうか、と私自身の父母や叔父叔母などを思い浮かべてみたりする。


(3)1950年代…『となりのトトロ』
この映画の舞台となったのは、宮﨑駿本人の弁によれば1953年(昭和28年)である。太平洋戦争は終わった。1950年に始まった朝鮮戦争はこの年まで続くが、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本全体としては平和、そして復興の時代といえる。所沢には陸軍の飛行場があったから空襲もあった。サツキは12歳という設定だから、1941年(昭和16年)の生まれということになろう。前記の通り節子と同い年だが、また宮﨑駿自身も41年の生まれだ。『トトロ』は自分が子どもだった時代を描いたもの、ということになる。妹のメイは4歳だから1949年(昭和24年)生まれの団塊の世代。10歳の年齢差は、戦争によるものだろう。

父タツオは大学講師だから、一家はおそらく都会に住んでいたのではないか。とすれば、空襲の記憶などもうっすらあるのかもしれない。『トトロ』に描かれた圧倒的な明るい空気感は、そうした暗い苦しい時代を通り抜けて手に入れた平和への喜びといったものが充ちているようにもみえる。

サツキたちの母(靖子という名らしい)は、病気で入院している。病名は明らかにされていないが、作中の病院がある「七国山」と類似した地名の八国山緑地にある新山手病院(東村山市)はかつて「保生園」という結核療養所であった。サツキたちの家が和室に洋室をくっつけた、典型的な結核療養者向けの住宅であることなどからしても、おそらく結核だったのだろう。『風立ちぬ』の菜穂子を苦しめた結核は、この時代もおそろしい病気ではあるが、状況は大きく変わりつつあった。

1940年代になってストレプトマイシンが開発され、初めてまともに効く治療薬が生まれた。1948年には日本に入ってきている。また予防策としてのBCG接種も徐々に広まり、1951年の結核予防法改正で、健診から治療までの全国的な体制が整備されることになる。当初BCGワクチンはGHQから供与を受けた。サツキやメイは、BCG接種を受けていたであろう。母の靖子も、ワクチンで治療することが可能だった。菜穂子とちがって靖子は、エンディングロールで家族のもとへ帰るシーンが描かれているが、その背景にはこうした変化があったのである。その後、結核患者は急激に減少していく。今でも根絶はされていないが、かつて日本の国民病といわれた結核への恐れから概ね解放されたことが、日本社会をどれほど明るいものにしたか。

サツキたちの家にはテレビがない。テレビ放送が始まったのは1953年であり、当時のテレビ受像機は高級品だったから、一般家庭で買えるものではなかった。街には街頭テレビが置かれたが、田舎にそんなものはない。しかしこの後、テレビは急速に普及する。1960年には普及率約90%、60年代終わりにはほぼ100%となる。つまり『トトロ』の時代はテレビがなかった最後の時期ということになる。逆にいえば、テレビがない時代設定だからこそ成立した物語なのかもしれない。


(4)1960年代…『コクリコ坂から』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』
『コクリコ坂から』の原作マンガは1980年の作品だが、登場人物の服装や髪型、学園紛争的なものが出てくるところなどからして、それより古い時代かと思われる。また「駅前のマクドナルド」というセリフがあることから、マクドナルドが日本に進出した1971年(昭和46年)以降であることがわかるので、1970年代が舞台と推定する。しかし映画の方は、東京オリンピック直前の63年に設定されている。舞台は横浜。まさに高度成長のまっただなかである。オリンピックを翌年に控えた、熱くて騒がしい時代。戦争の影は、あまり社会の表には出てこなくなっていた時代だ。

主人公、海(メル)は17歳。この時期に高校生ということは1946年(昭和21年)生まれだろうか。風間は1945年生まれ。ちょうど団塊の世代のギリギリ上にあたる。『トトロ』のメイは、メルたちの少し下にあたるはずだ。1963年時点の高校進学率は66.8%、大学進学率は20.9%。大学に行って医者になりたいというメルの志望は、あの時代、誰もが持てる希望ではなかった。母・良子が大学教員であったということを考えれば、環境の影響もあるのかもしれない。文部科学省科学技術政策研究所のレポートによれば、1983年時点で大学教員の女性比率は8.4%。京大の調査では、1964年時点で京大教員の女性比率は2%以下だ。「そういう家庭」だから、という要素は否定できまい。

メルの家にはテレビがある。メルはあまりテレビを見ていないが、妹の空や弟の陸はテレビに夢中だ。彼らがテレビの前から離れたくなくておつかいを嫌がるシーンは、テレビの存在感の大きさを示すとともに、「子どものわがまま」に対する許容度の変化をも感じさせる。子どもがお手伝いをするもの、ということが常識ではなくなり始めた時期ということになろうか。

テレビから流れる坂本九のヒット曲『上を向いて歩こう』は1961年発売だが、1962年にヨーロッパ、63年にアメリカで発売され大ヒットしたため、63年に国内でも再発売されている。空が言及する舟木一夫はこの年、『高校三年生』でデビューしたばかりの新進スターだった。船木自身がこの年高校を卒業していて、年齢も近かったから、空たちにとっては同世代のアイドルということになる。

『おもひでぽろぽろ』も、子どものころのエピソードは1966年と設定されているが、その中にもテレビで『ひょっこりひょうたん島』を見るシーンが出てくる。この番組は1964年から69年まで放映された。66年に11歳だった主人公タエ子は1955年(昭和30年)生まれ。タエ子の岡島家は、『トトロ』の草壁家や『コクリコ坂』の松崎家とはだいぶちがう、厳格な父や躾の厳しい母といった「古風」な家庭だが、ややステレオタイプ的な描き方とはいえ、66年ならそういう家はたくさんあったろうとは思う。むしろ草壁家や松崎家の方が特殊かもしれない。

『平成狸合戦ぽんぽこ』は、多摩ニュータウンの開発に対する狸たちの抵抗を描いたものだ。開発の都市計画決定が行われたのは1965年である。高度成長がもたらした都市部への人口集中は、彼らのための大量の住宅需要を生み出した。それまで開発されていなかった都市近郊で大型の開発事業を行う動きはいくつもあったが、多摩はその中でも最大のものだった。当時、こうした開発における自然破壊を懸念する声は大きくはなかった。『ぽんぽこ』を「左翼的」とするレビューをネットでいくつか見かけたが、当時の左翼はどちらかというと科学礼賛の方向性だったのではないか。多摩ニュータウンにおける開発反対運動が左翼的な色彩を帯びるのは、1967年から79年までの美濃部都政の下で革新勢力が多摩地域の自治体で議席を伸ばした1970年代以降のことである。


(5)1970年代…なし
少なくとも、明示的に70年代を舞台にしたと思われる作品はないように思う。『コクリコ坂から』のパンフレットに載っていた宮﨑駿の文章に、『耳をすませば』が作られた1995年時点で『コクリコ坂』も製作候補に挙がったが、作中で描かれる学園紛争が「いかにも時代おくれ」であるという「時代的制約」によって断念した、とある。とすると70年代はまだ「時代おくれ」の範疇に入っているのかもしれない。

ジブリから離れていいなら、1979年の映画『ルパン三世 カリオストロの城』にはカップラーメンをすする銭形警部らインターポールだか埼玉県警だかの警察官たちの姿が描かれている。カップヌードルは1971年発売で、翌72年のあさま山荘事件の際に機動隊員らが食べる姿がテレビで流され、一気にメジャー化した。当該シーンはこのときのことを受けてのものと思われるので70年代と考えてよかろう。

作中でルパンが銭形を「昭和ヒトケタ」と揶揄するシーンがある。ルパンの方が年下であり、かつ「ヒトケタ」でないとすれば、ルパンは昭和二桁生まれなのだろう。原作マンガでルパンは銭形より3歳年下という描写があり、それを使うと、銭形は昭和一桁の終わりごろ、ルパンは二桁の初めごろとなる。仮に銭形を1934年(昭和9年)生まれとするとルパンは1937年(昭和12年)生まれということになる。こういう長寿作品では登場人物の生年はずれていったりするが、少なくとも『カリ城』におけるルパンは、もしこの推定に従うならば、サツキより少し年上ということになる。

(6)1980年代…『耳をすませば』『海がきこえる』
『耳をすませば』は1995年の作品だが、舞台とされる聖蹟桜ヶ丘付近の風景などはそれより10年ぐらい前のものを採用している、ということのようなので、80年代ということにする。天沢聖司の家から見下ろす街並みにはまだ空き地が目立ったが、バブル景気で風景は一変しているから、バブル直前の80年代前半、といったところだろうか。

仮に1985年とすると、当時中学3年生だった月島雫は1970年生まれとなる。定義にもよるが、概ね団塊ジュニアの世代といっていいだろう。大学生の姉もいるから、彼らの父靖也や母朝子は団塊の世代より少し上、1940年代前半ぐらいの生まれではないか。とすると『トトロ』のサツキと同世代ということになる。ちなみに聖司の祖父、西司朗が80歳ということは1905年生まれ。堀越二郎と同世代だ。

すでにニュータウンの開発は終わっている。『ぽんぽこ』で描かれた豊かな自然は切り開かれ、もはや狸たちの住む場所ではない。そこに同じ形のコンクリートの集合住宅がどこまでも立ち並ぶ。そうした、建物の一室が主人公、雫の住む家だ。雫の作った『コンクリートロード』の歌詞はそれを自嘲的にとりあげている。

とはいえ、この作品は、そうした人工的な街並みを必ずしも悪くは描いていない。雫と聖司が学校の屋上で話すシーンで描かれた、雨上がりにさす光とわずかに残る山の緑は、見る者の心を動かす美しい風景と映った。醜悪な現実の中でまっすぐに生きる子どもたちを祝福しようということなのかもしれないが、同時に、それまで醜い醜いといわれ続けてきた日本の街の風景(代わりに欧米の街並みがひたすら称賛される)の中にある種の「美」を見出そうとする方向性の萌芽だったのかもしれない。

『海がきこえる』は1993年の作品だが、原作小説は1990年に出版されているから、舞台は80年代あたりだろう。作中に、主人公の杜崎拓らがハワイへ修学旅行に行くくだりがあるが、海外への修学旅行は80年代以降のことだ。修学旅行基準改正により、修学旅行における航空機利用が「条件付き許可」になったのが1984年(昭和59年)である。1988年度(昭和63年度)に海外への修学旅行を行った高校は204校あり、その9割が私立高校だった。全国で高校は4000ぐらいあるとするとその5%ということになる。拓たちの高校も私立の中高一貫校だ(建物のモデルとなったのは高知県立高知追手前高校らしい)。海外といっても韓国とか中国とかも多かったから、ハワイというのはいかにもバブリーである。

作中に「アサシオ」というアダ名の同級生が登場するが、当然これは物語の舞台である高知出身の力士、朝潮からとったものであろう。朝潮は1989年に引退している。仮に物語の舞台がこの時期であるとすると、物語の冒頭と最後で大学に進学している拓は1970年(昭和45年)あたりの生まれということになろうか。雫と同世代だ。

ヒロインである武藤里伽子の屈折した態度は、宮崎作品のまっすぐな少女たちとは一線を画する「現実味」がある。宮崎ヒロインのように、浮かれた時代にとらわれずまっすぐ生きる姿勢を貫くことはできないが、かといってどんちゃん騒ぎにいまひとつ乗りきれもしないあたりが、同世代の人たちの共感を呼んだのかもしれない。里伽子の家族に対する醒めた目線は、日本社会における家族関係の変容を象徴するものでもあろう。


(7)1990年代…『千と千尋の神隠し』
この作品は2001年に公開された。神々の湯屋である油屋のある一帯に迷い込んだ際、千尋の父が「バブル崩壊で放棄されたテーマパーク」だと判断しているから、バブル崩壊後しばらくたってからの時期であることはわかる。千尋の父が運転するのはアウディA4の2.4クワトロで、1996年から生産されているから、90年代後半と想定する。

新車価格で500万円近い車であり、千尋の父の仕事が気になるところではある。バブル期に買ったものと想像する。そのころ景気がよくて、転勤がある業種とすると、なんとなくイメージするのは金融業界だが、うっすらヒゲが見えるので違うかもしれない。1998年にはアジア金融危機があったり消費税率引き上げがあったりで、日本経済もマイナス成長になったりしたから、この時期だろうか。勝手に1999年と想定すると、このとき10歳である千尋は1989年生まれということになる。

物語途中で「覚醒」(そうとしかいいようのない変貌である)する以前の千尋は、いかにもな現代の子どもだ。望まぬ引っ越しで友だちと別れなければならなかったとはいえ、冒頭のふてくされぶりは、『トトロ』の冒頭で同じく引っ越しの車に乗っていたサツキやメイのハイテンションとは天と地ほどの差がある。ぞうきん1つまともに絞れない生活力のなさも、40数年前の世代であるメルのてきぱきした家事とは比べるべくもない。

そんな千尋だが、物語後半では目を見張る活躍を見せる。生活力も、向上への意欲も失ったかに見える日本の子どもたちだが、本当の力は隠されているということかもしれないし、それとは別の能力を持っている、ということかもしれない。

一方、『海がきこえる』でもみられた空疎な家族関係は、ここでも顔を出している。『おもひでぽろぽろ』の厳格な父とはちがう、身勝手で子どもを振り回す父が、それを止めようとしない母と共に豚にされるという描写は、理不尽な仕打ちというより当然の報いという印象を強く与える。かつては時代や病気などがもたらした試練は、今や身近な人々との関係の中で受けるものになってきているというわけだ。そしてそれは、私たちの今の社会の姿でもある。

しかしそれは私たちの社会がこの100年で勝ち取った成果の一部でもあり、否定したからといって状況がよくなるというものではない。私たちは100年前に戻ることはできないし、戻ることを望みもしないだろう。いいとこどりをして勝手に作り上げた過去を理想化しても、それはファンタジーにすぎない。厳しい現実の中でも希望を捨てないこと、醜悪なものの中に人の営みの尊さを感じ取ることなど、ジブリ作品で描かれているのは、今の時代に生きる私たちにとって必要なスキルなのだろう。最近のジブリ作品のキャッチコピーは「生きろ。」「生まれてきてよかった。」「生きねば。」みたいなのが多いが、それは振り返ればマンガ版『風の谷のナウシカ』のメッセージに通じる。その意味で宮崎作品は一貫した流れに沿っているように思う。


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というわけで、ジブリ作品はそれぞれ舞台となった時代が異なっている。物語をよりよく理解するために、その時代背景を知ることは有益なのではないか。日本の社会が20世紀の間にどのように変わってきたかの少なくとも一端は、ジブリの作品群にあらわれている。一方的な「進歩万歳」でも「昔はよかった」でもなく、この激動の100年を日本人がどのように生き抜いてきたかを静かに振り返るきっかけを、ジブリ作品は与えてくれる。現実社会自体が事実をねじ曲げる悪質なファンタジーに満たされつつある中で、正月くらいは現実との接点を持つ良質なファンタジーに身を浸してみるのは悪くない。

もう1点。作中の登場人物たちは、その作中の年齢で印象づけられているが、その世代を意識してみると面白い。感情移入できるキャラクターの世代を意識すると、今私たちが日々接しているさまざまな世代の人たちに対する共感をしやすくなるような気がする。今生きていれば清太は84歳、節子やサツキは74歳。メルは69歳、メイは66歳。雫は(上記の想定が正しければ)45歳。拓や里伽子も同じ。千尋は26歳ということになろうか。

世代のちがう人たちの考えはまるで理解できないということが少なからずあるが、立場や考え方がちがって共感しようもないと思えるようなじいさんばあさんたちやおっちゃんおばちゃんたちにも、元気に跳ねまわった子ども時代があり、悩み苦しんだり熱く燃えたりした青春時代があったはずだ。そのことを、彼らと同世代のキャラクターが活躍するジブリ作品で振り返ってみると、くだらない世代論に惑わされず、社会に対してもう少し前向きに向き合えるようになるのではないか。

最後にもう1つ。宮崎監督には「70年代を描いた作品がないので作ってください」と申し上げたい。既に引退を発表されたわけだが、それは長編に関してであって、短編はまだ作るかもしれないやに聞く。過去の例からいって、短編のつもりが長編になっちゃったっていうことは充分考えられるので、ぜひぜひ。もちろん長編でなくてもいいので、ぜひぜひ。


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