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「いい質問」などいらない

ネットで「いい質問ができる人は出世する」という文章を見かけた。曰く、スピーチなどに対して「いい質問」が出てくる会社は全体の2割程度しかなく、残り8割はまったく質問が出なかったり、白々しい感謝のことば(いわゆる「キチョハナカンシャ」というやつだ)が述べられたりする、と。

いわんとすることはわかるんだが、こういう言説はやや危険だなあと思ったので手短に。

危険だと思うのは、こういう言説が、質問をすることへのハードルを無駄に上げてしまうという点だ。もちろん、スピーチに対して「いい質問」、つまり、スピーチの内容をさらに掘り下げたり、適切な補足を引き出して会場の理解を深めたりするような質問が出てくるのは望ましいし、スピーカーとしてもうれしいだろう。その質問をした社員を出世させたくもなるだろう。

しかし、著者が書くとおり、実際はそうではない。そして、この文章が誰に向けて書かれているかというと、そうではない「8割」に向けて書かれているはずだ。そもそもそういう質問ができる人やそういう人が集まっている会社なら、こんなわかりきったことを書かれなくても、とっくに承知しているだろうから。

では、そうでない8割の人たち、あるいは8割の会社の人たちは、この文章を読んでどう思うか。「ようし私も」と思うだろうか。それもないことはないだろうが、あまり多くはないだろう。むしろ「質問の内容はチェックされているのか。うかつに質問などできないな。やはり黙っているに限る」と考える方がふつうだろう。

そういう機会に黙っているのは、学校教育の場からずっと慣らされてきた「正解でなければ恥ずかしい」という考え方にとらわれているからだ。これは私も職業柄、学生たちに対して強く感じていることだが、ではそういう学生たちに「いい質問をする人は出世する」「いい質問をする学生は内定がとれる」と言ってみたらどうなるか。答えは同じだ。「いい質問でなければだめだ」と考える人の大半は、「ではよい質問をしよう」ではなく「では質問はしないでおこう」と考える。企業人になってからも身に染みついたその「習性」が変わらないということは、企業などで講演をする機会に確認済みだ。

そういう人たちに対してどう接すればよいか。いうまでもない。「どんなくだらないことでもいいから質問すべし」と説き続けるしかない。そもそも何が「いい質問」かわからないから質問できないのだ。それをわかるには、いい質問の前提となる深い理解や知識を身につけようとする(それは実際にはなかなか難しい)だけでなく、場数を踏むことが絶対に不可欠だ。「くだらない質問でもよいから手を挙げよ」「人前で恥をかけ」といい続けること、実際にそうやって質問をする者がいたら、くだらない質問でも歓迎していねいに答えることは、どのような場で話す場合でも私(人前で話をする立場の人の多くがそうだと思う)が肝に銘じていることである。話者が「ガッカリ」しているのがあからさまになっていたりしたら、質問者はさらに委縮してしまうだろう。

アメリカのビジネススクールで、「日本人学生にしゃべらせるのはアメリカ人学生に黙らせるのと同じくらい難しい」というジョークを聞いた。知っている限りでは概ねその通りだと思うが、ではそのアメリカ人学生がりっぱな質問や発言をしているかというと、全然そんなことはない。それでも彼らは委縮するようなことはない。なぜか。自国語であるということもあるだろうが、基本的にはそうすることに慣れているからだ。

独断をもって断言するが、企業にせよ大学にせよ、日本の大半のスピーチの場においては、「いい質問」を求める前にまず、「どんなものでもいいから質問」を求める方がよい。たとえくだらない質問でも、そこから意味のある議論に発展したり、誰かにヒントを与えたりすることはよくある。実際、個人的にも、前の質問から発展した質疑で面白い議論になった経験は少なからずあった。上の文章の著者が褒め称える「2割」の人なら、そのくらいできてもおかしくない。もしできなくても、聴衆がくだらない質問をくだらないと理解できるなら、それ自体、そのスピーチが成功だった証といえるだろう。

それでは質の悪い質問や質問に名を借りた自説開陳で質疑時間が終わってしまうではないかというのが上の文章の趣旨だろうが、そういうことは、スピーチの内容を聴衆の関心や理解度に合わせてよく練ることや、聴衆を適切に選定すること(そうすべきであるならば)、その場で司会者が適切にさばくことなどで対応すべきなのであって、一生懸命質問した聴衆にガッカリした視線を投げかけるというのは、スピーチをする側としておよそスジちがいの不満というものだ。

念のためだが、「いい質問」がスピーチをより意義深いものにすること、いい質問ができるように努力すべきであることに関しては、異論はない。だが、それが「いい質問をしなければだめだ」といった論調になってしまうと、むしろ「8割」の人を委縮させる。それはスピーチをする側としても本意ではないだろう、ということだ。

上の記事の著者の方は、政治家も含め「日本全体の質問力が低い」と嘆いておられる。もしそうなら、それは日本人全体に「いい質問ができないなら黙っているべき」という悪習が染みついてしまっているからだろう。「キチョハナカンシャ」や程度の低い質問は、そうした中で不慣れながら「空気」を読んで自ら「犠牲」になってくれた「人柱」だ。ならば、彼らを冷遇するいわれはない。「8割」の日本人に向けて出すべきメッセージはむしろ、「くだらない質問でもどんどんしよう」の方がよい。

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