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August 15, 2016

「物の怪」としてのゴジラ

今各所で話題の「シン・ゴジラ」を見てきた。なかなかよかった。レビューとかはあちこちで書かれているし、さまざまな読み解きものもいろいろな角度で出ていてそれぞれ面白いが、それを後追いしてもつまらないので、世の中の評価やら作者の意図やらとは一切無関係に、一観客としての個人的な感想を手短に書くことにする。以下ネタばれありなので観た人向け。

この映画、監督のせいかエヴァンゲリオンを引き合いに出す方が多くて、確かに類似点とかオマージュっぽいのとかいろいろあるのだろうが、あまり詳しくないし正直あまり興味もないので触れない。あと、これまた各所で話題の、みんな大好き尾頭さんについては書きたいこともないではないが、これも本題とずれるのでここでは触れない(ご興味のある向きはこちらをご参照)。

見ながら思い出していたのは初代、つまりシリーズ第1作である1954年(昭和29年)公開の『ゴジラ』だった。もちろんリアルタイムで見たわけではない。『ゴジラ』シリーズは、ゴジラが人間と戦うものと、他の怪獣と戦うものがあるが、初代のゴジラは前者、つまり「破壊者」として描かれていた。その後の作品にも「破壊者」としてのゴジラを描くものはあるにはあるが、総じて後者、特に人類の「守護者」として戦うものの方が多いのではないか(そのうちいくつかはリアルタイムで見た)。個人的には初代の、得体の知れない、圧倒的な力で人々や街を蹂躙する「破壊者」としてのゴジラが最もゴジラっぽくて気に入っている。

『シン・ゴジラ』には、初代『ゴジラ』を思い出させる仕掛けが随所にみられる。そもそもゴジラが水爆実験によって生まれ、「ゴジラ」という名が大戸島の言い伝えに由来するなど、基本的な設定は同じだし、進撃ルートも初代ゴジラの上陸地点を通って比較的近いと思われるルートで都心に向かい、ちょっとやり方はちがうが初代が叩き壊した銀座の和光をはじめとする東京中心部のビル群を破壊し、火の海にする。音楽もゴジラの声も、初代のもの(その後のシリーズ作品のものも)が使われている。そういう類似点の指摘やロケ場所のあれこれは他の人に任せるが、もちろん面白い。

とはいえ、共通点として個人的に強く印象に残ったのは、ゴジラがもたらす圧倒的な「災厄」のイメージだ。初代ゴジラにも共通するが、それはそれぞれの作品が作られた時代を反映している。最初の『ゴジラ』は1954年、つまり終戦から9年後に公開された。朝鮮戦争に伴う特需もあって急速に復興が進む中だが、まだ戦争の記憶が鮮烈だったころだ。つまり、ゴジラがもたらす「災厄」はまぎれもなく戦争をイメージさせるものとなっている。作中で逃げ遅れた母子の母親が子に向かって「もうすぐお父様のところへ行くのよ」と語りかけるシーンは多くの日本人が戦争中の空襲を思い出しただろうし、水爆実験により生まれたとの設定は当時問題となっていたビキニ環礁での核実験を反映したものだ。ガイガーカウンターで放射能を測定するシーンは原爆の被害を思い出させただろう。

今回の『シン・ゴジラ』公開は2016年、つまり2011年の東日本大震災から5年後にあたる。300万人が死に多くの都市が灰燼に帰した戦争に比べれば、震災の被害は大きいとはいえないが、平穏な暮らしに慣れた現代の私たちに与えたインパクトは十二分に大きかったといえるだろう。ゴジラが呑川を遡上するシーンで見られた、ボートを押しのけて水が押し寄せるシーンは、震災時に数多く記録された、津波の記憶を鮮烈によみがえらせる。逃げ惑う人々、避難所で過ごす人々、政府の対応のもたつきも記憶に新しいし、放射性物質拡散のようすを示した図は震災によって引き起こされた原発事故の際に私たちが見たものとよく似ていた。

作り手の意図はともかく、両作品に共通して私が感じたのは、ゴジラの破壊神としての圧倒的な力が、観客の心の反映でもあるのではないかということだ。それは戦争や大地震、原水爆や原発事故のような、大きな被害や衝撃を与えた災厄が、数年を経過し、記憶として昇華されていくことであり、また、それでもなお残りかつ逆に増幅する不安や恐れ、不満やいらだちを象徴するものでもあり、同時にままならぬ現状をすべて破壊してしまいたいと願わずにいられない衝動のあらわれでもある。

古来、人々のこうしたさまざまな思いを受け止めてきたのは「物の怪」や「妖怪」のような存在だった。恐ろしいものや理不尽なこと、わけのわからないものと折り合いをつけるため、あるいは人に戒めを与えるため、人々はさまざまな超自然的存在を想像してきたのだ。科学や技術の発達とともにそれらの多くは忘れ去られ、あるいは娯楽コンテンツに変容していったが、今もなくなったわけではない。現代の「妖怪ウォッチ」などはその末裔ということになるが、そうした娯楽の中にも、やはり人々の不安や恐れ、不満やいらだちなどを反映した部分は残っている。同じような意味で、娯楽映画のキャラクターとして誕生したゴジラも、これら「物の怪」の末裔の一種といえるのではないかと思う。

最初の『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』の双方に共通する「戒め」の要素はおそらく、最も恐ろしいのは人間そのものだという点だろう。ゴジラが水爆実験で生まれたという出自自体がそのことを如実に示しているが、他にもある。『ゴジラ』においては、戦車の砲撃や戦闘機のミサイル攻撃がまったく通じなかったゴジラを倒した「オキシジェンデストロイヤー」を開発した芹沢博士が、核兵器に勝るとも劣らない威力をもつと思われるその技術の兵器転用を恐れ、自らの命とともにそれを葬り去る。『シン・ゴジラ』においては、ゴジラを倒すために東京に核兵器を落とすという恐ろしい決断を国連が平然と下す。

ゴジラはそれ自体が人間には理解不能な災厄であると同時に、それよりさらに恐ろしい人間の内なる「闇」を映し出す鏡のような存在でもあるわけだ。両作に共通する「ゴジラは東京に現れたあの1頭だけではないかもしれない」という示唆は、このような「闇」が完全には消すことのできないものであり、今後も人類が自らの一部分として共存し、戦い続けなければならないものであるということを象徴している。

しかし同時に、人間の叡智と勇気を最終的には信頼するという点も、両作に共通している。科学や自然が福音と災厄の両面を人間にもたらす両刃の刃であるのと同様、人間自身もまた、光と闇の双方を内包している。多くの災厄が人間自身の所業に起因するのと同時に、どんな苦難も悲嘆も人間は乗り越えることができ、実際そうやって私たちの社会は発展してきたということだ。そして巨大な災厄を乗り越えるため人々が頼るものが武力ではなく、科学の力と、現場の人々の協力と努力であるというのはある意味実に日本的ではないかと思う。

『ゴジラ』はハリウッドで2度映画化されている。最初の1998年の作品は語るに値しない駄作だが、2作めの2014年の作品は、オリジナルの『ゴジラ』へのリスペクトがよくあらわれた作品だった。今回の『シン・ゴジラ』はこの2014年版ハリウッド製ゴジラと比べても、映像面でも作品面でも全くひけをとらない出来ではないかと思う。海外でも公開されるのだろうが、幅広い支持を受けるかどうかはともかく、少なくとも日本のコンテンツをよく知るオタク層には受けるのではないか。日本と同じように「みんな大好き尾頭さん」となるかどうかはわからないが。

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