« 「物の怪」としてのゴジラ | Main | 『シン・ゴジラ』に見る日本人のアメリカ観 ( Japanese people's views of America in "Shin Godzilla") »

September 02, 2016

親に謝らせるという発想について

若手男性俳優が性犯罪の容疑で逮捕された件。

俳優・高畑裕太、40代女性に性的暴行加え逮捕」(東洋経済ONLINE2016年08月23日)

報道されている情報をみる限りでは卑劣な犯罪としかいいようがなく、その後の報道のされ方もひどいものがあった。被害者の苦痛や悲嘆は想像するに余りある。慎んでお見舞い申し上げる。

容疑者が芸能人ということもあって、この件ではそうでない場合と比べてはるかに多くの報道がなされているように思う。「元から嫌な奴だった」みたいないわずもがな的な話も多くて若干萎えるが、有名人の持つ社会的影響力を考えればむべなるかなというところもある程度はあろう。とはいえ、それにしても、と気になる部分がある。この俳優の母親である女優の「謝罪」会見と、それへの反応だ。

何かの犯罪で容疑者が逮捕された際、その容疑者が若いと、親の責任を問う風潮は一般的にある。今回は容疑者とその母親の双方が芸能人だったことで、この風潮は一層強まったように思う。母親の記者会見はテレビで生中継された。朝の情報番組の時間帯にしたのはそれを意図したものだろうが、大きな注目を集めたらしい。

高畑淳子さんが謝罪会見「舞台に立つことが私の贖罪」 長男の高畑裕太容疑者逮捕で」(ハフィントンポスト2016年8月26日)

この会見は、危機管理のプロ的には評価すべきものだったようだ。

高畑淳子の謝罪会見 危機管理のプロは高評価「極力、自分の言葉で」「非常に好感」」(Yahoo!ニュース2016年8月27日)
また、被害者に対する謝罪の意識も高く、母親としての息子への愛情の部分と、親としての責任の部分とを共に口にしていたことも評価。「仕事のことも二の次にして、しっかりと罪を背負っていかなければいけないという意識も見えました」と指摘した。

しかし、それでも不満な人は少なくないらしい。被害者に対する謝罪のことばが足らなかった、母親も休業すべき、といった意見が代表的なようだ。

高畑淳子「謝罪会見」の涙の意味は? 被害者を無視の声も」(livedoorニュース2016年9月日)

CMなどの仕事にも影響は出ているらしい。

かどや製油 高畑淳子出演のCM自粛…花王に続き長男逮捕影響」(Yahoo!ニュース2016年8月31日)
淳子は事件が発覚した23日現在、同社のほか花王(ウルトラアタックNeo)、KINCHO、日本生命のCMに出演していた。花王はすでに放送を休止。日本生命は「引き続き対応を検討していく」としている。KINCHOは7月で放送が終了しているが、ネット上のCM映像は現在も公開されている。
(中略)淳子は年内は予定通りに活動し、その後は当面、休業する意向という。

理屈でいえば、すでに成人した子供の犯罪に対して親の責任を問うことは、必ずしも当然のこととはいえない。もちろん責任のある場合もありうるだろうが、成人した以上自分の行為の責任は自分でとるべきというのが基本だろう。なんでもかんでも親の責任を持ち出すのはちょっとやりすぎだ。

高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?」(ハフィントンポスト2016年8月26日)

とはいえ、特に成人したとはいえまだ比較的若い子の場合、親の責任を問いたくなるのはある意味自然な感情でもあろう。似たようなケースではいくつも炎上事例があるが、いずれも親としての責任の受け止め方が充分でないという批判だったように記憶している。理屈はともかく、こうした考え方をする人はこの社会の中にたくさんいるのだろう。母親出演CMの自粛も、そうした世論を配慮してのものかと思う。こうした自然な感情自体を否定するつもりはない。

これが気になるのは、こうした考え方が、おそらくだが、「子と母親」のような濃い間柄に限定されるようなものではないのではないか、という思うからだ。たとえばこういう件。

佐賀・龍谷高校が出場辞退 野球部員が喫煙、部室ぼや」(J-CASTニュース2016年7月23日)
学校によると、火災があった21日に部室で喫煙したのは3年生部員4人で、うち2人は佐賀大会の登録メンバーだった。
<高校野球>秋季大会、北照が出場辞退 部員の暴力事件」(毎日新聞2016年8月30日)
同校によると、練習態度が悪いとして6月に上級生の部員が下級生の部員の顔をたたいたことが今月下旬に発覚。

あるいはこういう件。

フィレンツェの大聖堂に落書きした女子学生、現地で謝罪」(AFP2008年07月10日)
タリア・フィレンツェ(Florence)の「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁に落書きをした岐阜市立女子短大の学生(19)が9日、松田之利(Yukitoshi Matsuda)学長に伴われ、自費で同市を訪れ謝罪した。 「迷惑行為の学生、USJに謝罪 神戸大が発表」(J-CASTニュース2013年4月 9日 )
神戸大は事件について事情聴取した上で、問題となった学生とともに「集客施設」を訪問し、謝罪させた。

高校野球に限らず学生スポーツの世界ではこういう「連座制」めいたペナルティは珍しくない。不祥事を起こした生徒・学生は一部でも、責任は全体に及ぶ。またプライベートな旅行や娯楽の際に起こした不祥事を、たまたまそのとき在籍していたにすぎない学校・大学が謝罪することが当然と受け止められる。私生活まで細かに指導・監視しているわけではないのに。

学校などだけではない。会社や自治体などの組織でも、従業員の私生活上の不祥事に関して謝罪を迫られることは日常茶飯事だ。会社や自治体が職員の私生活に干渉したらそれこそ問題ではないかと思うのだが、「信頼を損ねた」という理屈ですべてがまかり通り、「今後は指導監督を徹底いたします」でしめくくる謝罪が繰り返される。組織としての不祥事であれば、否応なく全構成員が巻き込まれる。原発事故の後、原発とはまったく関係のない仕事をしている東電社員までもが批判の矛先を向けられたことは記憶に新しいだろう。

これらは単に、「監督・指導すべき責任を負う者がその義務を怠った」という類の話だけではなかろう。むしろ、何か不祥事が起きたときに「すまなそうにしてなければならないのは誰か」という要素の方が大きいように思われる。「子の犯罪を親は謝罪すべき」と考える傾向のある人は、「社員の私生活上の不祥事を会社は謝罪すべき」と考える傾向があるのではないかと想像する。たまたまこの件では、親が有名人だったことで矛先は専ら親に向かった。容疑者の親が一般人なら、矛先は学校や企業に向かったかもしれない。何か憤りたいできごとがあったとき、私たちは本人だけでなく、本人以外の誰かに謝らせたいのだ。それも、謝らせることで私たちが留飲を下げられる、何か大きな存在に。

これを敷衍すれば、若干飛躍っぽいが、日本人海外旅行者の不埒なふるまいの責任は日本人全体が負わなければならない、みたいな話につながる。海外の人たちから見れば、ほんの数人の日本人旅行者が海外でよからぬことをすれば、日本人全体のイメージが低下する。しばらくは神妙にしていないと、何かいわれてしまう。戦争中の日本人のふるまいが原因で今でも日本や日本人に嫌悪感や敵意を抱く外国の人はアジアや欧米に少なくないが、それもこの延長線上にある。そんなバカなという人は、日本国内で不埒なふるまいをした外国人の話を聞いて、当該国の人々全体、あるいは外国人全体に対する印象を悪くしたことがないかどうか、考えてみるといい。

生活保護受給者の一部がそれを無駄遣いしていることで、受給者全体が白い目で見られる。一部の精神障害者が犯罪を犯せば、精神障害者全体が危険視される。これらも同じ流れといえる。

つまり、「子の責任を親に問う」態度は、「学生の私生活上の不祥事の責任を学校に問う」ように、誰かの落ち度を理由としてより大きな存在に責任を問う態度全般と地続きなのではないか、ということだ。どの範囲まで「責任」が及ぶかは、批判する人にとっての「内」と「外」の境がどこかによって決まる。「内」、つまり自分たちの仲間とみなす人たちでない「外」の人たちのことはよくわからない。だからみんないっしょくたにして、全体としての「信頼」を問題にするわけだ。

繰り返すが、こうした考え方をすること自体は私たちの多くが自然に備えている心の動きであって、それ自体をいちがいに否定すべきではない。しかし、こうした考え方は、簡単に、どこまでも拡大でき、そうなった場合、誰もが批判の矛先をいつ向けられるかわからない状態に置かれることは意識しておく必要がある

自分だけは例外ということはありえない。同じ地域に住んでいる人が保育園建設に反対すれば自分の意見に関係なく「あの地域は住民エゴがひどい」といわれ、同性の誰かが異性を見下した発言をすれば同性全体がいっしょくたにされてミソジニーだのミサンドリーだのと叩かれる。ソーシャルメディアが発達した現代、矢はいつどこから飛んでくるかわからない。

本件の母親である女優が、息子である俳優が犯したとされる犯罪に関してどのような責任があるのか、私は詳細を承知しておらず、具体的に論じられる立場にはない。しかしそれは、芸能ニュースを貪るように見て憤ったり嘆いたりしている世の中の多くの人とて大きくは変わらないだろう。量だけは膨大だが実質的な内容はほとんどない、マスメディアに流れるどうでもいい情報だけで人に評価を下すことは本来できないはずだ。

もしそれをやりたいのであれば、私たちは、同じ矢がいつ自分に向けて飛んでくるかわからない状態に置かれることを許容しなければならない。今は有名人でなくても、社会全体から責められる立場に容易に転落する時代だ。社会のあり方を選ぶのは私たち自身なのであり、どういう選択をしようが皆がそれでいいというならかまわないのだろう。しかしどうも見ていると、自分が常に責める側にいると思い込んでいる人が多いのではないかと思われる。それが気になる点だ。自分に矢が飛んできてから騒いでも遅い。

個人的には、しゃかりきになって誰かに責任を負わせようとするからこうなるのだよなあ、などとぼんやり考えている。全体としてもう少しゆるい世の中でもいいように思う。個人の気持ちとして、自然に生じる瞬間沸騰のような憤りを抑えるのは難しいかもしれないが、少なくともそれを外部に表明する前にいったん冷静になって考える。それが理性というものではないかと思うのだが。

|

« 「物の怪」としてのゴジラ | Main | 『シン・ゴジラ』に見る日本人のアメリカ観 ( Japanese people's views of America in "Shin Godzilla") »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 親に謝らせるという発想について:

« 「物の怪」としてのゴジラ | Main | 『シン・ゴジラ』に見る日本人のアメリカ観 ( Japanese people's views of America in "Shin Godzilla") »