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戦争の何がこわいか

毎年8月になると、戦争に関するテレビ番組が数多く放映される。民放でもいい番組たくさんあるが、特にNHKのドキュメンタリーは見ごたえのあるものが多い。今になって発見される新資料や今しか得られない新証言、新技術で可能になった新たな切り口の分析など、過去をていねいに掘り起こして新たに検証し、残していこうという試みがさまざまなされていて、飽きない。

で、いろいろと見ながら、本筋からやや離れつつ、つらつらと考えたことを手短に。

最近の世相が戦前と似ている、あるいは戦前に回帰しようとしている、と評する主張を見かけることがある。適当な記事はないものかと思ってぐぐったらそのものずばりのタイトルの書籍があった。

山崎 雅弘『戦前回帰』

読んでないから内容はよく知らないが、アマゾンの書籍紹介には次のように書いてある。

「国家神道」「国体明徴」「八紘一宇」……かつて熱病のようにこの国を覆いつくし、そして敗戦と同時に歴史の表舞台から消えたと思われたこれらの思想や概念が、二十一世紀のいま、姿を変えて復活しようとしている。

これは一例だが、他にもいろいろな人が似たようなことを主張されている。たくさんあるので1つだけ。

東大名誉教授・石田雄氏 「戦争に向かった戦前と似ている」
(日刊ゲンダイDigital 2014年7月7日)

この種の主張はみたところ概ね現政権に対し批判的で、中には現政権自体が戦前回帰を狙っていると論じるものも少なくない。戦前、戦中の生まれの人であるケースも多いが、メディアがそうした人を選んで発言を求めているのかもしれない。指摘されている点は多岐にわたるが、主なところは法や政策、軍事、メディア、教育、宗教あたりだろうか。いずれも戦前の日本が現在と比べて特徴的とされる領域だ。

戦前の何がいけないかについても、いろいろな主張があるようにみえるが、突き詰めるとやはり、このまま進むと戦争になって人が死ぬ、あるいは権力によって人権が蹂躙される、というあたりに行きつくように思われる。要は「軍靴の足音が」とか「暗黒の時代に」みたいな話だ。

一方、今は戦前とは違うという主張もたくさんある。これも1つだけ。

「いま日本は戦前と同じ道を歩んでいる」という怠慢な論法の危険性
(アゴラ 2015/05/15)

その論拠も、法制や社会経済のシステム、国内外の情勢や技術水準、政治体制から文化に至るまで多様だが、総じていえば多くは現政権を支持している意見が多いように見受けられる。中には、現政権支持というより、現野党やその他の「戦前回帰」を主張する人々への反発もあってそうした主張をしているように見受けられる人もけっこういるようだが。

右対左、保守対リベラル、若年層対高齢者、その他いろいろに整理する人がいるが、どれも当たっているような当たっていないような複雑な状況のように思う。まあ現実というのはそういうものだろう。どうくくってもその中にはいろいろな人がいるわけだが、あえてくくるなら、どの立場でも、自分と違う意見の人たちはひとくくりにして、意見を単純化したり極端な例を引き合いに出したりして批判する人が多いようにみえる(これは自分も例外ではない)。

以上をふまえて、さて。

実際、戦前と同じか、同じ方向に向かっているかとストレートに考えると、異なる部分は多い。現代の戦争はかつてのような総力戦ではない。そもそも天皇の位置づけや政治制度、国民の権利だって全然ちがうし、経済の豊かさや社会福祉の水準も比べものにならない。批判された安保法制も組織的犯罪処罰法改正も、戦前とはまったく異なる法体系の上に成り立っていて、実際の規定もそれなりに制約がかかっている。何より今の政府は韓国や台湾を自らの国土と考えてはいないし、大東亜共栄圏を樹立しようとも満州に進出しようともしていない。

極端な主張をしている人は実際にいて、それが現首相の一派であるという意見がある。実際そうした人たちの中には比較的近しい人もいるようだし、さすがに本人は立場柄、自らそうした発言をすることはないようだが(「忖度」してまわりの人が代わりにやってくれるのかもしれない)、野党時代、あるいはそれ以前には、本人自身も、教育やメディアへの圧力と評される発言などが目立った。海外のメディアでは現首相をright wingとかnationalistとか評することがよくあるが(たとえば以下のもの)、本人にそういう部分がないのかといえば実際にあるのだろうと想像する。

The Abe habit
The Economist, Dec 17th 2014

とはいえ、今の社会と戦前の違いは明らかであり、文字通りの意味で「戦前」の状態に回帰するというのはあまり説得力のある主張ではないと思う。何かの政策や立法などについて、戦争や戦闘に巻き込まれるリスクが高まると言いたいならそのように言えばよいし、人権侵害のおそれが強まると言いたいならそのように言えばよい。戦前を持ち出すことでよけいな文脈が持ち込まれると、議論が無駄にややこしくなる。ましてや現首相をヒトラーにたとえるかのような極端な言説は冷静な議論を不可能にするという点で有害以外の何物でもない。

そうはいうものの、最近の情勢をあまり好ましいとも思っていない。この時期のことゆえつい関心が「戦争」に向かいがちなのでという要素もあるが、最近放映されたさまざまなテレビ番組を見ながら、戦争はいかんなあ、これは気をつけなきゃいかんなあ、という思いを新たにした。

何がこわかったかというと、戦争そのものというより、戦争に踏み込もうとする社会の状況だ。順不同で思いついた順に挙げると、たとえばこのような状況。

◎売り言葉に買い言葉でやりとりがエスカレートするうちに引っ込みがつかなくなる
◎世論やメディアがより強硬な対応を迫り指導者がそれに逆らえなくなる
◎異論を唱える者を寄ってたかって潰そうとする
◎後からみればどうみても非合理的な決定を「しかたない」と受け入れる
◎実態を顧みず精神論で意思決定する
◎「自分はやった、お前はやらないのか」といった強制が起きる
◎意思決定する一部の人の個人的な事情や利害で左右される
◎失敗を分析せず蓋をして闇に葬る
◎意見や利害を異にする人たちに対する想像力を失い平気で傷つける

ここ数日のテレビ番組では、かつての日本が戦争に踏み出し、国内外に膨大な死者と取り返しのつかない破壊をもたらした過程で、これらがどのように蔓延していたかがはっきりと示されていた。政府や軍人だけではなく、政府を監視すべきメディアにもまじめで純朴な国民にもあったし、日本だけではなく戦勝国の側にもみられた。もっといえば、戦後の復興の過程にもこれらはあったし、今私たちが住む社会にも同じようなものはある。世界各地で戦火やテロの脅威にさらされる国や地域でもふつうにみられる。

つまり、戦争の教訓は決して過去のものではないということだ。むしろそれは、人間や人間の社会が共通に持つ暗部というべきなのかもしれない。

戦争に向かう社会では、こうしたものが一気に噴出するだろう。それまで曲がりなりにも通用していた合理的な考え方や冷静な議論が押し流され、熱狂と威勢のいい言葉が支配する状況が訪れる。9.11テロ直後の米国の状況を覚えている人は少なくないだろう。日本国内で大きなテロが起きたら、あれと似た状況にならないと断言できる人はいないのではないか。「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態が本当に発生したとき、特攻を生み出し組織的に実行した国でどのような「勇ましい」意見が飛び出すだろうか。

テレビでは、私たちの想像を超える過酷な状況を生き残った人たちが、「戦争はいけない」と繰り返している。「命は最も大事だ」という意味だろう。それが「命より大事なものがある」に変わる瞬間を知っているがゆえに、その証言には重みがあるわけだが、そうした人たちのほとんどはもうこの世にはいない。ここ数日のテレビ番組を含め、そうした人たちの証言を残す作業が行われていて、その一部は残されるわけだが、それとて実際に経験していない人々がその真意を理解することは日増しに難しくなっていくだろう。

「歴史は繰り返す」という古い言葉があるが、「二度目は喜劇」かどうかは別として、まったく同じように繰り返すことはそれほど多くないだろう。時代が変わればその時代なりの繰り返し方をするはずであり、あるいはまったく別と思われるものの中に共通の要素がみられるといったかたちである場合もあるかもしれない。

そうした「共通要素」の種を見たような気がした、というのが、ここ数日のテレビ番組を見て感じたこわさだ。もはや戦後ではない、というのはその意味で正しい。では戦前といえるか、というとそこまでは至っていないだろうが、「種」が既に私たちの社会の中に埋まっているのは確かであり、何かのきっかけで芽を出す可能性は充分にある。そのとき牙をむいて人々に襲いかかってくるのがミサイルなのか体に爆弾を巻いたテロリストなのかはわからないが、その中に必ず「世論」や「メディア」が含まれているであろうことはほぼ確信をもって予測できる。精神論や価値観の押し付け、その他のもろもろももれなくついてくるだろう。

「現代社会は言論の自由があるから戦前とは違う」と主張する人たちは、そうした状況下でも「言論の自由」を擁護してくれるだろうか。「武力に頼らず外交交渉で解決すべき」と主張する人たちは、そうした状況下でも同じように主張し続けてくれるだろうか。

とりとめもない話なのでこのへんでやめる。政治家でも当該分野の専門家でもない私としては、具体的にこうすべきという特段の案を持つわけではない。ただ「戦争はやだなあ」とつぶやくのみだ。少なくとも、これもまた世論の一部であるかとは思うので、しかるべき方々におかれてはぜひしかるべくご対処の程お願いしたい。

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Comments

◎後からみればどうみても非合理的な決定を「しかたない」と受け入れる
というのは、二言余計というか、状況を限定しすぎだと思います。
本当は
[A](後からの時点だろうが当時の時点だろうが関係なく)どうみても非合理的な決定を「しかたない」と受け入れる
のはずです。

もし、例の二言が必要ならば、その決定には当時としては合理的に見える見方がまだ残っていたはずです。
ならば受け入れ方は「ひょっとしたら(その見方は後でも通用するかも。)」と、希(まれ)とはいえ望みを持ったものになるはずです。
[B]後からみればどうみても非合理的な決定を「ひょっとしたら」と受け入れる
「しかたない」には希望はありません。
「この仕方以外に望みは無い。しかも、この仕方でも望みは無い。つまり、どの仕方でも望みは断たれている。」絶望です。
よって、「しかたない」と人々が受け入れるためには、後からでなくても当時の時点で既に、どうみても非合理だとそれらの人々は自覚している必要があります。

末期の「一億総玉砕」を考えれば、恐らく、[B]はないでしょう。(恐らく。裏を返せば、原子爆弾研究は枢軸国側にもあるので、「ひょっとしたら…」。)

つまり、戦争の怖さは最初の「◎後からみれば…」より怖いものです。
[A改]どうみても非合理な決定だ、と自覚している人が、「しかたない」と受け入れる
他の怖さの殆どは、自覚してない人が原因です。(正確には必要条件。無自覚な人がいても重要ポジションについてなければ…。)
究極的には、適切な対象をタイムマシンで拉致して、後世からみた後知恵を見せつければ、何とかなります。
でも、[A改]と
◎売り言葉に買い言葉でやりとりがエスカレートするうちに引っ込みがつかなくなる
だけは、タイムマシンでのカンニングが効きません。
わかっててやってるんだから。
しかも、他の怖さと違って、[A改]を体現していた人は当時の日本国民の9割くらいを占めていたはずです。
他の怖さを体現する人は、特定の役職に就くとか脅迫するとか能動的に行動を起こさなければならないけど、[A改]にはその必要がありません。
そしていつの時代も、人口の9割には、生活の糧を得るなど、能動的に行動を起こさねばならない用事が他にあるものです。

恐らく人口に比例して、戦争の原因の9割は、[A改]によるものです。
そして、未来の戦争の9割は、[A改]が原因なので、技術が進歩して誰でも未来を手軽に覗き見できるようになる(すごい進歩だ!)だけでは回避できないでしょう。
未来を覗き見する技術で、その到来の過程一部始終を誰もが分かっているのに。
(そんなSF作品あったっけ?「ペイチェック 消された記憶」は違う。)

Posted by: A-11 | February 25, 2018 01:00 AM

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