「加賀百万石」という地雷ワード
ことばは文脈によって意味が異なることを実感するというのは、文脈の異なる人が交流するソーシャルメディアではよくある経験だが、今回もその類の話。知ってる人にとってはもとより当然の話なんだろうが、私にとっては面白かったので手短に書いてみる。
もともとはこのツイートだった。見ての通り、Togetterのあるまとめに対してのコメントだ。
百万石なのは前田家であって下々は無関係だろう→ .@bbawithggi さんの「埼玉県の逸話『十万石まんじゅうを金沢へのお土産に持って行ったら「うちは百万石ですけどね」と鼻で笑われた』→全国の石数..」をお気に入りにしました。 https://t.co/MNNSb9iubU
— Hiroshi Yamaguchi (@HYamaguchi) 2018年2月6日
ふつうにみれば、このコメントは「前田家の人でもないのに、そこに住んでるだけで100万石だって自慢するの変だよね」という意味にしか読めないだろう。少なくとも私はそのつもりで書いたし、それ以外の意味は考えもしなかった。それが私の「文脈」であったわけだ。
同じ意味で私は、スポーツのファンなどが贔屓の選手やチームの勝利をわがことのように自慢したり、負けた対戦相手のファンに対して勝ち誇ったりするのを違和感をもって眺めている。「勝ったのはあなたじゃないよね?」と問い詰めたくなるわけだ。当然、日本人がノーベル賞をとったときにあたかも自分がとったかのように自慢したり、他国を腐したりするのも大嫌いだ。
かつて石高100万石の藩だった地域に住んでいようが10万石の藩だった地域に住んでいようが、その人の価値にちがいが出るわけでもないし、加賀百万石煎餅がふくさやの十万石まんじゅうより10倍おいしいということもなかろう(どちらも食べたことないけど)。「「うちは百万石ですけどね」と鼻で笑われた」というのはおそらくネタだろうが、そういう考え方が実際にあるからそういうネタが成立するんだろうから、それはいかがなものか、というのが主旨だ。
ところがその後、「加賀百万石は富山藩と足しての数字である」という指摘がぽつぽつ来るようになった。その中にはどうもつっかかるような、攻撃的なニュアンスを感じるものが複数あったので、これは何かあるのかと思って書いたのが下のこれ。
先日、加賀百万石は前田家ってツイートしたら一斉に「それは富山藩と足しての話だ」っていうツッコミがきて、富山藩は加賀藩の支藩で前田家の分家筋だから別にまちがってはいないと思うが、どうも富山の人たちは加賀に対して積もり積もった怨念があるらしいことが垣間見えたのが興味深かった。
— Hiroshi Yamaguchi (@HYamaguchi) 2018年2月8日
これで火が付いた。どうも「加賀百万石」自体が地雷ワードだったらしい。
反応は大きく2つの方向に分かれる。ひとつは「怨念」に関するもの。「確かにある」というもの、「聞いたことない」というもの、「いかにもありそう」というもの、「関係ないが自分のところにもある」というものといった体験談、県民性の違いを指摘するもの、歴史的経緯をていねいに(聞いてもないのに)説明しようとするものといった解説。どちらかというと「福井」側に立った意見が多めだろうか。
もうひとつが「加賀百万石」自体に関するもの。上のツイートで「加賀百万石は福井と足してのもの」とあることに対して、いやそんなことはない加賀だけで100万石あるとか新田開発がどうとか福井藩は福井県の一部にすぎず大半は加賀藩だとか富山藩と同時に加賀藩から分かれた大聖寺藩を忘れるなとかいろいろあるんだが、総じて「加賀」側に近い意見が多数を占める。中には「お前はそんなことも知らんのか」みたいな上から目線のものも散見された(知らんよそんなことどうでもいいし)。
隣接した地域同士で仲が悪いというのはよくある話で別に珍しくもないが、このネタが1000RT超の反応を引き起こすほどのものだとは考えていなかったのでちょっとびっくりした。もちろん「怨念」といっても、地域差個人差はあるだろうから福井の一部の方なんだろうとは思うが、それでもこれだけの反応があるということは、それなりの人数の方がそれなりに強い思いを持っておられることはまちがいなかろう。正直、当該地域以外の人にとっては加賀と福井のどっちがどっちでもたいして変わりない(下手するとそもそも石川県と福井県の区別がつかない人も少なくないと思う)わけだが、地元に人にとっては簡単に捨て去ることのできないものなんだろう。難儀な話ではある。
「加賀百万石」の方も、別に江戸時代の全期間を通じて100万石ぴったりだったことを意味するわけでないのは当然で、それは終戦当時人口7000万人そこそこだった国で「一億総懺悔」と言ったり、人口が1億2000万人になっても「一億総中流」と言い続けていたりしたことを思い出せばわかる。それを「百」万石かどうかであれほどこだわるのは、「百万石」を(自分のことでもないのに)自慢の種にしているから、もしくは「福井側」に腐されたのが気に入らないから、のいずれかあるいは双方ということではなかろうか。
数字を正確にしろというなら、加賀百万石(1583年時点)でも加賀百二十万石(1599年時点)でも加賀百二万五千石(1639年時点)でも加賀百三十五万石(内高)でも好きに決めたらよい。決まったらそれに従おうではないか。いずれにせよそれ自体は前田家のものであって、先祖が藩の重職でそれを切り盛りしてたとかならまだしも、そこに住んでいただけの一般庶民の(子孫の)皆さんが自慢のネタにするようなものではないのではないかな?
もちろん、自らが住む地域に帰属意識をもち、そのよいところを誇らしく思うのは全然かまわないと思うが、それを根拠にして他の地域やそこに住む人たちをバカにしたりするネタにするのはちょっと悲しい。もちろん「文脈」を共有する仲間内のネタなら別にかまわないとは思うが、何せソーシャルメディア、特にツイッターのような拡散性の高いソーシャルメディアというのは、「仲間内」の外に情報が流れていくものだし。言論は自由なので何をどう言おうが別にかまわないが、センシティブな話題というのはあるので多少は気を使った方がいいと思う。
私としては、とりあえず「加賀百万石」ということばは文脈によって「地雷」になりうることがわかったので、今後は気をつけて使うようにしようと思う。日本に限らず、こういう「地雷」はあちこちに埋まってるんだろう。とはいえ今回のやつは実害のないものだし、「まあまあ皆さん仲よくね」とお茶を濁すぐらいで締めくくりたい。いやほんとどうでもいいし。
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