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September 02, 2018

『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』 感想

上映最終日になんとか間に合って『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(Battle of the Sexes)を見てきたので手短に感想。実話ベースの話なので若干ネタバレあり。

フォックス・サーチライトの2017年作品。同年のアカデミー作品賞をとった『The Shape of Water』ばかりが注目を浴びたが、こちらもなかなかよい。

1973年9月20日にヒューストンのアストロドームで行われたビリー・ジーン・キング(当時29)とボビー・リッグス(同55)のテニスの男女対抗試合を中心に、両者がそれぞれ抱えた課題にどう立ち向かったかを描いている。

この種の試合は過去何度か行われている。さすがにリアルタイムでは知らなかったが、この試合については後で聞いたような記憶がうっすらとだがある。キングは当時圧倒的な強さを誇った女性のトッププレイヤー、リッグスはこの試合のちょっと前に国際テニス殿堂入りしている。性別と時点は違うがウィンブルドンでハットトリックを達成した大物同士。米国では大きな話題だったようで、アストロドームには3万人が詰めかけ、ABCが生中継して9000万人が見たという。本作では試合前のバカ騒ぎが当時の映像そのままに再現されている。

「再現」といえば、主演の2人の「再現度」が高い。特にキングを演じたエマ・ストーンは、髪型こそ「実物」とやや違うが、衣装は当時そのまま、表情や立ち居振る舞い、しゃべり方も含めて本人を彷彿させる熱演。筋肉をつけて体つきもテニス選手っぽくなって『ラ・ラ・ランド』のときとはまるで別人。対するリッグスを演じたスティーヴ・カレルも、ちょっと太めである以外は本人と見紛うほど。試合のシーンは比較動画があったのでご興味ある方はぜひ。ちなみにこの試合は2001年に米国でテレビ向けにドラマ化されている。断片的な映像だけで判断するのもどうかとは思うが、本作の方が「再現度」は高いように思う。

この作品が「今」作られた背景は、当時この試合が行われた背景と重なる。1970年代初頭は、男女平等へ向けた動きが世界の各地で活発になっていった時期にあたる。テニス界では1973年にWTA(Women's Tennis Association)が設立されたが、その際中心的な役割を果たしたのがキングだった。そのきっかけとなったのは、8:1にも及んだ男女の優勝賞金の差だったわけだが、それ以外のさまざまな領域でも、女性の社会的立場は現在と比べてはるかに見劣りのするものだったことはいうまでもない。この試合で彼女が戦ったのは男性優位主義的な発言を繰り返すリッグス(彼自身の考え方ではなく対戦を盛り上げるためのポーズという見方もある)や彼を支持する人々(その中には女性も含まれる)というより、女性を対等な存在として扱わない社会のあり方そのものであったともいえる。

それ以来、多くの進展があった。とはいえ、まだまだ充分とはいえない。米国では現政権下で風当りが強くなるかのような動きもある。「今は女性が優遇される社会であり男性は差別されている」といった主張だが、このような考えが一定の支持を得ていることは、米国に限らず世界の少なからぬ国でみられる現象だ。その意味でこの作品が描いている「過去」は現代の視点で振り返るべき意義を持つ。

この作品を見た第一印象は「ああそういえばあの頃はこんなだったな」という既視感のようなものだ。当時はまだ子どもだったしアメリカに住んでいたわけでもないが、「空気感」とでもいおうか。私が就職して実社会に出たのはこれより10年以上後だが、男女雇用機会均等法が施行されても巷では男女別の採用が当たり前で、「女子社員は男子社員のお嫁さん候補」みたいなことがふつうに語られていた。社会の「表」側では平等を謳っていても裏側では違うのが当たり前だった。今もそうじゃないかという人もいるだろうが、今よりもっと露骨だったし、私を含む多くの人(もちろん女性も)がそれを「そういうものだ」と受け入れていた。当然、本作の「空気感」はもっと凝縮したような感じで、就職先で感じたものはおそらく、そうした70年代の「空気感」の残滓だったのだろう。だから「ああこれ知ってる」と思ったわけだ。

もちろん、本作はドキュメンタリーではなく現代の視点で再構成したドラマだから、当時そのままというわけではないだろう。記憶はけっこう簡単に書き換えられる。本作をすべて事実と思いこむのは危険だ。巷では、この試合でリッグスはわざと負けたのだという説がまことしやかに語られているが、それを無条件で信じ込むのとさして変わらない。とはいえ、個人的に覚えがあるあの「空気感」を思い出す機会を得たことは、本作を見てよかったと思う理由の大きな1つだ。

認識はどうあれ、基本的な事実が変わることはない。試合は行われ、6–4、6–3、6–3でキングが勝った。その後女子テニスの地位は向上し、社会全体の中での女性の地位も上がっていった。この試合自体が影響を与えたかどうかは別として、時代の転換点の象徴として現在に至るまで語られ続けていることも、否定しようがない。キングはテニスだけではなく女性や同性愛者の権利向上のための活動をその後も続け、2009年には大統領自由勲章を授与されている。道半ばとみる人は多いだろうが、少なくともあの頃と比べて大きく変わったとはいえる。今、その「原点」を振り返ることの意義は決して小さくはない。

本作でもう1つよかったのは、敵役としてのリッグスを「悪者」とは描かなかったことだ。ギャンブル依存症で妻から離婚を切り出されたのに、起死回生の一手が「女性チャンピオンとの対戦」という「大博打」、というのは笑うしかないが、そういうどうしようもないところも含めて愛すべき存在として描かれ、おちゃらけたさまざまなパフォーマンスにも下り坂の「悲哀」がつきまとう。実際、この時期は米国を含む各国で離婚率が上昇していて、特に米国では1965年から75年までの10年間で離婚率がほぼ2倍になっている。女性の権利向上への動きと無関係ではないだろう。リッグスの「悲哀」は概ね自業自得とはいえ、選手として最も活躍できたはずの時代を戦争につぶされたことも併せ考えると、時代の流れが生み出した「被害者」の趣もまったくないではない。

この試合がどう影響したのかはわからないが、結局、リッグスは離婚することなく生涯を終える。一方キングは、離婚して女性のパートナーと暮らすことになる。ある意味対照的だが、どちらも「幸せ」のかたちではあろう。そういう意味で、実際の試合がどうだったかは別として、本作が描いたのは「battle of the sexes」、つまり男女の戦いそのものではなかったのではないか。彼らは男女の戦いを通して自分自身の直面する課題と戦い、それぞれが勝った。そんな気がする。

前にも別のところで書いたことがあるが、「battle of the sexes」はゲーム理論の有名なモデルの1つを指すことばでもある。好みの異なる男女が一緒に行動することを前提としてどちらの好みを優先するかという問題。たとえ自分の好みでなくても1人よりは2人がいいという場合、どちらかが譲ることとなる。複数の均衡状態があり、いわゆる混合戦略としてどちらにするかを確率的に決めてもよい。選択肢自体やそれを選択した場合の利得を変化させることができれば、解は無限に存在しうる。

つまり、女性の社会的地位や権利の向上は、必ずしも男性から「奪い取る」ものばかりではない、ということだ。社会全体の決まったパイを奪い合うゼロサムゲームではなく、社会自体が変化する中で、能力や好みに応じて自ら設定したゴールをめざすようなものであれば、それぞれがより納得感のある生き方ができる。多様な考え方、ものごとのあり方を許容することで、社会はもっとよくすることができるのではないか。甘い考えのようにもみえるが、そういう前向きな姿勢を思い出させてくれる映画だったように思う。劇場で見るのは難しいかもしれないが、昨年の作品なのでもうディスクが発売されている。あと、つけたしみたいだが音楽がいい。特にキングのテーマは彼女の心の揺れをよく表現している。あわせてぜひ。

※追記
関連記事をnoteの方に書いた。
Chauvinist Pigについて

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