例の特集を読んでみた
あちこちで話題になっている『新潮45』の例の特集。読まずに批判するのもどうかと思ってどこか道ばたに落ちてないかなと下を向きながら歩いてみたが見つからなかったのでしかたなく買った。この雑誌を買ったのは2度目。最初のときもあんまりな特集でネタとして買ったが今回もまあそんなところ。こうしてさぞかしたくさん売れたんだろう。よかったね。
で、例の特集。全部で7本の「論文」がある。知ってる人も何人かいるが知らない人もいて、よく探してきたなと思う。以下、簡単にまとめ。
(1)藤岡信勝「LGBTと「生産性」の意味」
杉田論文へのきっかけとなったとされる尾辻かな子衆議院議員のツイッター発言を、誤読であり「もしこれが意図的な「誤読」なら、尾辻氏は優秀なデマゴーグということになる」と主張している。挙げられた尾辻議員の発言はこれ。
⑤ 子どもを持たない、もてない人間は「生産性」がないと、人の生き方に「生産性」という言葉を使って評価することは公人のするべきことではありません。「生産性」という言葉は削除頂きたい。→
— 尾辻かな子 (@otsujikanako) 2018年7月20日
これに対し、こう反論する。
杉田氏が書いたのは、①税金という公的資金を投入するかどうかという社会的決定の文脈の中で、②公的資金を少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準として、③LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置付けられる、というだけのことだ。
あれそうだっけ、というわけで確かめてみる。実際の杉田論文での記述はこう。この前後は切り離してこの部分だけ読んでも当該用語の意味は変わらないので省略。
例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
これが「少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準」についての主張だというのはどうみても誤読だ。「少子化対策」は「子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使う」ことにかかっているのであって、その次の「LGBTのカップルのために税金を使うこと」は少子化対策に限らず「税金を投入すること」一般にかかっているとみるのが適切だろう。少なくともその点についての批判は適切ではない。
それ以外の主張は・・「社会科学の理論では人間の「生産」「再生産」などの言葉が分析概念として普通に使われている」との指摘はまあその通りではある。ただ杉田議員がその意味で「生産性」を使ったとは常識的に考えにくいので、反論としては根拠が薄いのではないか。
(2)小川榮太郎「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」
ほぼ全文にわたって論外なのでいうべきことなし。「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」そうである。これだけで充分であろう。そういえばこの人、歴史的仮名遣いの人じゃなかったっけ。いつの間にか宗旨替えしたのか、それとも新潮社に言われたのか。
(3)松浦大悟「特権ではなく「フェアな社会」を求む」
まっとうな論考。そもそも杉田論文におけるLGBTへの税金投入への批判自体がスジちがいで税金の使い道でみるべき場所は他にあると指摘していて、これだけで杉田論文の根幹部分の少なくとも一部を一刀両断にしている。とはいえこの論文の最も重要な点はそこではなく、杉田論文が「変化についていけない保守的な人々」の気持ちを代弁しているという指摘だろう。
この点は世界的な潮流とも合致していて、いわばこの時代を象徴する問題でもある。リベラルな人たちがこの問題に正面から向き合っていないという感覚を共有している人は少なくないだろう。もちろん、リベラルな人たちの間にも急速な変化にとまどっている面はあるはずで、どちらもどちらという感はある。
与野党のLGBT法案について、与党案を評価する一方で野党案については「心の中の状態にまで踏み込んでペナルティを科す」として危惧を表明している。この危惧には賛同するが、一方で「10年後の世界一を目指す」方針を表明したものとして紹介している自民党に関して、そもそも杉田論文に代表されるようなLGBTへの態度は杉田議員個人というよりそもそも自民党の中に深く根付いたものなのではないかという疑問を禁じ得ない(そもそもこの党はこの手の矛盾を平気で飲み込み本音と建て前を使い分けることによって与党であり続けてきたのだし)。その点松浦氏がどのように考えるのかは聞いてみたい気がする。
(4)かずと「騒動の火付け役「尾辻かな子」の欺瞞」
杉田論文というより、尾辻かな子議員に対して「なぜ、同じ国会議員でありながら尾辻さんが直接杉田さんに対話を求めなかったのか」と問うている。「Tの方は自らの性別に違和感があるという性自認の問題があり、LGBとは抱えていることがまるで違う。LGBTの中でもLGBについては社会的弱者でも何でもない、支援の必要は一切ない」と主張し、尾辻議員にとって「LGBTとは今もこの先もお金を産み出してくれる存在」だから「永遠に弱者でいてもらわなければ困る」と糾弾している。尾辻氏については特に知るところはないので「へえそうですか」という以外にないが、「LGBについては支援の必要は一切ない」という主張がLGBの方々の総意なのかどうかは気になる。
(5)八幡和郎「杉田議員を脅威とする「偽リベラル」の反発」
基本的に杉田議員がどのような人かを説明している文章。「これは理不尽と感じるテーマに、損得抜きに突っ込んでいく」人で、「少し言葉足らずで揚げ足を取られているだけ」である由。「杉田氏の問題提起は、偽リベラルともネトウヨとも違って、汚い言葉遣い、個人への人格攻撃というようなものとは無縁」なのだそうだ。あれそうだっけ?と思う方は少なくなかろう。
(6)KAZUYA「寛容さを求める不寛容な人々」
「当事者は特別扱いを求めているのではなく、普通に静かに暮らしたい」にもかかわらず、「当事者ではない外野が騒ぎまくって、LGBTが腫れ物扱いされること」を懸念している。「杉田氏を批判する勢力は寛容な社会を求めています。しかしその寛容さはどこまで行くのか?そして寛容さを求める勢力が、過剰反応で杉田氏を徹底的に潰そうとする不寛容さは一体何なのか」、と疑問を呈している。寛容と不寛容の関係も今日の社会では大きなテーマではあるという点で、主張全体への賛否とは別に考えさせるものがある。どの立場にせよ、自らが正しいと信じるがゆえに異なる考えの人に暴言を吐いてよいということはない。ならばぜひ、不寛容な方々の不寛容な発言にも突っ込んでいただくといいと思う。
(7)潮匡人「「凶悪殺人犯」扱いしたNHKの「人格攻撃」
NHKへの批判。「公共放送がプライム枠の看板報道番組で全放送時間の六分の一を費やし、これほど非難誹謗すべき過失ではあるまい」だそうである。よほど嫌いらしい。
まあこんなところ。事実に反するもの、読むに値しないもの、賛同しかねるものもあるが、松浦氏の論考など、考えるべきものもある。好き嫌いは個人差なので、今後新潮社の本は買わないみたいな態度も当然アリだろうが、不買運動みたいなことはいかがなものかと思う。新潮社が商売のためにこんなひどい本を作った!と怒る人がいるのはわかるが、少なくともこれらの内容は、誰もが目にするものではない。表紙だけでは内容はあまりわからないし、そもそも手に取ってみようとか買ってみようとかいう人はあまりいないだろうし。世の中について知りたい人は、こうした意見があることを知っておくのも悪くはない(昨今、ラノベの表紙でいろいろ議論があるようで、中にはゾーニングをすべきだという意見の人もいるだろうが、その考え方でいくなら、『新潮45』も成人指定とかしたらいいかもしれない)。
ぬるい意見で、憤っている皆さまには申し訳ないが、基本的に言論はできるだけ自由であるべきと考える派なので、こういう意見になってしまうわけだ。というか、この特集はさておき、連載が意外に面白かったのだ。ぱらぱらめくって面白かったのはこんなあたり(武田氏のは連載じゃないみたいだけど)。やっぱり書き手の質って重要だなあ、と改めて思う。
武田徹「ネットの「扉」をどう閉めるか? YouTube「動画削除」という闘争」
鹿島茂「二本史 家族人類学的ニホン考 1 東西日本で分れる家族のかたち」
稲泉連「廃炉という仕事 7 イチエフ点描「普通の現場」へ」
福田和也「総理と女たち 9 近衛文麿と毛利の令嬢」
片山杜秀「水戸学の人間学 39 宜しきときに攘夷すべし」
以上、感想も含めたメモ。まあ今後買うことは当分ないだろうけど。
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