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March 20, 2020

『Fukushima 50』感想

Fukushima 50』については別記事で書いたのだが、そこで書かなかった映画自体の感想についてごく手短に。

 

この作品については、海外メディアから「Fukushima 50」と呼ばれた人々を英雄化することで事故の責任を糊塗しようとしているといった批判があるようだが(確かに予告編はそれっぽくもみえる)、本編を見た限り、そうした批判はあまり的を射ていないように思われる。

確かに作中、首相と東電本店が悪者にされているが、だからといって福島第一原発で働く現場の人々が英雄として持ち上げられているかというと、そうでもない。ハリウッド映画なら、これでもかというぐらいにしつこくわかりやすく彼らの行動をかっこよく描くところだろうが、本作における「Fukushima 50」は、意外なほど「英雄」として描かれていない。予告編にあった「奇跡」は、2号機の水蒸気爆発を避けられたことなのだろうが、それは彼らの超人的な活躍によるものではなく、なぜそうなったのかすらわからない。

作中、1・2号機当直長、伊崎利夫役の佐藤浩市が「俺たちは、何か間違ったのか?」と吉田所長に問いかける。彼らは「間違った」人々として、それゆえに危機に立ち向かわざるを得ない立場に追い込まれたふつうの人々として描かれていた。当時、刻々伝えられる震災と原発事故の報道をみながら似たようなことをツイートしたのを思い出す。

この作品を「当時の政権や東電を批判するべきなのにしていない」と感じた人、事故の原因や復興の遅れから目をそらすことで現在の政権を擁護しているとみる人もいるのだろう。そうした見方ももちろんあっていい。しかし他の見方もあっていいわけで、私はそのように見た、ということだ。どちらが正しいという話でもない。この作品によって記憶がもう一度呼び起こされ、福島や日本の現状と将来について考えるきっかけになるなら、この映画はその目的を果たしたといえるのではないか。

個人的な感想としてもう1点だけ。ラストシーンで、「東京オリンピックは復興五輪として位置づけられ、聖火リレーは福島を起点としている」と語られる。しかし実際には復興は思うように進まず、むしろオリンピックの準備のために復興が犠牲になっているとの声もある。この間、避難先で人々は新たな生活を続けていて、避難対象となった地域のコミュニティは急速に弱体化しつつある。この作品のテーマとはずれるから当然ではあろうが、映画はこの点には触れていない。

そして今、東京オリンピック自体が新型コロナウィルス感染症の影響で、その開催自体を危ぶむ声すら出る状況となっている。福島からスタートする国内の聖火リレーも、現在の状況では、観客が集まって見守る一般的なかたちにするのは難しいだろう。考えてみれば、このオリンピックは、一生懸命メディアが盛り上げようとしている一方で、競技場やロゴをめぐるゴタゴタ、誘致プロセスでの不正疑惑、暑さ対策のしょぼさなど、いってみればケチのつき通しだ。

この状況に、「復興五輪」と銘打って誘致しながら実際の復興をないがしろにしてきた現状とどこか通じるものを感じる。そしてそれは、うわべだけ、ことばだけ取り繕ってごまかしてきた政治や社会のあり方、大きなリスクに気づきながら改善せず絶対安全と言い続け、いざ事故が起きたら想定外ばかりで何も準備できていなかった原発のあり方とも通底する。いわば日本という国そのものへの疑問だ。その意味で伊崎の問いは、私たちにも突き付けられている。「なめていた」のは「自然の力」だけではない。「俺たち」は今もなお「間違い」続けているのではないだろうか。

 

 

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